本日、東京都が八ッ場ダム建設に公金を支出することを差し止める訴えを都民が起こした八ッ場ダム住民訴訟の控訴審で不当判決が下った。予想通りの結果だが、見れば見るほどふざけた日本語である。
子供たちに見せたくないような判決文は見たくないと、以前のブログに書いたが、遺憾ながら教育上よろしくない文章の典型的なものとなってしまった。怒りにまかせて、この文章を一気に書くことにする。
利水
東京都のおこなった水需要予測が事実無根の法外なものであるという控訴人の主張に関して、判決文では、(東京都の水需要予測の)「計算過程が直ちに合理性を欠くものとは認められない」として棄却した。
ただ、一審判決では、「以上の計算過程に何ら不合理な点は窺えない」となっていた。控訴審判決では行政の計算を合理的と認めることもしない文面に変更された。この文面を読むと、裁判所は「将来は不合理となるであろう」ことを暗に認めているように読める。
治水
八ッ場ダムを造っても東京都が、河川法第63条1項に規定するような「著しく利益を受ける」ものではないという控訴人の主張に関して、判決文は、「仮に『著しく利益を受ける』ものではないと認められる余地があるとしても、これが明白であるとは認められない」として棄却。
これに関しても、八ッ場ダムに治水上の著しい利益はなさそうだと裁判所も認めざるを得ないようだ。「そう認められる余地はあっても明白ではない」という訳の分からない日本語になっている。
治水に関しては、私は意見書を5通書いて、国交省とその計算を追認した日本学術会議の学者たちの誤りが明らかであると指摘し続けてきた。私の意見書に関しては、「検証は、第三者的で独立性の高い学術的な機関である日本学術会議によって、専門的な知見に基づいて行われたものであり、その内容が科学的に合理性に欠けることが明らかであるとは認められない」として棄却された。
しかしながら、さしもの裁判所も、「独立性の高い日本学術会議による検証であるから、科学的に合理性がある」とは言えなかったわけである。それでこのような訳の分からない日本語になったのだろう。学術会議の検証が科学的に不合理であることが明白になったときも、逃げられる余地を残した判決文といったところだろうか。科学的な問題に関しては、裁判所は完全に思考停止で何ら客観的な判断を下そうとはしていない。
実際には「日本学術会議の検証が科学的に合理性に欠けることは明らか」である。この判決文は本当に悔しい。国交省の計算のインチキを明白にしてやらねば気が済まない。全国の良心のある学者たちに心より協力を呼びかけたい。
地すべりの危険性
八ッ場ダムのダムサイトが湛水すれば地すべり災害を誘発する危険性が高い地質的に脆弱な場所であるという主張に関しては、「八ッ場ダムの貯水池周辺の地すべり対策及び地すべり対策技術指針(案)に重大かつ明白な瑕疵があるとは認められず、また、これが著しく合理性を欠くものとも認められない」。
地すべりの危険性はあっても、「明白な瑕疵」ではなければ建設OKであると言いたいらしい。いったい何を証明すれば明白な瑕疵と認定されるのだろう? 初めから科学的判断は保留しているだけである。将来、地すべりが発生したときには、この判決を下した裁判官にも責任の一端があろう。
遺跡と自然環境の破壊
八ッ場ダム建設によって縄文から江戸までの貴重な遺跡の数々が破壊されるにも関わらず、適切な環境影響評価が実施されていないという主張に対しては、「仮に、控訴人らの主張するような環境影響評価が実施されていないという余地があるとしても、それによって、国土交通大臣による受益者負担金納付通知が、違法となり又は予算執行の適正確保の見地から看過し得ない瑕疵を有することになるとは認められず」・・・・(中略)また(東京都が)「適切な環境影響評価が実施されているか否かまでをも検討して、受益者負担金の支出の判断を行わなければならない財務会計法規上の義務を負っているとも認めがたい」という。
つまり国の計画がいかに杜撰でも、国から納付書が届けば、地方自治体は粛々とダム建設費を負担しなければならないのであって、地方自治体には計画の杜撰さをもって国の判断を取り消す権限はないと言いたいらしい。
