このブログの大家さん=gooブログサービスにはアクセス解析機能があるのですが、先月13日の“お気持ち発表文書”以来、「眞子さま 結婚できるか」のキイワードで飛んできたと思しきアクセスがずいぶん増えました。
確かこの件については、小室圭さんという固有名詞が世に出てきてからでも、三回ぐらいしか書いていないような気がするんですが、こんな無名弱小泡沫ブログにまで検索ハンターが来訪するくらい、世の中、眞子さまが大好きで、ご結婚成るかに興味津々らしい。
成るか成らないかで言えば、“成る”ほうに七割、乃至八割ぐらい振れたと月河は見ています。なんたっていっぽうの張本人・・というか当事者が、「幸せだろうと不幸だろうと、この人が唯一無二」「この人と結婚する以外の人生ワタシには無いもん」と、喉元に切っ先当てる勢いで媒体通じて全国に宣言しちゃったのです。
“心を守りながら生きていくために必要な選択”が“コノ人との結婚”だ・・ということは、コノ人と結婚しないなら、或いはコノ人以外の相手と結婚するなら、それはもう心を死なせた人生であり、生きていないのも同じ事だということです。修飾をとっぱらって芯だけ言えば「小室圭さんと結婚できなかったら死んでやる」ということですわ。おおコワ。プリンセスが白昼堂々と全国民に向けて、東海テレビ系昼ドラをやっちゃったのです。
もはや、一部で怖いもの見たさで期待されていたような、破談、白紙戻しの目はないでしょう。もしそれをやったら、プリンセスのこの先の人生に、消えない大きな疵をのこすことになる。
プリンセスも気がつけばアラサーです。ホトボリがさめた頃合いに、別のお相手がどっかから連れて来られてめあわされたとしたら、どんなに大方から見て釣り合う真っ当なご縁談であっても、真っ当で釣り合っていればいるほど「前のアノ彼に比べたらここがいい、あそこが好ましい」式の修辞で受け止められるでしょうし、めでたくゴールインして真っ当なご家庭を築かれたら築かれたで、その真っ当なご様子が折りにふれ報道されるたびに、「それにしても前のアノ彼は真っ当から程遠かった」と、クチにはのぼせずとも、この件について当初から記憶のある人の、ほとんどすべての脳内で、ほぼ終生にわたって比較されるでしょう。“プリンセスの前彼”はすでにすべての媒体にでかでかと画像、音声、動画をのこしてしまった。人生に消しゴムはきかないのです。
ここへきてテレビ番組の井戸端コメンテーターだけでなく、文科大臣・国家公安委員長・衆議院議長等重いトコ歴任の大御所元・国会議員とか、現職宮内庁長官までがマス媒体を通じて苦言を呈するに至っていますが、月河は不思議でしょうがないのです。先の当事者=プリンセスご本人の、崖っぷち喉元に刃物声明まで飛び出しているのに、なぜこの両想いカップルに“ひと肌ぬいでまとめてあげようとする大人”が、ただの一人も現れないのだろうと。
もう一方の当事者である小室さんの肉声が、いくら海外遊学中、試験勉強中とはいえいっかな聞こえてこない以上にコレ、謎です。
キャンパスで出会いはぐくまれた若者同士の恋愛感情が、揃って結婚というゴールを希求しているのに、人生の先輩たちからは賛成できない理由や疑問符を指摘しあげつらう声ばかりです。
「せっかく結婚したいって言ってるのに、何が障害になってできないんだ?どれどれ、問題を整理してみようじゃないか」「こことコレとコレが解決すればいいんだな、それじゃここはこうしよう、コレはあの専門家を頼んであたってもらおう、コレはこうしたらどうだ?」と、客観的に状況を分析して、ひとつひとつ解決への道筋をつけて二人の力になってくれようとする人生の先輩が、本当にどこにも居ないのでしょうか。
当事者の一方の親である秋篠宮さまは、皇嗣の立場があるから、みずから「どれどれ」と前のめりに乗り出すことはできないでしょう。借金や就職、住まいなど、解決のために“おカネ”を必要とするジャンルはとりわけです。国民の血税で存立している皇室だということを、次代の継承者としてとことんわかっておられるはず。なんたって、私有財産、ポケットマネーへそくりのたぐいを持たないお方ですから、如何にあつい親心があっても、おカネを出す系の話はタブーというより無理なのです。
親族、血縁じゃなくてもいい。かえって血のつながりはないほうが利害がからまなくてベターです。たとえばお二人とも同じ大学の同級生ですから、共通の上級生、卒業生、指導教授、同好会等OB、あるいは幼い頃近所に住んでかわいがってくれた一般人のおじさんおばさんでも構わない。秋篠宮さまは“婚姻は両性の合意のみによって成立する”と、結婚を認める理由を憲法の文言から引いておられましたが、もはや当事者同士の合意だけじゃ、如何に崖っぷち刃物レベルに強固でも、どうにも前に進まないでしょう。二人の幸せを願い、その幸せが結婚にこそあることを、二人と同じ体温で信じて疑わず、二人の結婚を叶えるためにかく汗、砕く心を惜しまない、賢くてフトコロの深い大人の力がいまこそ必要です。
