三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

日射遮蔽と通風

2011年07月13日 05時33分28秒 | Weblog







きのうから酷暑の東京に来ております。
わが家の寝室は、常時24度ほどの気温で現在推移していて
たいへん寝やすい環境なのですが、
さすがに東京で動き回っていると、
汗が噴き出してきて、なかなか厳しく、
とくに節電令の夏の夜は、過ごしにくいですね。

っていうことなのですが、
写真は霞ヶ関官庁街のビルの谷間の光景です。
国交省の入っている合同庁舎付近ですが、
木陰が形作られて、床にも木が使われていて、
それも浮き床にしているので、その下のコンクリートも
太陽光の直射蓄熱を免れ、木との間に空間があって、通風が計られていて
まことに気持ちいい空間が出来上がっておりました。
お昼前後に行ったのですが、
しつらえられたベンチは、昼寝する人が多く、
まさに日射遮蔽と通風という、
夏場をしのぐ基本的な温熱環境的工夫がなされていました。
みんなが体験していることですが、
やはり木陰は、体験気温的に2~3度の低温であり、
省エネには、木を利用するのが一番だと思われます。
札幌などと比較して、目的的なこういった都会のなかの
工夫された空間って、東京にはそこかしこに見られます。
ちょっとした空地や未利用法面などで、
緑が植え込まれているのを、発見できます。
自然発生的なのか、どうか、
こういった知恵を、もっともっと、活用していくべきだと思います。
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復興構想の原則

2011年07月12日 05時35分42秒 | Weblog





東北と関東と北海道と、
3箇所を飛び回りながら、この4ヶ月を過ごしてきているけれど、
どうも、東日本大震災への国レベルの対応がどうなっているのか、
全体状況がわかるようにメッセージされてこない。
「復興構想会議」というものが設置され、
そこで多くの論議が行われたというのはメッセージがあった。
菅直人首相は復興構想会議の提言を待って本格的な復興予算を編成するという
態度に終始してきた。
で、6月26日に基本的な骨格が発表された。
これを巡っての論議はまだそれほど出てきてはいない。
2週間ほどだから、やむを得ないだろうか。
以下、原則の7つを挙げます。

原則1:失われたおびただしい「いのち」への追悼と鎮魂こそ、私たち生き残った者にとって復興の起点である。この観点から、鎮魂の森やモニュメントを含め、大震災の記録を永遠に残し、広く学術関係者により科学的に分析し、その教訓を次世代に伝承し、国内外に発信する。
原則2:被災地の広域性・多様性を踏まえつつ、地域・コミュニティ主体の復興を基本とする。国は、復興の全体方針と制度設計によってそれを支える。
原則3:被災した東北の再生のため、潜在力を活かし、技術革新を伴う復旧・復興を目指す。この地に、来たるべき時代をリードする経済社会の可能性を追求する。
原則4:地域社会の強い絆を守りつつ、災害に強い安全・安心のまち、自然エネルギー活用型地域の建設を進める。
原則5:被災地域の復興なくして日本経済の再生はない。日本経済の再生なくして被災地域の真の復興はない。この認識に立ち、大震災からの復興と日本再生の同時進行を目指す。
原則6:原発事故の早期収束を求めつつ、原発被災地への支援と復興にはより一層のきめ細やかな配慮をつくす。
原則7:今を生きる私たち全てがこの大災害を自らのことと受け止め、国民全体の連帯と分かち合いによって復興を推進するものとする。

やむを得ないけれど、
まぁ、なにをどうするということは、明確ではない。
原則の2、3,4が骨子のようだが、
地方に下駄を預けて、その発議を今度は待っている、というのが
「具体策」の状況なのかも知れない。
どうもよく見えてきませんね。
被災地でも、国の方針が決まってこないので、
投資を伴うような具体的な動きを出来ないというのが現実。
この間の玄海町の町長さんのように、
何か動き出したら、とたんにハシゴを外されるのでは、
というような疑心暗鬼が、国民全体に充満しているのが現状ではないか。
うううむ、厳しいですね。
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仮設住宅の木造革命

