イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

敵の取れた同志

2009-06-13 23:36:37 | ミステリ

パトリシア・ハイスミス『アメリカの友人』について昨日書きました。語り部的役割かつ人物・事物の“測量者”の役目も果たすトム・リプリーに対し、言わば“巻き込まれ悪役”のジョナサン・トレヴァニーが、「俺は病気で先がないのだから」という諦めから、なし崩しに犯罪に手を染め、リプリーに援護されつつ偽装してクチをぬぐっていくうち、最愛だったはずの妻に疑われ、息子とも徐々に壁ができ孤立していく過程もまさに“ハイスミス節(ぶし)”で、こたえられないものがあります。

そもそもの動機は、間もなく永訣しなければならないこの妻子に金を遺したいと願ったからだったはずなのに、嘘偽りと隠し事を重ねるうち、夫として父としての愛がなせる業からどんどん距離が開いていくさまは、逆に小気味いいほどです。

或る局面では、愛している大切に思っている、自分の死後安泰に暮らしてほしいと願っているつもりでいて、トレヴァニー、はなから妻に胸襟開き全幅の信頼をおいてなかっただろうと思えるふしもある。彼にとっては、病を承知で求婚した段階で、妻は自分亡き後も地上に生き残る“あちら側の人”であって、息子をなしても結局孤立する運命だったのです。

ハイスミスの諸作品は、物語冒頭段階では主人公たちはつねに“普通の人”“真っ当な、それゆえに凡庸な人”です。ちょっと特殊な性格やものの見方の癖はあっても、平凡、普通の域を出るものではない。

それが些細なきっかけで、徐々に歯車が狂い出し、他人に知られたくない、吹聴されてはまずい行動を取らざるを得なくなり、知られずにおくために冒さなければならないリスクがどんどん強大になり、ついにはコントロール不能になる。

初めから突出した悪党や知能犯ならば、「“普通”“真っ当”の域に踏み止まるために、真っ当でない言動に出てしまう」という二律背反に引き裂かれることはないでしょう。

“普通”の眼前に横たわる深く果てしない暗黒の深淵。ハイスミスを読む醍醐味はここにあるのです。

さて、こちらも巻き込まれ普通人・善意の人のサスペンス『夏の秘密』。第2週、10話まで進んだところで、気になるのは逮捕された龍一(内浦純一さん)の叔父、正確には叔母の結婚相手という人。龍一は13歳で両親を飛行機事故で亡くし、叔母に引き取られて、その連れ合いである叔父にいたく可愛がられて育ったという回想譚がありました。

この叔父が紀保(山田麻衣子さん)の父である羽村社長(篠田三郎さん)の会社の主任顧問弁護士をつとめている縁で、龍一と紀保も知り合い、結婚を約束する仲になったということですが、目をかけ親代わりともなってきたはずの甥の逮捕収監という苦境にも、この叔父なる人物、一度も画面に顔を見せていません。

近親で事実上の養親では法定代理人は務められませんから、龍一の弁護人はたぶん別の弁護士でしょうが、この叔父の前歴・人となり、あるいはたぶん羽村社長との関係が、龍一の巻き込まれた事件にも何らかの形で影響している可能性は大です。ヒロイン婚約者、その養親ともに弁護士に設定されているからには、弁護士ならでは知り得ない、経験し得ない事情が、重要なファクターとして必ず隠されているはず

この枠の、このクールのドラマにおいては、モノクロの回想シーンであっても“まったくの捏造・妄想”というケースはなかったので、龍一が出張先のホテルで遭遇した、みのり嬢と思われる女性との一夜についても、紀保にみずから打ち明けた内容で(欠落はあっても)嘘はないでしょう。

同じように、伊織(瀬川亮さん)がみのりの遺体の第一発見者となった状況も、嘘や幻想ではないと思います。ただ“和風喫茶浮舟”に集う近隣の中高年者や、不動産屋ジュニア雄介(橋爪遼さん)、工作所次女セリ(田野アサミさん)らの視点から「コレ(←小指)だった」「好きだったんだろ?」「わけありだった」と指摘され噂されたり、水を向けられたりするたびに、伊織が否定も、積極的に肯定もしないのが何とも言えないところ。紀保と対峙した9話で「かけがえのない存在だった」と表現しましたが、思い思われの男女関係ではなく、何らかの事情で他人を装わなければならなかった兄妹という読み方もできる。

