代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

憲法と赤松小三郎としんぶん赤旗

2017年01月09日 | 赤松小三郎
 先月上梓した拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新 ーテロに葬られた立憲主義の夢』(作品社)の反響が徐々に出始めています。手前ミソで恐縮ですが、いくつかの反響を紹介させていただきます。
 12月31日の大晦日には、『東京新聞』(特報面)、『信濃毎日新聞』(文化面)、『中日新聞』(長野版)がそれぞれ紹介記事を書いてくださいました。三紙に感謝申し上げます。インターネット書店にもすばらしい読者書評が投稿されています。ありがたいことでした。感謝申し上げます。
 驚きであったのが『しんぶん赤旗』が1月6日の一面のコラム「潮流」で、赤松小三郎と拙著とを紹介してくださったことです。私にとって、たとえ『聖教新聞』が拙著を評価することはあったとしても(それも普通にはありそうもないことですが・・・)、『しんぶん赤旗』が評価してくれるということは全くの想定外でした。
 というのも、拙著において、日本共産党公認の「講座派マルクス主義」による明治維新の解釈を、「皇国史観」と何ら変わらないドグマであると批判しているからです。『しんぶん赤旗』を講読する知人からの連絡でコラムの内容を知った時、純粋に驚きました。また、コラムの内容もすばらしいです。『しんぶん赤旗』に、心より感謝申し上げます。全文は以下のリンク先にあります。一部、引用させていただきます。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-01-06/2017010601_06_0.html

「真田丸ブームにわく信州・上田城を訪ねたときのことです。城址(じょうし)公園の一角に、幕末の洋学者、赤松小三郎を紹介する小さな展示館がありました▼何気なく入って驚きました。上田藩の下級武士だったこの人物が、いかに先駆的な考えの持ち主だったか。(中略)
37歳で京都で暗殺された赤松はこれまで歴史の表舞台から隠れてきました。しかし近年、その業績が掘り起こされ、現行憲法の理念を先取りし、立憲主義を説いた人物として光があてられています(中略)
憲法施行70年の今年は赤松の死から150年の節目にあたります。国家が国民を縛る改憲に執着する安倍首相。それがいかに時代の歩みを後戻りさせるものか。歴史の足跡が教えてくれます。」




2017年1月6日の「しんぶん赤旗」1面コラム「潮流」

 お堅いイメージの共産党の幹部の方が、「真田丸」ブームに乗って上田城に観光に来ていたというのも微笑ましいエピソードですし、そのついでにフラッと城址にある赤松小三郎記念館に何気なく入って、小三郎の思想の先駆性を知って驚いたというのも大変興味深い事実です。
 というのも、インテリ左派政党の幹部ともなれば、日本でも有数の知識人ですが、それだけの知識人であっても、真田丸ブームで上田城に来るまでは赤松小三郎の建白書を知らなかったようなのです。まあ、通常の明治維新関係のどの本を見ても普通は出てこないのですから、日本有数の知識人であっても知らなくて当然ではあるのですが・・・。

 拙著の中では、赤松小三郎の存在が維新史において無視されてきたのは、戦前の「皇国史観」も、戦後の歴史研究をリードしてきた共産党系の「講座派マルクス主義史観」も、ともに薩長中心の歪んだ明治維新神話を信仰してきたからだと批判しています。つまり明治維新の解釈が歪められてきた、その責任の一端は共産党にもあるのだと書いたのでした。

 拙著では、自民党の清和会を「長州右派」、共産党を「長州左派」と呼んで、両者とも根は同じとまで批判させていただきました。自民党も共産党も、幕末長州の吉田松陰と松下村塾の政治運動のエートスを継承しているということは、本書を読んでいただければ納得していただけると思います。自民党員にとっても共産党員にとっても、もっとも一緒にされたくないであろう相手と思想的な「根は同じ」と言われるのは心外であったろうと思います。
 
 それにも関わらず、しんぶん赤旗の一面のコラムで拙著が紹介されているのですから、書いた本人としては驚かないはずがありません。
 共産党系の歴史学者の中には、拙著を読めば怒る方も多かろうと思います。その拙著を評価した「しんぶん赤旗」には抗議が寄せられるかも知れません。
 これを機に共産党としても、従来の講座派理論に対する本格的見なおしの動きを活発化させて下さることを、外野の人間として期待させていただきます。




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13 コメント

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ジョン万次郎事跡の誤認のお詫びと、定石である英国の分断支配戦略について。 ( 睡り葦 )
2017-03-26 16:59:05

 「森友」長州式少国民軍国洗脳教育計画事案のみならず、私事にて言及することが恐縮ながら、生業に関連する課題である「金融制度としての現代会計の不条理」にずっと気を取られてしまっており、先回の続きの投稿をとりまとめるのが今になりました。

 まずお詫びを申し上げます。先の投稿で、万次郎がペリー来航の前に旗本直参に取り立てられたと書いておりましたのは誤りでした。早とちりをしまして申しわけありません。

 土佐の歴史研究者である永国淳哉氏編による『ジョン万次郎』(新人物往来社、2010年)巻末の永国淳哉氏作成「中浜万次郎関係年譜」によれば、1852年の12月4日(以下和暦)に土佐の新規定小者に召し抱えられて高知城下の教授館に出仕することとなった万次郎は、翌年1853年6月3日にペリーが浦賀に来航して足かけ10日間滞在して帰帆したあとの6月20日に江戸に呼び出され、8月1日に高知を出て8月30日に江戸着、10月末に江戸公儀に意見書を具申し、11月15日に旗本直参、御普請格、二〇俵二人扶持となり、中浜姓を名乗っています。そしてその翌年1854年1月16日にペリーが再来航し、3月3日に日米和親条約締結となります。