2011年07月11日 06時16分00秒 | Weblog






今回の東日本大震災で、一番大きく変化したのがこれです。
これまで応急仮設住宅というのはプレハブ協会などの
大手ハウスメーカーが独占的にその建築を行ってきていた。
実際に今回の震災でも、多くの仮設住宅は
そういうルートからのものが大半であった。
プレハブは、施工が簡便で工期が早い、なにより合理的、
というような歴史的な建築業への認識経緯があって、
住宅のシステム進化、木造否定・工業化万能のような
そういう意識が底流において刷り込まれてきていたのです。
その結果、災害前後のプレハブ住宅メーカーの業績は
飛躍的に向上する。そのような決算報告も見られる。
戦後の社会はそのように流れてきていた。
一方で、工業化住宅であるプレハブは
素材自体が鉄骨を使っていて、断熱性能では致命的な欠陥を抱え、
夏の室内は酷暑になるし冬は耐えられないほどに寒かった。
そういう居住性の悪さから、
震災の度ごとに、苦情がありつづけてきていた。
また、官によるこうした住宅産業への決めつけ的な対応が
ハウスメーカー優位の住宅マーケットを固定化させてきているとも言える。
この間、木造建築の合理化というものも飛躍的に進展し、
工期などの問題も解決されてきているのに、
法律はそういった状況変化を反映してはいない。
また、法律によって2年間という耐用期間が定められていて
その後は「粗大ゴミ」として、処理しなければならない
という法の不備とも言えるような状況も存在していた。
しかし、工務店などの零細企業が中心である
木造住宅の側からは、組織的な声があがりにくく、
これまでは、この現状が放置されてきたのです。

こうした流れを打ち破ったのが、
今回の震災後のいろいろな動きです。
岩手県住田町の町長さんの決断による木造応急仮設住宅の建設。
周辺自治体がことごとく津波被害を受ける中で
地元の森林資源を活用して、断熱材も充填された木造仮設住宅を建設し
周辺の被災者に対して提供した。
法律のいろいろな壁がある中で、
まさに自治体自体がその壁を突き破ったのですね。
そして、その流れが大きな奔流になって
福島県では、仮設住宅総数14000戸に対して
民間提案枠として4000戸の枠を準備して
地域の住宅関連企業群に提案応募を募った。
そしてそれに応えて、総数3500戸の「木造応急仮設住宅」が実現した。
この提案は、おおむね、豊富な森林資源を抱える東北の地域で
その地元の木材を建材として使うことが謳われている。
もちろん、すべてというのは乾燥の問題などもあって難しく
しかし、それでも国内の他の地域国産木材が使われたりしている。
そして地域の零細な工務店たちがチームを構成して受注できた。
こうしたことは、そのまま、被災した地域にとって
復興への大きな地域経済活性化になる。
プレハブメーカー本社だけが潤って、地元地域はかわいそうな
被災者に留め置かれてきたこれまでの行政施策が一変した。
しかし、木造仮設がすばらしいのはそれだけではなく、
2年間の法定耐用年数の終了後、構造材を解体して
そのあとの、被災後の「本設住宅」に、再利用できるという画期的な
まさに「革命」のようなことが実現できてしまうのです。
税金が「ゴミ」ではなく、資産になって使われていくことになる。
しかも耐用期間は過ぎているので、きわめて安価に被災者に提供できる。
これまでのプレハブの応急仮設住宅は
使用後、日本赤十字を通して
発展途上国などに売却されてきたというのです。
それに対して、こういう税金の使い方であれば、
まさに地産地消が即座に実現し、
また地域経済の「復興」がすぐに始められる。
応急から、復興へと切れ目のない循環が期待できる。
こうしたことが実現した背景には、実に多くのひとびとの
大きな活動、大義のある動きがありました。
こういう動きを大いに支援していきたいと考えています。


<写真は、残念ながら不採用だったものですが、自ら被災者ながら宮城県の仮設住宅提案に応募した佐々木文彦さんの提案書よりの抜粋>
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Replan編集長・三木奎吾です。

2011年07月10日 06時28分55秒 | Weblog






一昨日、しばらくご無沙汰していた会社社長から電話をいただき、
日頃お世話になっているのに、なかなかお会いできず
電話での話が、長時間になったことから、
土曜日ならば、ということでお会いしてきました。