非常に特殊かつ秘密な経緯を共有する、年齢の近い異性きょうだいの佇まいというのは、予備知識のない他人から見ると、限りなく異性関係に近い空気感をただよわせるものです。

ここら辺り、07年の『金色の翼』の修子・玻留姉弟の裏返しと見られなくもない。脚本金谷祐子さんとしても、“今度は対極から書きたい”ぐらいの作家的野心はあるでしょう。

浮舟女主人にして元深川芸者の蔦子さん(姿晴香さん)が、紀保の礼儀作法や裁縫の技術などに注目するたびに「お母さまの仕込みが良かったのね」などことさら「お母さん」「お母さん」と引っかかるのも不自然と言えば不自然。彼女には孫になるという紅夏ちゃんの両親も顔を見せないし、海外旅行と偽って事件現場の下町に潜入した紀保の行動に、薄々気づいていなくもない素振りの羽村社長ともども、“親世代”の人々のいきさつが先々判明して影を落としそうです。

過去に起きた事どもは依然不明のままですが、現在を生きる主人公たちの行動や心理の振幅が活発になってきたので、物語に牽引力が増してきました。“年長組”が本格的に味を出してくるには至っていないものの、山田さん、瀬川さんの主役コンビがきっちり活きて輝き始めたのが大きい。

瀬川さんの“まじめで実直だけど、喧嘩になったら怖そう”な、静かな目ヂカラがいいですね。『超星神グランセイザー』で熱血猪突猛進のヒーローを演じていたときから、“邪気なく純朴なだけ”ではない、湿り気やザラつき、引っかかりのある味を持っていました。媒体で初めて顔と名前を見たのは、03年夏刊の『特撮NewType』誌でのグランセイザー放送前インタビューページでしたが、「(グランセイザーで演じる)弓道天馬と自分は似ているところが多い。ボロアパートに住んでるとことか(笑)」と語っておられた記憶が。あれから約6年、メジャー作のキャリアも積まれたことだし、まさかもう夕顔荘みたいな部屋には住んでないと思いますが。

一方、山田さんも、紀保役に求められる、“ふわふわした頼りなさ”と“世間知らずゆえの強引無鉄砲さ”との中間の、実に微妙なところでうまいことバランスを保って演じておられると思います。

この役は本当にデリケートで、前者に寄り過ぎると影が薄く、もしくはイライラさせるキャラになるし、後者に寄り過ぎると直球でウザくなってしまう。でも前者を備えることで妖精的な、よきフィクションとしての非日常感が出せるし、後者を持つことで物語を衝き動かすパワーと、観客の視点を背負う共感性が出てもくる。偏ってはいけないが両方必要という、字ヅラ以上にかなりの難役です。

山田さんの演技を見る限り、技術で役を組み伏せるタイプではないので、彼女の熱意ある読み込みに、ほだされるように役のほうからすり寄って重なってきたのでしょう。役と役者さんとが綱引き合う、こうした磁界の針の振れを見守るのもドラマの楽しみのひとつです。

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やっちゃっ棚

2009-06-12 20:55:25 | ミステリ

『夏の秘密』で伊織の部屋の本立てを物色し、ページヒラヒラさせたり、ハードカバーを函から出してみたりする紀保さんを見ていたら、年に一~二度来る“書棚整理熱”に浮かされてきて、んでもってこの熱に任せて動き出すといつもそうなるように、奥から出てきた本に読みふけって整理どころではなくなってしまいました。

そういうとき決まって嵌まってしまうのがパトリシア・ハイスミスの諸作で、読みはじめたら絶対途中でやめられません。初読のあと10年以上も放置していた作品もあるし、二度三度読み返して記憶が比較的新しい作品もありますが、「あぁ、こうだった、この後ああなるんだった」と思い出した時点で「よし、もういいや」とはならない。何度読んでも読むたびに発見があるし、面白い。

先日から『アメリカの友人』(74年作、邦訳92年刊)で書棚整理完全にストップ。棚だけに棚上げ。座布団持ってって。それはどうでもいいのですが、ヴィム・ヴェンダース監督が同じタイトルで77年に映画化していて、確か念願かなって観たのが88年の秋、本書はその4年後に入手して読んだのが初読のはずです。

1921年生まれのハイスミス女史は、90年代に入ってからの日本での翻訳・改訳刊行ラッシュを見届けて、あるいは風のたよりに聞いて、安心したか北叟笑んだかわかりませんが、とにかく見澄ましたように957月に亡くなっています。