 また同書所収の山本大氏(論文執筆時、高知大学名誉教授)「万次郎帰国と鎖国日本」によれば、伊豆韮山の代官であった江川担庵はペリー第一次来航後の1853年6月19日に江戸公儀の勘定吟味役格に任じられ、門人大槻盤渓が高く評価して林大学頭に登用を願い出ていた万次郎を自分の片腕とすべく配属を願い出、即刻公儀は6月20日付けで万次郎召し出しの書状を出した、とのことです。

 進歩的で、製鉄反射炉の建造に取り組み、兵食にするためパンを研究し焼き方を広めたとされる江川担庵と万次郎をワンセットで考えていた人が公儀にいたのではないかと思えます。万次郎が江戸に着くとすぐに出仕命令があり、主席老中阿部正弘、大学頭林復斎、勘定奉行川路聖謨と江川担庵の前でアメリカの歴史、国情、大統領選挙や政治、経済、海軍の強大さ、捕鯨、ペリーやアメリカ人の気質について詳細な説明をしたとのこと。なお、1855年に徳川斉昭の強要によって老中職を解かれる松平忠優(のち忠固)はこのときまだ阿部正弘のもとにいたことになります。

 1853年11月5日に万次郎は御普請役格になり、同月22日に江川担庵の「手付」を命じられて江川家江戸屋敷に移り、担庵のもとで外交にたずさわり、翻訳の仕事をしたとのことです。

 江川担庵はペリーの再来航の際に浦賀水道を通過して江戸湾の内海に入ろうとするペリーに対する交渉を命じられ、そこに万次郎を起用しようと阿部正弘に願い出ましたが、徳川斉昭が阿部正弘に圧力をかけて万次郎の任用を潰したそうです。

 関さんが疑問を呈しておられるとおり、阿部正弘がなぜ、いわば極右の元凶である、この水戸烈公を海防参与にしたのか、「なにを考えているのか」と思いますが、徳川斉昭が日米和親条約の締結に抗議して海防参与を辞したということから考えますと、公儀閣内に参加しようがしまいが尊皇攘夷の大拡声器として「開国」路線をかく乱するであろう徳川斉昭を野放しにせず公儀内に取り込むことによって牽制しようとしたのであろうと推察します。徳川御三家の一つである水戸が、長州や薩摩の尊皇攘夷勢力と公然と結びつくことを封じようとしたのではないでしょうか。

 若者としての米国での生活をとおして知識欲に燃え、際立って博学であった万次郎は、薩摩と土佐、そして江戸公儀において米国の政治制度を含め、先進的な技術や文物についての勉強会を繰り返していたわけで、赤松小三郎が少なくとも間接的に万次郎の伝えるものに触れる機会はあったであろうと思います。

 ただし、中浜万次郎が米国の政治制度、大統領公選制による民主主義を称揚したのに対して、赤松小三郎は権力の個人への集中に批判的であり、あくまで公選議会を政治の中心に置く政体構想を提案したことは非常に興味深く、彼が立憲構想を自分の頭で根本から考えていたことを示していると思います。

 「ジョン万次郎の帰国と旗本直参としての公儀の外交への関与」が、思いつきの「ペリー来航日米合作」説の状況証拠となりうるかどうかきわめて微妙ではありますが、さらに出鱈目を言いますと、1846年に、のちのペリーと同じく浦賀に来航したビッドルによる阿部正弘に対する「開国打診」に合作のスタートがあったのではないかと考えます。ちなみに老中阿部正弘のみならず、担当通訳が堀達之助であったということが共通ています。

 ビッドル来航においては、偶発的な行き違いによる一触即発のアクシデントがあり、これによってむしろ、雨降って地固まる的に日米の信頼関係が生まれたというエピソードが伝えられております。そういうことはことのほか嗅覚を刺戟するものです。

 考えてみれば、「鎖国」という言い方は、中央政権である江戸公儀による海外交易の独占を、それを禁じられた大名の地方政権から見てのものとなると思われますから、よく言われる日本の鎖国vs日本の開国というフォーマットはあらためて見ますと奇妙に思えます。
 すなわち「鎖国」を解いて「開国」するというのは、オランダと清国との長崎におけるものに限定された交易について、その対象国の範囲をアメリカ、イギリス、フランスに拡げ、また長崎以外の各地を貿易港をとするということではなく、各大名の地方政権のもとにある産物や商人を海外交易に参加させるという意味であり、「『地方分権の諸国それぞれを海外に対して『開国』する」ということになります。
 そこで巨大な密貿易利権を固守しようとする薩摩勢力はともかく、水戸が「尊皇攘夷を叫んで開国に反対する」ということが一体なんなのだろうということになります。水戸には海外と交易できるものがなにもなかったのかもしれません。

 いずれにせよ、阿部正弘が「開国」の当事者となる各大名の意見と同意を執拗に求めたのは蓋し当然のことであると思います。

 それはそれとして、以下は旧「陰謀論者」名の投稿にすべきものになってしまいますが、アメリカを実質的に「鎖国」させ日本を含むアジアからフェード・アウトさせる結果となった南北戦争を、アメリカとドイツに産業革命で追いつかれて世界覇権に翳りが見えたイギリスによる謀略であったと考える鍵は、奴隷制度の廃止にあるのではないかと思いあたりました。
 イギリスが奴隷制度に対する批判攻撃をその「自由貿易帝国主義」の政治的武器として活用したとされており、これをアジア進出で追い上げてくる米国を国内分断して勢いを削ぐために応用したのではないかという憶測です。