なんですが、
やはり札幌から函館の隣町、北斗市までは250kmの距離。
クルマで往復したのですが、
帰り道の最後、あと100kmくらいは、やや運転疲れで
あたまもフラフラしてきて、平衡感覚も辛くなっておりました。
帰ってからは、すぐにベッドに入ってぐっすり疲れを癒しておりました。
体調や加齢もあるのでしょうが、
おおむね、1日400kmが限度なのかなぁと悟らされた次第。
まぁ帰り道、ずっと一般国道を経由してきて、
高速を使わなかったということも関係あるのでしょうか?
お話しの中で、「都市緑化」のことになりまして
同意いただいて、盛り上がっておりました。
緑を育てていけば、剪定をするのが必然だと思います。
しかし現状では、そういった剪定したあとの植物をたき火として
燃やすということは、ダイオキシン云々ということでできない。
そういった「ゴミ」を収集日まで保管していなければならない。
忙しい現代人、大きな社会的ストレスをため込んでいる。
緑を管理するのは面倒だという方向に行ってしまう。
極端な例では、木から落ち葉が落ちて「迷惑だ」というエゴへの
配慮から、木を切ってしまうということすらも発生する。
緑への社会的資産意識をもっと高める必要がある、
社会運動として考えるべきではないか、そういうことなのです。
わたし、たき火をしてはいけない、というほうがおかしいと
ずっと思いつづけています。
ダイオキシン問題って、信頼する科学者からは即座に、まったく問題ない、
というように答えられ、調べてみても危険の根拠は薄い。
それよりも、たき火の文化を消滅させ、
環境共生が声高にいわれる時代というのに、
緑の管理を難しくしたたことのほうが遙かに問題だと思います。
みなさん、この問題いかがお考えでしょうか?

もうひとつ、
ブログは実名で、という気付きをいただきました。
はじめた当初、親しみやすさを重視して
匿名の方が読みやすい、とっつきやすいかなぁ、
ということだったのですが、まぁ、もういいのではないかと。
そういうことで、今後、実名も表記していこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。

<写真は北斗市の街路樹、わが家と同じヤマボウシ>
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豪華な定食・中世商業者篇

2011年07月09日 04時50分30秒 | Weblog






写真は、広島県歴史博物館での展示から、
中世都市、草戸千軒での鍛冶屋さんのハレの日の食事のようです。
草戸千軒は、瀬戸内海に面した大きな河川の中州に成立した
中世商業都市であります。
いったいどんな食事をしていたのかなぁ、っていう興味に対する回答。
やはり海に近い地域なので、
かなり豪華な食事になっております。
尾頭付きの鯛・タコの刺身・貝類の吸い物・あと一品はメニューから言って
野菜類の煮付けと思われるのですが、
なぜか、コンブも付け合わされている。
瀬戸内海地域というのは、やはり京都文化圏といえるのか、
コンブなのであります。
食材としてのコンブは、あきらかに北のものであり、
北海道から海の交易を通じて輸出され、京都で食文化として花開き、
遠く沖縄まで、あるいは輸出産品として中国まで、
コンブロード、という名前も付けられている流通の産物です。

昆布の道「コンブロード」
昆布はコンブロードを通って北海道から広がっていきました。
昆布は遥か昔、租庸調の税制があった時代、地方では「税」として収められてました。室町時代以降、船の技術が発達し貿易が盛んになり、昆布が全国に広まり始めます。
北海道の江差、松前、函館を出発したコンブ船は南下し敦賀や若狭に着き、ここで陸路を通り京都にまず運ばれました。
コンブ船は更に南下し下関を回り瀬戸内海に入り、大阪にたどり着きます。
大阪がコンブ船の終着駅となり、ここでコンブの利用と加工が盛んになりました。また堺にきたコンブ船がたまたま商談相手がなく、沖縄からきた砂糖船と出会い積み荷を交換したことから沖縄にコンブが行きます。沖縄でコンブが豚肉料理と大変合うため、大いに利用されるようになりました。
沖縄に伝わったコンブは更にここから貿易品として中国に伝わります。
沖縄よりコンブを輸入した中国は、コンブのよさを知り、北海道からもコンブを輸入していきました。中国ではコンブを採ることも養殖することもなく、古くから日本より輸入していました。黄海のため海が泥臭く、中国の昆布は品質が悪く利用されませんでした。