死因が白血病だったことを知った上で『アメリカ~』を読み返すと、主人公のひとりである額縁職人ジョナサン・トレヴァニーの心理が一段と興趣深く、かつ神経の或る部分を逆さに掴み上げるようなリアリティをもって伝わってきます。

74年に発表されたこの作品執筆の前ぐらいに、女史もトレヴァニー同様白血病を発症し、あるいは疑いを持たれて精密検査や投薬を受けたのではないでしょうか。

白血病に間違いないという診断は受けたが、いまいま今日明日のうちに死ぬわけではない、しかし概ね6年から8年、長くて12年の余命という宣告。「多くの人にとって、死への道はなだらかな小道だが、自分の死は崖から落ちるようなものになるだろう」、余命を告げられた後、すべてをカミングアウトした上で、相手の女性が諒解してくれて結婚し、息子をもうけたが、「この子が大学へ進み、成人する頃には、自分は間違いなく生きていないだろう」とときどき反芻再確認する乾いた諦めなど、小説家として医師や病院から取材しただけとは思えない、非常に削ぎ落とした現実感がある。

しかし、ハイスミスが凄いと思うのは、この小説が“余命が限られていると悟って道を踏み外していく人間の心理と行動”という、それだけで十分重い、しかもみずからの実体験に根ざしている可能性が高いモチーフを、主体にせず思いっきり客体化しているということです。

この作品の主人公はトレヴァニーひとりではなく、彼を「あの男は先がない、金まわりも不如意だ、ならば危ない仕事(=殺人)を依頼すれば応諾するだろう」と見込んだトム・リプリー(←ご存知、映画『太陽がいっぱい』の主人公ですが、ハイスミス原作の世界観では“あの”事件はきれいに逃げ切り、“あの人”とは別の富豪令嬢と結婚し優雅な生活を送っています)でもある。不労所得で趣味の絵画や庭造りの趣味三昧なトムが、ある会合で紹介されたトレヴァニーから「とかくの噂のある、遊んで暮らしてる男」というニュアンスで話しかけられたことを微量、不快に思い、リーヴズ・マイノットという既知の密売ブローカーから「前科のない男を知らないか」と持ちかけられたときに、彼の名を出すのです。

 しかも、トレヴァニーが高額報酬により釣られやすいように、彼の友人から「本人が告知されている以上に、病気が進行しているらしい」という噂を耳に入れさせ動揺させる。

 これだけならトムは血も涙もない悪党のようですが、トレヴァニーが結局、息子と妻にまとまった金を遺せる誘惑に屈して、素人には難題の列車客室内での、ボディーガードを従えたマフィア幹部殺害を引き受けると、現場にいきなり現れて手を貸しもするのです。トレヴァニーの名をブローカーに教えたのは自分だから、彼が仕事にしくじって返り討ちに遭ったり、露見して警察に拘束されたり、あるいは望みの報酬が約束通り得られないような事態になっては申し訳がないし気の毒だ、という、彼独特の義侠心のあらわれでもある。

 コイツ何考えてるんだ?と思いつつも、読み進むうち読者は自然とトムの視点になって、トレヴァニーがうまいことやりおおせますように、金も手に入れられますように、と願って読み、事態を見守っている自分に気づくのです。

 凡百の作家、作品なら、主体にして終始するモチーフや人物の設定を、ハイスミスは“外から観察すべき客体”として解剖台に引きずり出し、あるときは客体内部、またあるときは高度をもった俯瞰で、複数の角度からつぶさに切り取り標本化していく。多くは犯罪や、法に触れる行為、あるいはアブノーマルな、他人に知られたくない性癖などを主に採り上げた作品でも、ハイスミスの作品がどこか風通しよく、アンハッピーな結末に終わっても一抹の爽快味・痛快感があるのは、“どんな人間も一方的にワルかったり、一方的に可哀想だったり、一方的に謹厳実直だったりするわけではない”という、逆説的な言い方ですが“救い”が含まれているからだと思います。

ハイスミスの作品はむしろよく「救いがない」「底意地が悪い」「カタルシスや、解決した感がなく、後味が苦くエグい」と評されがちですが、たぶんそう評するのは、人間の明朗さや、善意なら報われるという予定調和を、無理しても信じたいまだ若い年代の読者か、あるいは辛酸をなめ尽くして、人間を猜疑し見切りをつけることに疲れ果てた高齢の読者でしょう。