 あろうことか、ロスチャイルド陰謀論者によればかのビスマルクが1876年に「南北戦争は欧州の金融権力によって誘発された」と話しているとのこと。南北戦争の当の実行者のリンカーンが暗殺されたのは、アメリカの貨幣制度を欧州金融権力の意に沿わないかたちに改革したためではないかとのことです。すみません、陰謀論には土地勘がありませんのでここで逃亡させてください。

 ともあれアングロサクソン・イングランドによる、ポスト植民地主義としての自由主義的帝国主義すなわち自由貿易帝国主義における定石戦略が、植民地支配で磨かれた分断支配方式であるということから、関さんのご期待に反する不幸な結果となった南北戦争同様に、ひょっとしたら明治維新という代物が、イギリスがたくらんだ日本列島の自由貿易帝国主義による分断間接支配の「失敗」であったりするかもしれない、と歴史の展開の苦さを噛みしめています。

 なお、ペリーと結んだ日米和親条約は「通商開国」条約ではなく、「開国」にあたってはアメリカに最恵国待遇を与えるという条項のみを含んだ国交開始条約でした。加藤祐三氏の『幕末外交と開国』(ちくま新書、2004年)によれば、交渉担当の応接係はアメリカとの条約を優先させてそれを維持することが欧州列強に対する防波堤となると考えていたらしく、ペリーからの武器贈呈を受けて老中に「もし後に、他国から戦争を仕掛けられても(外寇があるときは)、これと同じ武器でアメリカの加勢があろうから、負けることはありません(御国威を立申候)」と上申していたそうです。

 日米和親条約は、要するにイギリスを仮想敵国とする日米安保条約であったわけです。
 しかし、1858年に日米通商修好条約となったこの体制は、1861年に始まる米国の内戦つまり南北戦争によって実質的に無力化されます。
 南北戦争たけなわの1863年5月に長州攘夷派はアメリカ商船を攘夷砲撃し、続いてフランスの通報艦、江戸公儀に対するオランダの公式外交代表が乗艦したオランダ東洋艦隊の一隻まで攻撃し、下関海峡を封鎖しました。

 Wikipediaソースですが、イギリス艦船は長州攘夷派の砲撃をまったく受けなかったにかかわらず、英駐日公使オールコックは、オランダ、フランス、アメリカを含む四国連合による下関攻撃を計画、本国が武力行使に消極的で封鎖を静観するスタンスであり、国家間の戦争に発展する懸念からオールコックの計画を否認するイギリス外務省の訓示が到着する前に攻撃を独断裁量で実施、イギリス軍艦9隻、オランダ軍艦4隻、フランス軍艦3隻、依然南北戦争継続中のアメリカの仮装軍艦、しかもたった1隻!よりなる17隻の多国籍軍をイギリスの司令官による指揮の下に動員して、1964年8月に上陸戦闘を含む局地戦争をおこなって下関海峡を「開放した」わけです。

 イギリスはこれによって外交関係におけるアメリカの優位を完全に覆し、長州攘夷派の非行を利用して江戸公儀に対して優位に立つことができ、関さんが以前の記事で明らかにされたように、関税率を中国(清国)並みに引き下げて「自由貿易体制」に移行させたわけです。すべて南北戦争継続中のできごとでした。
返信する
続編お待ちしています ()
2017-02-17 15:54:06
睡り葦さま

 しばらく多忙で返信できずすいませんでした。すばらしい論考の続編をお待ちしています。

>「起きたことはよいことだ」として「偉大な合理的事実としての明治維新」を前提に考えるというお約束をはずす人はいません。

 確かに。この点については皇国史観とマルクス史観は共犯関係ですね。

>あのペリー艦隊来航というのは、当時の徳川公儀と米国それぞれの特定勢力による合作ではないだろうか
>当時の公儀側のおちついた余裕のある対応からして

 壮大な仮説だと思います。しかし、それならば老中の阿部正弘は、よりによって徳川斉昭なんかを海防参与なんかにしてはいけなかったはずですが、斉昭を引き込んだことが国内を混乱させる原因になってしまったように思います。

>工業国家として組織的に発展しつつあった北部に、国家としての体をなしていない農村南部がにわかに挑むという無理筋の内乱は、感覚的にはおそらくイギリスの謀略によるものであると思えます

 これもすごい仮説です。実証するのは至難のように思えますが・・・・・・。
 いまにして思うのは、リンカーンは、南部をそっと独立させといてあげれば、今日のような悲劇的事態に陥ることもなく、南部保守層も、北部リベラル層も、今のような精神的ストレスを受けずに済んだのではないかということです。今からでもアメリカは、分割して二つの国家に分けた方がよいように思えます。

 続編お待ちしております。

返信する
「『帝国主義に向かう先駆的新自由主義革命』としての明治維新」と「トランプ『反革命』」(その1)。 ( 睡り葦 )
2017-01-29 20:18:12

 関さん、ご指摘いただいた「明治維新後の寄生地主の凶暴化」という事実に着目することは、大石慎三郎氏の「維新の最大の受益者=寄生地主論」のさらに先をゆくことになるのみならず、講座派と労農派の論争の次元を一気に越える踏み台になるのではないかと思えます。
 とうてい手に負えませんから、そこに注目して維新論を書き換える方がいつか現れることを期待します。

 りくにすさん、「入会」はいわゆる法律学(法規範学、法解釈学)がまともに扱うことができない問題であり、かって「科学としての法律学」を標榜して登場した法社会学の最重要の研究対象のひとつだったと思います。
 この「入会」は、聞くところによれば「はたして市民革命が前近代と近代を区分するものなのか」という問題提起につながるどころか、「社会が前近代から近代に移行するという前提はうさんくさいのではないか」という根源的な疑問を生み出すものですらあるとのことです。それを察知されたりくにすさんの感覚はすごいと思いました。