っていうようなのが、おおよその経緯。(http://homepage3.nifty.com/KOMBU/kombu/kombu.htmlより抜粋)
この草戸千軒の時代設定は室町期を大体想定しているそうですが、
庶民の食卓に、コンブが生かされているのですね。
活発な交易の活動や、
漁業者と商業者の交流ぶりなどが、かいま見えて
たいへんほほえましいものが伝わってまいります。
それになんといっても、
うまそうだ!
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刀や矢なのか。政権延命の道具としての原発

2011年07月08日 06時45分39秒 | Weblog






困ったことがどんどん進行している。
「刀折れ、矢尽きるまで・・・」
というように自らの政権維持への思いを国会で語っている菅直人政権。
かれは、その「戦い」を、何のためにやっているのかといえば、
ひたすら、権力の座に居続けたいということだけ。
本来、政治というのはなにかを変えるとか、
そういう主義主張を実現するための手段であるべきだ。
代議制民主主義の基本は、そういうところであって、
目的を喪失した権力維持だけの個人としての欲望実現ではない。

で、とうとう、
原発をその延命の直接的手段に使い始めた。というよりも、
反原発で政権を維持できると、にわかな思いつきで考えはじめている。
民主党は、別にそういう政策を前から公約してはいないだろう。
また、菅直人さんが政治理念としてそういう考えであるとも聞いたことはない。
原発自体の安全性を高める必要は言うまでもないけれど、
だからといって、エネルギー供給全般への配慮を抜きに政策転換したら
この夏の電力供給はさらに追い詰められ、
本当に日本国籍の「多国籍」大企業が、海外移転しかねない。
企業経営にとっては、いまの権力者によるこの国の政策決定プロセスは
あまりにもリスクがありすぎるし、信頼できないだろう。
経済産業大臣がきのうまで言ってきたことを、
簡単に朝令暮改させている。
エネルギー政策というのは、国家運営の基本に関わる決定事項だと思う。
国の政策決定を変えたいというのなら、
そしてそういう本当の意味での決心があるのなら、
権力者はもっと真剣な論議と周到な準備を持って、大義として実現すべきだ。
しかし、底が透けて見える丸見えの、
「1日でも長く権力の座にいたい」ということだけのために、
こんなに危険な決定の仕方、論議の仕方をする。
大地震、原発事故、そして政治のどうしようもない、存在自体の「空白」。
天変地異による災害は仕方がないけれど、
どうもこの4ヶ月にわたって続いている出口なし状況は、
いよいよ、危機として際だってきているのではないか。
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英賀御堂って、なんだろう

2011年07月07日 07時23分07秒 | Weblog





もう1ヶ月以上前になるのですが、
播州の西方、英賀の神社の光景がまだ、印象深くこころに残っています。
この写真の場所は、神社の本殿の手前にあって
本堂とは違う空間です。
まぁ、屋根の付いている大きな舞台のようではある。
周辺の地盤面からは、3段くらいの上り階段でここの平面に至る。
梁や天井空間一杯に、奉納の絵馬や額の類が
所狭しと満艦飾に飾り立てられている。
それらには統一性は特段なく、それこそさまざまな絵柄、文字面が
見るものに、一気に迫ってくる。
時代背景も、描写テーマもまったく違っていて、
それこそ、民衆的なパワーがまざまざと伝わってくる感じがする。
ここの空間には、神様はいないと思われる。

英賀というのは、
石山本願寺への補給基地機能をいちばん担っていたようです。
一向宗の西国における一大拠点だった。
どうもこの「御堂」は、
そういった歴史背景を表しているのではないか。
ありようが、どうも権威的ではなく、
より民衆的というように感じられる。
まったく、その成立の思想がほかとは異質な物のように思われるのです。
本願寺と織田氏政権、秀吉の征服事業などとの戦いは
戦国期でも最大の「天下分け目」であった。
広い境内の中に、この舞台のような場所が
かがり火の中に浮かび上がり、そして民衆の代表者たちが
どのように織田軍と戦うか、大衆集会を行っていたのではないか。
そういった余韻のような感覚がこの場所から
立ち上っているような白日夢を感じています。
単純に、民衆対専制との戦い、というものではなかっただろうけれど、
擬制的には、そういった見方もありえるような、
そういった光景が、ここには遠く残されているように思われます。