裁判が終わった後、傍聴席から出てくる折、「もう日本には三権分立なんてないんですね」と私がつぶやくと、傍聴に来ていた女性が「三位一体でしょ」と笑っていた。皆で笑うしかなかった。
子供たちに見せたくないような判決文は見たくないと、以前のブログに書いたが、遺憾ながら教育上よろしくない文章の典型的なものとなってしまった。怒りにまかせて、この文章を一気に書くことにする。
利水
東京都のおこなった水需要予測が事実無根の法外なものであるという控訴人の主張に関して、判決文では、(東京都の水需要予測の)「計算過程が直ちに合理性を欠くものとは認められない」として棄却した。
ただ、一審判決では、「以上の計算過程に何ら不合理な点は窺えない」となっていた。控訴審判決では行政の計算を合理的と認めることもしない文面に変更された。この文面を読むと、裁判所は「将来は不合理となるであろう」ことを暗に認めているように読める。
治水
八ッ場ダムを造っても東京都が、河川法第63条1項に規定するような「著しく利益を受ける」ものではないという控訴人の主張に関して、判決文は、「仮に『著しく利益を受ける』ものではないと認められる余地があるとしても、これが明白であるとは認められない」として棄却。
これに関しても、八ッ場ダムに治水上の著しい利益はなさそうだと裁判所も認めざるを得ないようだ。「そう認められる余地はあっても明白ではない」という訳の分からない日本語になっている。
治水に関しては、私は意見書を5通書いて、国交省とその計算を追認した日本学術会議の学者たちの誤りが明らかであると指摘し続けてきた。私の意見書に関しては、「検証は、第三者的で独立性の高い学術的な機関である日本学術会議によって、専門的な知見に基づいて行われたものであり、その内容が科学的に合理性に欠けることが明らかであるとは認められない」として棄却された。
しかしながら、さしもの裁判所も、「独立性の高い日本学術会議による検証であるから、科学的に合理性がある」とは言えなかったわけである。それでこのような訳の分からない日本語になったのだろう。学術会議の検証が科学的に不合理であることが明白になったときも、逃げられる余地を残した判決文といったところだろうか。科学的な問題に関しては、裁判所は完全に思考停止で何ら客観的な判断を下そうとはしていない。
実際には「日本学術会議の検証が科学的に合理性に欠けることは明らか」である。この判決文は本当に悔しい。国交省の計算のインチキを明白にしてやらねば気が済まない。全国の良心のある学者たちに心より協力を呼びかけたい。
地すべりの危険性
八ッ場ダムのダムサイトが湛水すれば地すべり災害を誘発する危険性が高い地質的に脆弱な場所であるという主張に関しては、「八ッ場ダムの貯水池周辺の地すべり対策及び地すべり対策技術指針(案)に重大かつ明白な瑕疵があるとは認められず、また、これが著しく合理性を欠くものとも認められない」。
地すべりの危険性はあっても、「明白な瑕疵」ではなければ建設OKであると言いたいらしい。いったい何を証明すれば明白な瑕疵と認定されるのだろう? 初めから科学的判断は保留しているだけである。将来、地すべりが発生したときには、この判決を下した裁判官にも責任の一端があろう。
遺跡と自然環境の破壊
八ッ場ダム建設によって縄文から江戸までの貴重な遺跡の数々が破壊されるにも関わらず、適切な環境影響評価が実施されていないという主張に対しては、「仮に、控訴人らの主張するような環境影響評価が実施されていないという余地があるとしても、それによって、国土交通大臣による受益者負担金納付通知が、違法となり又は予算執行の適正確保の見地から看過し得ない瑕疵を有することになるとは認められず」・・・・(中略)また(東京都が)「適切な環境影響評価が実施されているか否かまでをも検討して、受益者負担金の支出の判断を行わなければならない財務会計法規上の義務を負っているとも認めがたい」という。
つまり国の計画がいかに杜撰でも、国から納付書が届けば、地方自治体は粛々とダム建設費を負担しなければならないのであって、地方自治体には計画の杜撰さをもって国の判断を取り消す権限はないと言いたいらしい。
裁判が終わった後、傍聴席から出てくる折、「もう日本には三権分立なんてないんですね」と私がつぶやくと、傍聴に来ていた女性が「三位一体でしょ」と笑っていた。皆で笑うしかなかった。