 関さんは特別の例外として、明治維新については会津派と彦根派以外は歴史学者を先頭になべてヘーゲル主義者になってしまい「起きたことはよいことだ」として「偉大な合理的事実としての明治維新」を前提に考えるというお約束をはずす人はいません。
 これに対する下町江戸っ子の啖呵のつもりで、当方のように21世紀の同時代に見たもの、あのソロスがらみらしい「色つき民主化革命」を機械的に明治維新にあてはめるだけですと、みごとに関さんが警告されるプロクルステスのベッド症候群に陥ることに腕組みしています。

 そこで考えますに、本質的には「先の侵略戦争の根源は明治長州維新」と喝破された関さんの夙の指摘を追いかけることにすぎませんが、明治維新以降の一連の近代化なるものの社会経済的なインパクトを歴史進化論メガネではなく庶民の目ですなおに見ることによって明治維新の解体新書ができあがるのではないでしょうか。
 たんに暗黒面を告発するというのではなく、明治維新迄の日本とその自律的な変化展開に対する、明治維新の反動的破壊性を冷静にあきらかにすることが可能ではないかと、上の寄生地主制と入会問題から考えるようになりました。

 『赤松小三郎ともう一つの明治維新』をこのような意識で読み返して気がついたことは、赤松小三郎の「口上書」全体にあらわれる考え方は、王権の制限ないし王の政治的実権の剥奪(責任内閣制)をモチーフとするイギリスの議会主義立憲政治思想ではないように思えることです。
 徳川公儀であれ天皇であれ突出した王権を前提としてそれに議会が対峙するという発想ではない、最初から人民議会が主役となっている自然さ、さりげなさが感じられると思いました。
 王制と社会的身分制とは最初から無縁だったアメリカン・デモクラシーの匂いがします。英国流の勉強をした赤松小三郎がなぜ? これを赤松小三郎を育んだ上田の政治経済的気風に帰することができようかと思いますし、また当時の経済社会が鋭敏な天才にはそのような着想をもたらすような変化をしつつあったのではないかと思いつつ、ふと、ある仮説的想像が浮かんでしまいました。

 そこで話が飛躍しますが、あのペリー艦隊来航というのは、当時の徳川公儀と米国それぞれの特定勢力による合作ではないだろうか、と考えてみたらどうだろうかと思いつきました。
 江戸時代初期の17世紀に世界ヘゲモニーの絶頂にあり18世紀以降には一気に凋落していたオランダから、あの悪辣無比の老練イギリスを激しく追い上げていたアメリカに乗り換えようとしたのではないか、と。

 驚くべきことに手もとの世界史の受験参考書には、ナポレオンの大陸封鎖に対抗したイギリスの海上封鎖に巻き込まれたアメリカ船が拿捕されたことから英米戦争(1812年〜1814年)に発展し、この戦争によってアメリカ人の国民意識大いに高まっただけではなく、イギリスへの経済的従属を断ち切って経済の自立性を打ち立て、産業革命に至った、とあります。

 見ますと、第二次独立戦争と呼ばれることがあるこの戦争は、アメリカ先住民がイギリス軍に味方したとして激しい攻撃の対象となり大規模に土地を奪われるという無惨な面を持ち、北米大陸における白人の領地拡張が思惑であったわけですが、首都ワシントンが陥落して英軍の手で灰燼に帰し、アメリカの旧宗主国イギリスに対する敵愾心は燃えあがりました。ご存じかもしれませんが、戦後に大統領官邸を再建する際に英軍に焼かれたあとを白いペンキで隠したところからホワイトハウスとなったということです。

 対英戦争のあと、アメリカはドイツ(プロシャ)とならんで1820年代に鉄道建設を軸とする産業革命を開始、ほぼ50年でイギリスを凌駕するところに達します。
 国内市場がすさまじい拡大をしていたアメリカと、国内市場が狭隘で海外市場を得るために帝国主義戦争に出て第一次世界大戦に至ったドイツとは対照的でした。
 国内市場拡大に依存することができた産業革命たけなわの頃に、日本との通商を求めて、大西洋から陸伝いにはるばる極東までたどりつかなければならない時代遅れの外輪式巨艦の艦隊を派遣するのはどうも不自然に思えます。

 そのころイギリスのメインの戦略市場であった中国(清)には、最初の民族主義民主主義革命と言える太平天国の乱(1850年〜1864年)が吹き荒れていました。その間、在アジア英国勢力は中国で手一杯であったと思われます。
 ペリーは1851年から日本遠征準備に取りかかり、米国ノーフォークを出航したのは1852年11月、オランダ商館長が米国からの情報または米政府の依頼にもとづいて、長崎奉行にペリー来航計画を伝えたのが1852年7月です。

 むろん腕力一本の軍人ペリーには直接的な任務だけが与えられたと思います。力尽くでやって来いと。しかし、ペリーを送り出したフィルモア大統領が、ペリーに対して発砲禁止の命令を出していたことが知られています。
 ペリーをオランダの拠点長崎ではなく、長崎から先に通訳を呼んであった江戸近くで迎えることを含め、当時の公儀側のおちついた余裕のある対応からして、充分に考えられ計画されたものであったことは明らかだと思います。

 そしてこのペリー来航からの流れで米国との通商条約が成立した1860年の直後から、太平天国の乱を収束させつつあったイギリスをバックにした長薩の攘夷テロが吹き荒れ、1863年薩英戦争を経て1864年に下関戦争で長州内の国際派・平和的改革派である「俗論派」が吹き飛ばされています。