 善意の衣の下に悪意を、悪意と悪意の襞に善意を、自覚が有る無しに関係なくたっぷり抱え持っているのが現実の人間だからこそ、ハイスミスの作品は何度読んでも新鮮で、サプライズとエキサイトに満ちている。『アメリカ~』も、トレヴァニーの拙い嘱託殺人の顛末と彼自身の命運、高額報酬の行方、だいたい記憶しているんだけど、やはりラストまで読まないわけにいかないなぁ。

 さてと、『夏の秘密』も見逃せないのだ。本日第10話。伊織(瀬川亮さん)のDNAサンプルを採取しようと仕掛けた紀保(山田麻衣子さん)の、“ドレスでワイン”お色気作戦見事に失敗の後、思いがけず本音を曝け出し合った2人が翌朝、工場の前で鉢合わせ、おはようの挨拶も言えないバツの悪さもさめやらぬうちに、工場から今度はフキ(小橋めぐみさん)が出てきて、紀保の昨夜の挙動を探り出す素振り…という場面の緊張感がよかったですね。

 紀保と伊織、いままで何度か2人きりの場面はあったものの、“サムシング色っぽい”雰囲気が一貫して希薄で、何か起きるぞこの2人!と思えたことはありませんでしたが、脅しでも一度組み敷いた、跳ね除けて刃物を向けたという以上に、事件への怒りと苛立ちを他人に向けて吐き出したという経験が色っぽさを醸し出したのだと思う。初対面は風呂場で裸でしたが、この一件で心が裸になったのです。だから翌朝、そこはかとなくバツが悪いわけ。

 「昨夜伊織さんとこの人、何かあった」と睨んだフキが間髪入れずに登場したから、余計危うい雰囲気が出せたとも言える。男と女、下種な興味半分で嗅ぎ回ったり想像をたくましくしたり、あるいはやっかんだり悋気したりする人物が近くに誰もいないと、色っぽくなりようがないものですからね。

 昨日の9話で初めて声を出し台詞を発したひきこもり理工学博士・柏木(坂田聡さん)は、大学時代から通算20年近く夕顔荘に居座っているという設定ですが、引きこもってる振りをして廊下で動きがあるたびに引き戸の敷居付近に匍匐し様子を窺っているし、定職もなさげなのに家賃や水道光熱費滞納してる描写もないってことは、誰かに雇われた密偵かな。『金色の翼』の絹子刑事の例もありますしね。某国工作員だったりして。

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刹那でも偽りでも

2009-05-23 16:42:57 | ミステリ

『夜光の階段』は全何話なのかな。6月いっぱいまでの3ヶ月クールなら、せいぜい10話、たぶん9話でしょう。21日放送の第5話で、あらかた折り返し点を過ぎたことになります。

なんだかもったいない。2話辺りから、これは失敗した『金色の翼』07年)かな…という気もしていました。

『金色~』自体、些少とは言えない欠点を抱えたドラマだったたので、より正確には“もっと成功に近づけたかもしれない『金色~』”かな…ですね。

 松本清張さんの原作未読ですが、連続ドラマにするなら、佐山道夫を“同情すべき傷もある孤独な色悪”として主体にせず、“羨まれる境遇・地位にいるが、それぞれに欠乏感を秘めた女たち”を刺戟し欲望とエゴを曝させて行く“触媒”として取り扱ったほうが、ずっと成功可能性が高くなるはずです。

そのためには、女たちを、登場いきなり醜悪に、エロ剥き出しに、食えなく描かず、木村佳乃さん扮する花形女性誌記者は凛と自立に生きる知性派に、夏川結衣さんの報道誌記者は辣腕かつ竹を割ったような親分肌に、室井滋さんの証券会社社長夫人は貞淑な賢夫人に、南野陽子さんの料亭女将は囲われ者の分をわきまえた耐える女風情にして、それぞれの“ビフォー佐山”→“アフター佐山”の、だんだん暗黒に堕ちるグラデーションと落差を際立たせていくほうがいい。

いまのままでは、女たちが軒並みろくでもなく、仕事そっちのけで色欲満々なため、見ようによっては“こんな女どもとかかわるから、露見しないでもいい過去の犯罪が露見して、佐山キノドク”とすら見えなくもありません。