これは当事者お二人の落ち度ではなく、時代の流れということもある。戦前の結婚は家と家とがするもので、両家と、両家の間に立つ人がもろもろ手配して若い男女を引きあわせ、「いいお相手でしょう」「願ってもないご縁よ」と盛り立てて本人たちの意思をレールに乗せて行って成立せしめるのが普通でしたが、戦後はそういうのは封建的で古いということになり、「結婚は両性の合意によってのみ」よろしく、年頃になったら男も女も自分で相手を見つけて来て当人同士で盛り上がって結婚に至る、いわゆる(“お見合い結婚”の対義としての)恋愛結婚が多数派になりました。家に縛られず、個人主義で自由主義でいかにも新しく見えましたが、言葉をかえれば、誰もが結婚について“自由意志”“自力”以外頼れるものが何もなくなったのです。
年長世代の人間が若者たちの結婚に容喙するのは「時代遅れ」「大きなお世話」と見なされ、若い人たちが遠ざける以上に年長世代側から腰が引けて行った。取り巻く社会のありようも年長世代が結婚を経験した頃のそれとは大きく変わり、成長業種の変遷や雇用形態の多様化に伴う職業観、貨幣価値や不動産市況のからむ住居観や、子供をもうけるタイミングを含む家族観、そしてもちろん性意識などのギャップから、「年寄りが口出ししても煙たがられるだけ」と、新婚や結婚手前のカップルに、純粋な善意で積極的にかかわろうとする大人はみるみるいなくなりました。
以前にこの件で書いたときの繰り返しになりますが、若い男女がそれぞれに学んだり遊んだりする世界で、特定の異性に目が留まり好意を持ち、もっと知りたい親しくなりたいと思う、いわゆる“ほのかな恋心”なら簡単で、誰でも一度や二度はあるでしょう。しかしそのふわっとした好意が煮詰まり焦点が絞れて来て、“一つ屋根にずっと一緒に住み続けてこの先の人生の時間を共にしたい=結婚したい”に収斂するのは相当のエネルギーを要します。さらに“その相手にも同じ気持ちになってもらう”となると、なんぼエネルギーがあってもエネルギーだけじゃクリアできない、どえらい狭き門です。奇跡オブ奇跡です。
このものすごいエグゾースティングなプロセスを、自分の意欲と能力だけで完走しゴールテープを切るのは、如何に若くても、誰にでもできるものじゃありません。モテるモテない、イケメンだ不細工だの話じゃない。自力っきり誰の助けも借りずに、これはと思った特定の異性と結婚に漕ぎつけるためにはある種の才能と運が必要で、それを十分に備えた若い人は、大方が思うほどは多くないのです。当事者以外の誰か、親きょうだい親族でもいいし、友人知人、上司同僚、ご近所さんでも、励ましたり誉めそやしたり、ノロケに呆れるふりをしたり、時には冷やかしたり囃し立てたりもして当人たちの「やっぱり結婚したい」「この人としたい」をサポートし、水や栄養を与えて育てあげてやる必要がある。
くだんのお二人には金銭問題や家族問題、就職問題などもっぱら小室さん側の抱える懸念のほかに、眞子さまの出自ゆえの“国民の納得と祝福”という、捉えどころがないゆえに途方もなく越えがたいハードルがあります。お二人、特に小室さん側に「それ相応の対応」を期待しても、コレいつまでたってもすっきり解消にたどり着くことはないでしょう。何よりご本人たちが、“どこの何と何と何が、結婚できない障害になっているのか”を掴めていないように見えるからです。
ここは何としても、酸いも甘いも嚙み分けた大人の出番です。「いやいや、お熱い事で羨ましいねエ、ボクももうちょっと若ければなあ」等と目尻を下げて見せ肯定感を与えつつ「早く結婚したいよねえ、どれどれ、どこをどうすればいけるのかな」と前がかりで状況を分析し、問題を浮かび上がらせて図示なりして解決への糸口を探してくれる、人生経験値の高い第三者。
宮内庁も、小室さんにムダに圧かけて何か言わせよう動かそうじゃなく、そういう人を探してあげればいいのに。いや宮内庁は任でないと言いそうだから、お二人を知る誰でも構わない。いくら“両性の合意のみに基づく”時代でも、当事者だけに問題を押し込んでさあどうする、どうにかしなさいよホレホレと言ってるだけじゃ、失礼な言い方だけど、可哀そうすぎると思います。せっかくの、奇跡オブ奇跡の両想いなのにね。