 他方でアメリカはこの間に南北戦争(1861年〜1865年)という大規模な内戦で国際展開やアジア戦略どころではなくなるわけです。工業国家として組織的に発展しつつあった北部に、国家としての体をなしていない農村南部がにわかに挑むという無理筋の内乱は、感覚的にはおそらくイギリスの謀略によるものであると思えます。イギリスの謀略は永久にシッポをつかませないという点で、あの米CIAの強引で雑駁な謀略とは質が異なりますから想像することしかできませんが。

 ここで、注目するのが中濱万次郎です。そして先廻りしますと、万次郎と赤松小三郎の軌跡が不思議に交叉するのが気になります。

  Wikipedia 、そして「ジョン万次郎資料館」サイトの年表に拠りますと、万次郎が日本への帰国を決意したのが1850年5月、上海に向かって出発したのが1850年12月、琉球に上陸したのが1851年2月です。ペリーが日本遠征計画を練った時期にかさなります。
 万次郎は琉球からそのまま薩摩に送られ厚遇されて島津斉彬から米国の情勢や文化について説明し、斉彬の命により薩摩藩に造船術と航海術を教えています。
 その後、長崎奉行所で長期間尋問を受け、その後、故郷の土佐で後日土佐勤王党のテロに斃れる改革派の吉田東洋にコンタクト、1852年に土佐藩の士分に取り立てられ藩校の教授として後藤象二郎、岩崎弥太郎を教えています。

 万次郎は、ペリーが浦賀に来航する前、1853年に幕府に召聘されて、なんと驚くべきことに将軍に謁見する直参の旗本になってしまいます。ペリー来航にあたってはオモテに出ず、1854年の日米和親条約締結のサポートにまわります。
 なお、『赤松小三郎ともう一つの明治維新』年譜によれば、この年に赤松小三郎は勝海舟に入門し、1855年に勝のお供で長崎海軍伝習所に赴き、1859年の閉鎖まで伝習所にいます。

 この間に、万次郎は軍艦教授所の教授になり、のちにその責任者となる勝海舟に対して「アメリカでは高い身分に就いた者は、ますます深く考え、振る舞いは高尚になります。ここが日本と大きく異なるところです」と語り二人は意気投合したとか。
 万次郎は1860年に赤松小三郎が当時乗り組みを希望して叶わなかった咸臨丸の実質的な艦長となって、船酔いで倒れたままの勝海舟と日米通商修好条約批准書交換のためにアメリカに渡ります。
 公儀が米国と最初に通商条約を結ぶという動きに、万次郎の動きがきれいにクロスするように思えるのが興味深いところです。

 1866年には万次郎は土佐藩が新設し開成館の教授となって英語、航海術、測量術などを教え、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入しています。赤松小三郎は10月に薩摩から英国兵学の先生としてスカウトされ、京都で開塾します。
 万次郎は、1867年に薩摩藩の招きを受け鹿児島で航海術や英語を教授。9月に薩摩は土佐との盟約を破棄、赤松小三郎を暗殺します。10月、土佐の単独建白による大政奉還が行われ、12月に長薩のクーデターとなります。万次郎は、12月に薩摩を辞し江戸に戻っています。

 万次郎と赤松小三郎の動線は、あきらかにされている限り交わってはいませんが、微妙にクロスしています。

 ・・・以下、羊頭狗肉のタイトルのもと、どのように続けるべきか、思案しています。
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返信おくれてすいませんでした ()
2017-01-27 17:07:40
睡り葦様、りくにす様

 返信遅れて申し訳ございませんでした。
 寄生地主は江戸期からあったとは思いますが、明治のように歯止めのない収奪ではなかったと思います。「封建制」の枠がかかっていた分、近代資本主義ほど無分別な暴走には至らなかったのでしょう。

>彼の屈服を確信しているか、そうでなければJ.F. ケネディの二の舞に

 CIAや軍産複合体にしてみれば、いまのところ屈服を信じて、トランプの「調略」を試みているという段階ではないでしょうか。調略で落ちなかった場合、その次の手は考えていると思います。恐ろしい・・・・・。
 トランプには、孫子の兵法を活用してほしいものです。CIAを分断して、一方を使って他方を叩き、うまく飼いならすとか・・・・。
 まあ、そのくらいの知恵は持っているだろうと信じたいものですが・・・・・。
 
りくにす様
 入会地はいまもあちこちに残っています。
 明治以来、入会地は個人分割されたり、国有林に編入されたり、市町村有林になったり、生産森林組合のものになったり、財産区所有になった・・・・さまざまな経過をたどりつつ、いまだに入会林のままというものも全国各地に相当あります。

 上関原発の裁判では、神社が中国電力に売却した土地に入会地が含まれていたので違法であるということが、裁判の一つの争点になっています。国会で取り上げられたのも、こういう事例が邪魔くさいと官僚が思っているからかも知れません。

>どこまでが良識派で、どこまでが「ソロスによるパープル革命」なのかはわかりません

 私もよくわかりません。そういえばオリバー・ストーンがトランプを評価していました。ソロスも、トランプ叩きに狂奔するより、もっと他にやるべきことあるでしょうに・・・・。
 
返信する
今日でも入会地は存在する? (りくにす)
2017-01-20 14:35:21
横からすみません。
2,3年前、たまたま見ていた国会中継で、「入会地」の所有権についての質問があったので驚いたことがあります。
そういう土地は山林として存在するそうですが、権利者が複数で、相続人が都会に出ていたりいなくなったりするので処分もままならないそうです。再開発するにしろ治山事業を行うにしろ権利者を捕まえるのが大変なので民法を変えて何とかしたいという質問でした。
さて、トランプ大統領ですが、就任前から引きずり下ろし運動が起こるなんてふつうではありませんね。
どこまでが良識派で、どこまでが「ソロスによるパープル革命」なのかはわかりません。富豪たちは「新大統領がサンダースでなくてよかった。穏健に下せる」とか思っているのではないでしょうか。
返信する
ありがとうございます。トランプが心配です。しかし、もし。 ( 睡り葦 )
2017-01-19 20:39:16