 いまさらですが、佐山道夫役は、“どんな女もひと目で虜になる美貌”の部分だけヴィジュアル説得力があれば、もっと無名の、色のついていない俳優さんを起用したほうがよかった。

 藤木直人さんはすでに押しも押されもせぬ、多くのファンを持つ二枚目俳優であり、女性視聴者必殺の“定番催萌商品”ですから、ドラマ作りがどうしても“佐山が切なくカッコよく見えるように”“視聴者の女心をくすぐり「悪でもいい、一度ナニされたい」と思えるように”という方向に組まれてしまう。ゴールデンのドラマである以上、キャストクレジットに華がなければならないし、これは致し方のないことでしょう。

以前、ここで『夜光~』映像化における歴代佐山役俳優を振り返ったとき、「ゴーオンブルー片岡信和さんはどうかな?」なんていう勇気ある(←自分で言うな)提案をしてみたのですが、たとえば『カブト』風間大介前の加藤和樹さんや『キバ』名護さん前の加藤慶祐さんを起用して、九州からかつかつで上京逃亡してきた裸一貫の佐山が、行く先々でなぜか女が皆チヤホヤしてくれる、「オレってこういう天賦の才があるんだ、おっしゃあ、これで成り上がったるぞ」という意識を固め、根拠なき自信に溺れていくような描写をすれば、「ちょっと、あの、見たことないきれいな顔の俳優さん誰?」と問い合わせが殺到して、結構面白い転がり方をしたような気もするのですが。

色のついていない新人イケメンくんに、所属事務所がやらせたいような役でないことも確か。

『金色の翼』は“触媒”役に国分佐智子さんをあて、贅沢な隠れ家リゾートに集うなんちゃってセレブ、“お品よく見せてわけあり”の人々が“夫殺し疑惑の世界的富豪未亡人”に出会うとどう変わり、どう動き、どう摩擦衝突するか…という興味で前半を牽引しました。失礼な表現ですが、認知度知名度において国分さんを上回る、大物感・実績ある女優さんをこの役にキャスティングしていたら、早い段階でこのドラマはぽしゃっていたはずです。

 主役が“主体”でなく“触媒”であるドラマは、うまくいけばおもしろいけれど、うまくいかないリスクも高い。『金色~』も、修子の出自や過去を台詞で説明して行き、昼帯ドラマ定番の“視聴者が応援したくなるような逆境ヒロイン”にスライドさせようとした後半で、案の定ぼやけてしまいました。国分さんはよく演っていたのですけれどもね。

『金色~』の放送中、たびたびダフネ・デュ‐モーリア作『レイチェル』(←←←左柱のオールタイムフェイヴァリット)を思い出しましたが、触媒役を触媒役のまま、自然と心惹かれるゆかしき存在に描出して、読者(or観客)を「自分がこの女性の立場だったら、この状況で何を考え、どういうハラでいるだろうか?」と想像せずにおられなくさせては、そのたびに共感を拒否し、拒否されても拒否されてもゆかしく思うようにさせ翻弄した挙句、触媒役のまま忽然と退場させるのは、地上波連続ドラマではむずかしいのかもしれません。

『夜光の階段』で言えば、佐山が上京後就職した美容室オーナーの妻役・荻野目慶子さんの使い方ももったいなかったですね。なぜあんなに早く出番終了する役にあてたのか。

『女優・杏子』の荻野目さんですもの、大女優藤浪竜子役でよかったじゃないですか。それでも出番全然足りないけど。赤座美代子さんの、“若づくりと虚勢が本能”みたいな演じ方もさすがで、悪くはないけれど、荻野目さんなら、たとえば“ビフォー”を“演技ではあだっぽいのに私生活は男の匂いがしない”浮き世離れしたイメージに演じ、“アフター”で徐々に崩れた、場末じみた肉感にしていくぐらいのことは平気でできたはず。

理想のお嫁さんタイプだった木村佳乃さんの、体当たり“イヤ汁”女演技もほとんど報われていないし、いろんなところがもったいなさ過ぎるドラマだと思います。

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暗闇がいっぱい

2008-11-13 16:52:26 | ミステリ

ルネ・クレマン監督の60年版、アンソニー・ミンゲラ監督の99年版ともに映画ではあまり詳しく描写されませんが、パトリシア・ハイスミスの小説『太陽がいっぱい』のダークヒーローであるトム・リプリーは幼い頃両親が自動車ごとボストン港に水没する事故で死に(そのトラウマで水が怖い、泳げないという描写は映画でも幾つかありました)、父の妹であるドッティ叔母に育てられましたが、この叔母がスーパー意地悪でどケチ。リプリーは8歳のときから再三家出を試みては連れ戻され、20歳でやっと成功、ニューヨークに出て俳優志願の夢破れると苦手な肉体労働を転々としていましたが、詮索好きな叔母に居所を尋ね当てられては連絡が回復したりまた途絶えたりの繰り返しでした。