明確にこれはなになにの、という来歴がはっきりしないだけに
そうならざるをえなかった背景を想像力に伝え
むしろ強く残し続けてきた遺構なのではないのでしょうか。
どうも、強く惹かれ続けている場所であります。
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権力構造の弛緩

2011年07月06日 06時50分58秒 | Weblog





久しぶりに興奮して状況を見ていました。
松本何とかという「復興大臣」の一連の騒ぎ。
震災からの復興って、いまの菅直人政権の金科玉条の
それしか、存在理由のない、唯一のことだったはず。
この時点で、政争などをやっていてはいけない、
復興のために、政治は混乱してはいけない、という最大の政権維持論拠。

だったはずなので、
このもと大臣の発言内容をインターネットの動画で見たときには
驚きとあきれを通り越して、
ただただ、この権力の、ただしがみつきたいだけという
本質をまざまざと見せつけられた思いがしました。
まぁ、こんなものなのかもしれないという諦念はあるにせよ、
しかし、傲慢さは許し難いものがあった。
こういう人間が、こういう考え方で
基本方針をいまに至るも示すことが出来ずに
「復興」という錦の御旗を振り続けてきていたのだと考えると
無念な思いがこみ上げてくる。
失われた復興のための時間、あれからもう4ヶ月になろうとしているけれど、
関東大震災の時だって、
もっと迅速に、復興に向けた政治体制はできていた。
いまのこの事態は、いったいなんなのか?
社会全体に、弛緩した無気力な空気が充満している。
誰がどう考えたって、本気で復興を進めようとすれば
いま、一番大切なことは、政治にダイナミックな意志決定が必要。
そのためには、衆参のねじれ構造があって、
大きな意志決定が出来ないことが最大の「政治空白」。
そういう政治空白を生み出しているのは、
いまの政治権力者の「権力へのしがみつき」だと思う。
辞める、辞めるけど、これだけはやらせろ。
でも、できれば、それを最大限に時間を引っ張りたい。
そしてその最大の根拠が、この「復興」であるという矛盾。
こういう状態で、日本の大きな意志決定など、できるとは思えない。

きのう、就任から9日とかで、
発言の主はあっという間に逃げていったワケだけれど、
任命権者は、相も変わらず、居座り続けたいようだ。
どうなっていくのだろうか?
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木製ルーバーの抱擁感

2011年07月05日 05時45分06秒 | Weblog






写真は先日出張の時に
JRを利用していないのに、わざわざ立ち寄った旭川駅。
内藤 廣さんの設計による新駅舎です。
外観がまだ全貌が見えてきていません。
これまでの買い物公園などの商業施設群との距離が大きく離れた感じで、
本格的に完成後は、どんなアプローチになっていくのか、
まだよくわかりませんね。
JRというのは、東京の管理コントロールの強い企業らしく
こういう駅舎の建て替えなどのときには
どうも北海道内の設計者よりも
東京の権威に頼るというか、そういう選択基準優先になるように思う。
是々非々ではありますが、
本当は地域らしいデザイン、作りようを第1に考えて欲しいとは思います。
岩見沢の駅舎の建て替えでも、
結局は東京の設計者にコンペは決定したのですが、
さてどうなんでしょうか?
内部は木質の雰囲気が特徴的です。
木の街、旭川というコンセプトを通しているようですね。
この場所は、プラットホームに上がってくるエレベーターの覆い部分。
寒冷地らしく、こういう場所に覆いをかけているのは好感が持てる。
その内装に、木製ルーバーが使用され、
木の桟越しに外部を望むようになっています。
木の質感に包まれた階下からここに上がってきて
最後まで、木の質感が人を包んでいるようです。
木肌というのは、人の肌色とも同系色で、
この抱擁感は、やはり自然でいいですね。