 気が急いて幼稚な拙考を的はずれに投擲しまして申しわけありませんでした。大石慎三郎氏によれば、寄生地主は「江戸時代後期である化政期にはかなり一般的にみられる存在になっている」とのことでしたので、自分で見たわけではないのにその気になりまして。

 井上勝生氏は『幕末・維新』(岩波新書、2006年)において、明治維新政府大蔵官僚が入会地という共同所有用益地(つまり社会的共通資本)を認めず、その結果、日本農業を停滞させその近代化を阻害したことについて触れています。彼らには入会地が封建的に見えたのでしょう。
 地租改正は租税を公定地価ベースの金納にしたため、その後の松方デフレで税滞納破産した農民の土地がみごとに大地主の手に落ちたとのこと。

 地主問題はそれとして、いわゆるマニュファクチュアが天保期にはじまり、同時に日本の人口が成長し始めたこと(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2000年)、そして以降商品経済が拡大を続け、特産品に力を入れた多くの藩が企業経営体のようになったこと、これからして、講座派が経済社会の近代化すなわち明治維新の開始を天保期においたということは至当に思えます。
 しかして、日本の近代化に、しかも半近代化のために、なおあのような「維新」を必要としたとは・・・

 「お手本イギリス」といえば、ロンドンに密航留学した長州ファイブは、一体何をイギリスで学んだのでしょうか。議会制民主主義はまったく目に入らなかったと? なにかべつの訓練を受けたのではないかと疑いたくなります。

 できれば、投稿を週末にあらためたいと思いますが、就任式を目前にしてなお信じられないほど手ひどい総攻撃を受けているトランプがひどく気になります。
 知的でお上品なはずのリベラルを先頭にまさに見境なく恥じることもなく、そこまでするというのは、彼の屈服を確信しているか、そうでなければJ.F. ケネディの二の舞に、と。あるいは関東軍まがいにNATOが一気に対ロ戦端を開いて足をすくうのか。

 トランプが斃れたら、そのときこそ、米国の民衆が真に立ち上がるときになること、それを祈ります。
 しかし、なにゆえ皆さん、これほど悪辣な存在が跋扈する惑星に生を受けなければならなかったのでしょう。こちらではいったいなぜ長州がこのように。

返信する
寄生地主とジェントリ ()
2017-01-19 00:42:49
睡り葦さま、renqingさま

>近代英国をリードしてきた人間が事実上「不在地主」であるのに、なんで自国の同じ階層・階級にこうまでネガティブなのか。

 私は、英国史に詳しくないのですが、英国のジェントリ層って、日本でたとえれば旗本くらいに相当する階層のように思えます。だとすれば、両者、社会的に尊敬を集める知識層といえるように思えます。

 日本の寄生地主制は、江戸から存在したとはいえ、本格的に発達したのは地租改正以降の明治時代だと思えます。土地売買が自由化され、地租を払えなかったり借金を抱えた農民から土地を奪い取っていった、「強欲成金層」と考えてよいと思います。
 私利私欲にまみれた人々だったので、旗本と違って尊敬の対象にはなり得なかったのではないでしょうか。
 寄生地主階級は近代資本主義の産物で、封建的土地制度のもとでの近世期の旗本や諸侯とは全く異なる階層だと思います。

 講座派最大の間違いの一つは、本質的に資本主義的土地所有である寄生地主を「封建遺制」と解釈してしまったことだと思っています。
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英国上層階級と江戸期から戦前日本の寄生地主の相違について。 ( 睡り葦 )
2017-01-17 00:55:48

 寄生地主を連呼いたしまして大変失礼をいたしました。
 手もとの世界史受験参考書の叙述にありますように独立自営農民(ヨーマンリー)の産業資本家化を中心に英国の近代化を見るパタンが邪魔をして、金融と貿易のいわゆる「ジェントルマン資本主義」が英国の強さの真の源泉であり、パックス・ブリタニカをもたらしたことを見失なわせるのかと、そのように理解いたしました。

 加えて、おそらく英国の貴族とジェントリに対して、徳川吉宗の時代に公認されて以降急速に増加した寄生地主(すみません)が大きく異なることが、江戸期及び戦前日本の寄生地主(不労地主)に対する偏見をもたらしているのではないかと思います。
 英国の上層階層とくにジェントリーは、地主であるだけではなく領主としての社会的機能、公正を旨とする行政機能を持ち、さらに献身的な戦士(騎士)であったのに対して、江戸期及び戦前の不労地主は、まさに小作料収得者であるのみ、であったからではないでしょうか。

 大石慎三郎『江戸時代』(中公新書、1977年)だけが手もとの典拠なのですが(逆井孝仁氏の論考に触れることができればと思いつつ)、江戸期の不労大地主は飢饉のときには小作争議つまり打ち壊し略奪から領主(藩)の保護を受けられず、自力の財力で懐柔をはかるしかなかったとのことです。
 天明の浅間山爆発による飢饉の際、上州一宮に発した一揆は三塚から上田領に向かうころは三千人の規模になっており、領主の保護、すなわち武力鎮圧を求めた小諸の地主たちに対して小藩の小諸藩は「城を守るのに精一杯、あんたらにかまっておれない」と応じたとか。

 かようにまことに「不遇」だった江戸期の不労地主たちの領主不信は幕末にはピークに達しており、彼らの小作料収入がようやく安堵されたのは明治政府による地租改正において最優遇を受けてからであったとのことです。