そのどケチ叔母からは、

「まるで最後の支払いをすませて、わずかな金が残ったか、あるいは、商店へなにかを返品し、パンくずみたいにその金を投げてよこしたかのように、6ドル48セントや12ドル95セントといった中途半端な、些少な額の小切手が送られてくる」

「ドッティ叔母の懐には(リプリー父の死亡保険)金が入っていた。彼に送ってくれてもいい金額のことを考えると、小切手は人を虚仮(こけ)にしていた」(河出文庫、佐宗鈴夫訳)…

…トム・リプリーは勤勉に努力して学歴や職能を身につけようとはせず、『太陽~』の冒頭ではいまで言う振り込め詐欺の常習犯に育ってしまうのですが、“半端な金額の、思いつきの突発供与がいかに有り難味がないか”“逆に「もっとくれてもいいのに」というさもしい気にさせるか”がよくわかります。お金とは怖いものです。莫大な額ではなく、些少な金だからこそより一層暴力的なこともある。

単純に、いつでもどこでも誰にでも、幾らでも、あげれば喜ばれる、もらえば嬉しいというものではない。やりようによっては、何もくれないより悪いこともあるのです。

先般からの追加経済対策“定額給付金”の報道で、月河はこのドッティ叔母さんを思い出さずにはいられませんでした。

「トムの父親が残してくれた保険金以上に教育費がかかったというのが、叔母の言い分だった。そのとおりかもしれないが、面と向かってそれを繰りかえし言って聞かせる必要があっただろうか?思いやりのある人間なら、子どもにそんなことは何度も言わないだろう。無償で子どもを育て、それに喜びを感じている叔母や、他人さえたくさんいるのだ」(同、同)…

…政府はさぞ“ここの国民ときたら、カネも手間もかかってしょうがない、そのわりに歳入はたったこんだけしか入ってこない、あーあ”と、さぞやりきれない思いで日々いるのでしょう。「景気浮揚して税金搾り取れる状態にまでするために2兆円はぶち込めるな、それじゃアタマカズで割って、ガチャガチャチーン、はいっ11万2千円」「ジジイババアは人口が多いし、18歳未満はこれから末永く搾り取らなきゃならないから、上乗せ目いっぱい、はいっ8千円」…

血税2兆円使って、政府が国と国民を如何に愛していないかを天下に暴露し、国民の誇りと品性を踏み躙る。愚策、悪政どころか、悪い冗談ですらない。たわ言、戯れ言、世迷い言です。

いま、この瞬間に「戯れ言だった、失礼しました、やっぱりやめます」と宣言しても、すでにおおかたから「えーっ、くれるって言うからもらおうと思ってたのに、嘘つき」と総スカンを食らい選挙“逆対策”になるだけ。

「くれてやる、くれてやる」とチラつかされ続ければ、人間、大して窮していなくても「もらわなきゃ」「もらって当然」「もっともらえるはず」という料簡になるものなのです。国のトップが国民を虚仮(こけ)にしているのだから、国民の性根だって振り込め詐欺並みにヘタり腐ります。腐らない前の状態には戻らないでしょう。いくら円高とはいえ1万2千円で国民の信頼が買える政府が、世界のどこを探したらあるのか、海外通をもって任ずる麻生さんに訊いてみたいものです。

断言していいと思います。日本の政治は死んだ。政治が国民を蔑んでいるように、国民も政治に対して、今後、蔑むことしかしなくなるでしょう。

そう言えば、昔、会社員時代に賞与の明細を配られると、「“要らねぇこんなハシタ金!”っつってビリビリ破いてみたいね」と同僚と笑ったことがあったっけ。“支給”とか“給付”とか、表現は異なれど“給される”もので生活していく身とは、かりにそこそこ高“給”だとしても、基本的に侘しい、しんどいものです。国が民をしてそういう気にさせる、もともとそういう気でいるところに輪をかける、それだけでもえらく罪深いと思うのです。

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