朝、なにやら外が騒がしいと思ったら
カラスが数羽、わが家周辺で騒いでいる。
窓越しに様子を見ていて、
なかなか治まらないので、外に出てみたら、
なんと、わが家の坊主の自転車の物入れ部分にカラスがとまっている。
で、玄関ドアを開けたら、威嚇してくるのもいる。
カミさんが早朝出掛けるので
傘で防御しながら、クルマで出発。
わたしもその自転車のカラスを傘で移動を促して
ようやく他に移っていきました。
しかしその後、見ていると、止まっていたカラス、
どうも動きが弱々しい。
この時期のカラスですから、
ひょっとすると妊娠しているメスなのかも知れません。
どこかに巣を作ろうと考えてこの周辺をあちこち物色中なのか?
まぁあんまり友だちにもなりたくないし、
関わりたくない野生動物ですので、無視したいのですが・・・。
やや少し、鳴き声が遠ざかってきているようですが、
さてさて、どうなるのか、不安な朝を迎えております(笑)。
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札幌らしい木・都市緑化率_2

2011年07月04日 06時06分02秒 | Weblog






札幌らしい木ということと、
札幌の緑の少なさについて思いが募ってきております。

とくに、緑の空間の少なさについては、
かなり大きな問題意識を持っていきたいと思っています。
札幌の街を歩いていると、街路樹がない通りというのも多い。
強い陽射しが降り注いだとき、
それから人々を守ろうという意志が、その都市政策から感じられない。
江戸幕府が開かれたとき、
家康のごく初期の政令で、東海道には街路に松を植えよ、
というのが出されていたという話を聞きます。
また、現在に残っている日本の街には
神社や仏閣という施設が街中に配置されていて
それらが、その周辺の居住者からの尊崇を受けながら、
緑地帯を構成し続けてきた経緯が明瞭に見て取れます。
これらは最初は為政者や大資本としての宗教施設・団体による
「緑の投資」ではあったのでしょうが、
その後は、周辺のひとびとの「愛着の継続」によって
メンテナンスが維持されて今日に至っているのだと思います。
こうした施設たちがごく自然に敷地内に木を植え、
半ば公共的な空間として、周辺の人々に潤いのある都市機能として
日射遮蔽条件である木陰を提供していた。
江戸以前までの、日本的公共心のレベルというものが偲ばれます。
その対比からすると札幌は、明治以降の「都市政策」というものが
もっともよく貫徹された都市だと考えられ、
その「緑に対する鈍感さ」を、もっともよく表しているのかも知れません。
現代の「環境性」という見方からして、
江戸までの社会と近代化以降の社会との比較では、
あきらかな思想的な退化があったと言えるのではないか。
現代社会では、インフラとして都市に求められているのは
「便利さ」だけが最大の追求課題なのかも知れません。

さらに札幌の街に緑、街路樹が不足してきたのは
単純にそういうものに掛かるメンテナンス費用が大きいのかも知れない。
先年の風台風で北海道内の街路樹が倒れたときに
これで安心して維持にお金のかかる街路樹を撤去できると喜んでいた
ある自治体職員さんのことばをわたしは記憶しています。
江戸期までは、こういうメンテナンスについて、
それすべてを公共が負担するという考え方は存在しなかったに違いない。
たぶん、それら公共財としての樹木については
投資は幕府なりの公共がするが、それ以降は
それらの存在によって利益を得られる(緑によって木陰を得られる)
地域が、公共心を発揮して守っていくとなっていたに相違ないと思う。
このあたり、詳しく調べてみたいと思うけれど、
どうもこのあたりが、問題の根源ではないかと思います。
木を植えること自体が大きいことではなく、
それの保守管理、存続のシステムを構築さえ出来れば、
問題の本質は解決できると思うのです。
そうすれば、あとは小さな苗木を植え込めば、
その土地なりの自然条件が時間を掛けて解決してくれる。
時間を掛ければ、樹木はたくましく自ら成長してくれるものなのです。
問題は社会のシステムの側のことなのだと思います。

<写真は仙台のお城、壕の周辺の様子>
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