 申しわけないことに、英国のジェントリー及び爵位貴族についてはイギリスの産業革命が完成する1820年代に在位した悪名高いジョージ四世が宮殿と離宮に一冊ずつ置いて愛読したというジェイン・オースティンの『高慢と偏見』で触れた以外にはまったく存じません(ローレンス・オリヴィエが出ている映画作品のDVDを持っています!)。NHKで『ダウントン・アビー』を見ればよかったでしょうか。
 『ハリー・ポッター』の原型と言われる、アーサー王伝説ベースの『魔術師マーリン』は全篇動画配信で見ましたけれど、アングロ・サクソンは敵性侵入者として描かれておりまして、英国についてはどうしても夏目漱石のメガネを通じて見てしまうのがつらいところです。

 思い出しますと、休日に遠出をして目にしたお城は無骨な石の城砦ばかりで荒涼としており、その流れのせいか高名な大学の地の建物の壁からは不思議に血の匂いがしました。
 ドリトル先生のモデルになったという美しい小さな村はアヒルがとても可愛らしくすべてが夢のようでしたけれど。

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「不在地主」→「寄生地主」 (renqing)
2017-01-16 11:15:30
間違えました。

誤「不在地主」
正「寄生地主」

でした。
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「不在地主」とジェントルマン (renqing)
2017-01-16 01:01:02
上記、睡り葦さんがコメントの中で使われている「不在地主」という言葉に違和感が前々からありました。

高校日本史の教科書でも使用されている普通の講座派用語(?)なのですが、どうも私にはしっくりこない。なぜなら、日本史学での使用文脈ではネガティブなニュアンスなのに、イングランド社会の近世・近代を一貫して指導した身分はジェントルマン(貴族+ジェントリ)で、彼らの実態はとどのつまり、「不在地主」階級だからです。

現代のUKのでも、「ジェントルマン」への仄かな憧れは生き続けているのは、「ハリーポッター」の学生生活がパブリックスクールそのままであることにも滲み出ています。

近代日本人は、西欧の近代化、就中、英国の近代史に憧憬の眼差しで見つめ続け、自らのモデルとしてきました。その近代英国をリードしてきた人間が事実上「不在地主」であるのに、なんで自国の同じ階層・階級にこうまでネガティブなのか。

これは、英国近代を推し進めてきたのは「中間的生産者層」という人間類型だという大塚史学の誤解(虚妄?)が災いしているように感じます。

つまり、明治以降の大学アカデミズムで形成されてきたモデルとしての「西欧近代」像に深刻なエラーがありそうだということ。そして、それを思考枠組として、《自国史としての日本史》を裁断してきたことによる二重のエラーが在り、そのひとつの現われが「不在地主」である可能性を否定できないと思われます。

丸山真男の、前近代「である」価値から近代「する」価値へ、というシェーマも同様です。21世紀の現代でさえも、欧州(UKを含む)は社会の基本的価値観は身分の尊重・憧憬という「である」価値です。これが通じないのは、ふるい西欧へ反逆して形成された「する」価値社会の米国だけです。ちっとも西欧社会にフィットしない。

長州右派も長州左派も、重大なエラーを含む西欧像に基づいている訳で、その意味でも同根と言えるでしょう。
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長州ルーツとは、なるほど松陰パラノイアック・ミームすなわち前衛性偏執的自己愛症候群なのでしょうか。 ( 睡り葦 )
2017-01-15 18:31:34

 長州藩正義派を受け継ぐ一翼の長州左派たる講座派は明治維新を王政復古の絶対主義革命とし、かたや無宿系の労農派は、いやブルジョア革命であるとして、そこに長州右派を含めて文字どおり全員が、明治維新を「封建社会を打倒し変革した半革命または革命だ」と言っていることになります。

 気の毒にロシア革命のミメーシスとしての二段階革命論をモスクワから押しつけられた尻ぬぐいの理論的カバーを担った講座派による戦前日本社会論の縫い目には、見ますと二つのほころびが出てしまうようです。
 一つは、あの怖ろしい「天皇制」支配のトップに座らされているのは力を一身にそなえた偉大な皇帝ではなく、成人して大元帥の軍服を着せられたお稚児さんであることです。
 二つ目は、社会の基幹階級であるとされる寄生地主層は、農民と封建的関係にあるのではなく、土地を私的所有する地主と農業労働者としての小作人、という近代的関係にあることです。

 重大なことは、土地という生産手段を私的所有する寄生地主が明治維新によって突然発生したわけではなく、江戸時代後期に彼らはすでに事実上重要な社会階層となっていたと思えることです。
 明治維新とは、彼らが封建制という社会の外皮を内から食い破って、戦前社会の公然たる経済的主人公になるためのものであった、とすら言うことができる可能性があると思います。

 明治維新の結果、寄生地主層が議会開設後の衆議院議員の大半を占め、さらに彼らは株式に厖大な投資をして企業の大株主となって金融収入が地代収入をはるかに上回るようになっていたとのこと、また地代や金利借金支払いに行き詰まった小作農民を大量に都市工場労働者として送り出す役割を果たしたわけです。

 すなわち、国内的かつ経済的には、明治維新をあえて革命とすれば「寄生地主革命」であり、これによって経済的支配階級となった寄生地主層が日本の産業近代化・工業化、すなわち大企業経済化、いわば「独占資本主義化」と帝国主義化の経済的金融的背景として存在し、その意味で社会的主人公であったと言えるのではないかと、そういう仮説をこれから追いかけるつもりです。

 このような目からあらためて見ますと、講座派と労農派の日本資本主義論争は本質的に、為にする論議であったような気がします。そこから明治維新を考える手がかりを得ることはできないだろうと。せいぜい、いずれにせよ「封建制打破のための上からの革命または半革命」であったということだけで。

 明治維新と言われるものは、国内政治的には長州アルカイダと薩摩ダーイッシュという職業的武闘派によるテロリズムと軍事クーデターであったわけで、それを成功させた国際的要因動機の存在から、今どきのアングロサクソンお得意のカラー革命の19世紀的嚆矢実験例であったと言うことができようかと思います。
 この政治理念と国家構想なき政変を「資本主義を生み出すためのブルジョア革命」にしたのは、すでに封建的経済関係を脱して私的所有者として近代化していた寄生地主であるということができるのではないでしょうか。

 じつはここで関さんが、今般ご著書の出版によってあらためて本格的に赤松小三郎の国家社会構想の画期的な意味内包をあきらかにされたこと、それが欧米のアイディアのコピー的ミメーシスではなく、真田上田由来の日本の民衆的生活感覚に根ざしたものであり、それが英国の思想との出会いによって洗練され構造化されたものとなっていたこと、さらに現在においてすらなお先進的なものを含む驚くべき創意性を持ったものであったこと、そして何より、当時の歴史的なダイナミズムのなかで広汎な人心をとらえつつあったこと、これを示されたことはきわめて大きな意義を持っています。

 すなわち、明治維新クーデターが赤松小三郎の暗殺によって始まったことがあきらかになったと考えています。
 赤松小三郎が渦の中心にいた公議政体論という政治思想、それを実現しようとする近代議会主義的立憲主義的変革の波を無惨に破壊する反民主主義的政治暴力が、明治維新であったわけです。すなわち「上からの半革命」ではなく「反動的反革命」そのものであったと。

 関さんのご本を読むにつけ、赤松小三郎が、その国家構想を有力諸侯と公議に対して提起するだけではなく、武士以外の広く深くさまざまな層につたえ、理解を得ることができていたら、とどうしても想像してしまいます。
 歴史のIFを考えて現実の本質に迫るべく、「150年」を期してアニメーションか実写映画を企画なさってみてはいかがでしょうか。

 打ち壊しの標的になることを恐れた富裕層(寄生大地主)の撒くお札と餅に酒食によって「ええじゃないか」に導かれてガス抜きされた民衆のエネルギーが、赤松小三郎の構想を政治綱領として体していたらどんなことが起きたでしょうか。
 全国を吹き荒れたという「ええじゃないか」が、じつは歴史を動かす民衆的大運動が発生しえた可能性を示していると思えます。

 赤松小三郎は暗殺されず、薩摩の小松帯刀、公儀の小栗上野介とともに、大商人・大地主を飛び越えて、民衆とともに、その国家構想をさらに進歩させたかたちで実現したのではないでしょうか。

 そして長州は英国在アジア勢力による補給支援のみによって戦うパラノイア・テロリストの本性を暴露したでしょう。彼らの挑発と破壊活動との戦いの中で、日本の政治的統合が、民衆を主要勢力として含むかたちで自然に形成され、真のナショナリズムが生まれたのではないでしょうか。

 国際的には、おりから英国はグラッドストーンの自由主義的政党政治の時期、米国は南北戦争のあとの民主化に向かう時期にあたります。
 最初の世界恐慌である19世紀末大不況(1873年〜 )と1871年のドイツ帝国の成立とパリコンミューンの敗北以降の、世界が帝国主義と戦争に傾斜してゆく前の、短くはあれ「平和的」国際的条件のもとに国内変革をスタートして、明治維新とはかけはなれた全国民的な政治変革と社会変革、同時に欧米のみならずアジアとの連帯協力による国際化をなしとげたはずです。

 そしてその後、特権官僚による密室政治と一体化した利権支配が世を蔽うことはなく、「文明開化」という下卑た欧米化と文化破壊に陥ることなく、不断の侵略戦争のあげくに国土を焦土に化すことはなく、原爆と原発という核の悪魔に取り憑かれることはなく、多数の民衆が収奪と酷使にさらされることはなく、今日の日本とはまったく異なる国にすることができたのではないでしょうか。

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新自由主義とマルクスの親和性 ()
2017-01-15 09:09:14
>マルクスのビジョンは、資本主義的「近代」を徹底的に推し進めることが、黄昏の資本主義の胎内からそれを克服して登場する新たなる「(マルクスの)社会主義」の歴史的登場を促す

 マルクスのこのロジックからいくと、WTOでもTPPでも、市場原理主義を徹底的に推し進めて、我慢の限界を超えたプロレタリア階級が革命に決起するのを待つのがよいということになります。すると、共産党としては下手にTPPを押しとどめるよりも、放置した方が革命的
状況をつくりやすくなるという・・・。
 やはりマルクスって、根本的なところで大きく間違っていると言わざるを得ないです。
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未完の近代か、近代の終焉か (renqing)
2017-01-13 12:18:19
マルキストであるハーバーマスは、「ポストモダン」はあり得ない、「啓蒙(=近代)」とは「未完のプロジェクト」だと発言しています。

マルクスのビジョンは、資本主義的「近代」を徹底的に推し進めることが、黄昏の資本主義の胎内からそれを克服して登場する新たなる「(マルクスの)社会主義」の歴史的登場を促すことになる、というものです。

それは同時に、誰でもない当の「私」がそれを認識できていること、すなわち「私」が前衛であることそのものがその正しさを保証する。

ヘーゲリアンではない私には不可解なものの考え方ですが、マルクスおよびマルクス主義者の思考回路(=イデオロギー)がこうである以上、資本主義パラノイアのホットな「長州右派」と、クールな「長州左派」であるマルキストたちに事実上の区別はなくなりますね。
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