おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

平安神宮(2)

2008年05月28日 | 08年京都
平安神宮(2)

平安神宮には大極殿を模した拝殿の奥に本殿があるのだが、1976年焼失。
焼けたというニュースを知って仰天した覚えがあります。

白虎楼から神苑に入ると、素晴らしい庭が広がります。作庭家として著名な
小川治兵衛の作庭。栖鳳池を中心とした池泉回遊式の庭園は四季を通して楽し
ます。とはいえ、この季節が最も良いでしょうか・・・。

京都の三大祭の一つの時代祭りは平安神宮の主宰で、毎年10月22日に行われて
います。

























平安神宮(1)

2008年05月28日 | 08年京都
平安神宮(1)


 過日、と言っても円山公園に行った4月4日のことであるが、円山公園から、
 安養寺、大晦日の「行く年来る年」で必ず出て来る知恩院の鐘楼を見てから
 境内に下りた。方丈庭園を拝観して後、青蓮院前を過ぎ、平安神宮に向かう。

 谷崎潤一郎の「細雪」にもここの紅枝垂れ桜は有名なのだが、私はこれまで
 ここに今の季節に来たかどうか記憶が定かではない。とはいえ、それでも
 これまでにここに来たのは合計10度にきかないだけの回数になるだろう。

 平安神宮は平安遷都1100年を記念して1895年に新しく作られた神宮。
 華美すぎる装飾性に泉下の桓武も苦笑しているだろう。これ見よがしな
 造作が気にはなるのだが、まあしかし、文句をつける筋合いでもない。 

 朱塗りの鳥居はことさらに目立つ。二枚目の応天門を入ると、正面に本殿
 「大極殿ともいうらしい?」。左近の桜も立派。左近の桜はもともとは
 梅だったもの。それが平安時代には桜に変わった。四枚目は白虎楼。
 対になる蒼竜楼が東側にある。紅枝垂れ桜は神苑のもの。
 ここの神苑は一見の価値ありです。

















 

08年円山公園(2)

2008年05月27日 | 08年京都
08年円山公園(2)


円山公園には京都の桜を代表する有名な枝垂れ桜がある。この桜の先代が
1947年に枯れ死して、二代目が跡を継いだ、佐野藤右衛門さんが先代の種を
育てていて無事に育った4本のうちの3本を、この公園に植えた。しかし、
きちんと根付いたのは、この一本だけであるらしい。なかなか難しい作業だと
思う。もう何年も前の木の勢いの良い頃は圧倒される量感だったが、昨日に
みると花びらも極端に少なく、痛々しい感じがして仕方ない。老衰だと思う。
こういう桜の寿命は人間とほぼ同じということなので、60年から70年とも
なればいたし方のないものだろう。もう数年で無理だと思うのだけど、この
桜の桜守である佐野さんが三代目を育ててくれているものと思いたい。
同じ木の2003年春と、今年の2月の画像も出します。
花弁の画像は別の木です。
銅像は坂本竜馬と中岡慎太郎像です。





















08年円山公園(1)

2008年05月26日 | 08年京都
08年円山公園(1)


4月4日、この春の桜をどうしても見たくて、阪急電車で河原町まで
出て、円山公園、知恩院、平安神宮、疎水、南禅寺から哲学の道と歩いてきた。
桜は今が盛りと咲き誇っていて、満開の素晴らしい景観を演出してくれている。
こういう環境に身体ごと浸れるということは、とてつもなく嬉しいことだ。
単純に植物の桜の満開を見るという相対的な立場を越えて、私の中に桜を
取り込み、かつ、桜が私を取り込み、そして渾然と一体となっているような
不思議な空間に桜は私をいざなっているようにさえ感じる。

円山公園は明治19年「1886」年に造られたもの。この公園の北側に
「円山安養寺」があり、公園の名称は安養寺の山号から採られている。
ただし安養寺の山号は(えんざん)と発音する。
それほどに安養寺の敷地が削られて作られた公園である。もちろん、長楽寺、
双林寺の敷地も削られたようである。
古代からこのあたりは「真葛が原」とも言われていて、歌にもたくさん
詠まれている。わびしい、寂しい感じを言う歌枕であるのだが、しかし
同時に、各種饗宴の場でもあった。昔から人々はこのあたりに集っては
飲食をし、春や秋の景物を愛でてきたという歴史がある。
初めの画像は高瀬川の桜です。花見のための場所取りとか、朝から宴会
などということはこの季節だけの風物詩とも言えるでしょう。
初めの画像は四条小橋高瀬川の桜、二番目は四条大橋東詰めのお国像。
後は円山公園です。




















08年葵祭り(2)

2008年05月20日 | 08年京都
08年葵祭り(2)

 810年に賀茂斎院制度が制定されてから、皇室の未婚の内親王を斎王とする
 ことになりました。伊勢神宮の斎宮と区別するために斎王といい、斎王の住む
 住居を斎院といいます。斎王はまた同時に斎院とも呼ばれます。
 普段は紫野にあった斎院御所に住んでいましたが、葵祭の期間には賀茂社の
 斎院に移り住みました。上下社隔年だったとのことです。
 初代斎王は嵯峨天皇の皇女、有智子内親王です。それから約400年間、1212年に
 後鳥羽天皇の皇女、第35代斎王、礼子内親王をもって斎院制度は廃絶しました。
 現在は斎王の代わりの斎王代が葵祭りの主役となっています。1956年(昭和31年)
 からです。
 尚、紫野斎院はどこにあったか今では分かりません。櫟谷七野神社に紫野斎院跡
 の碑がありますが、きちんと検証されて信用に足るもの、ということではない
 ようです。

 葵祭りに参加している随行者は必ず双葉葵を付けています。一番最後は牛車です。












 

08年葵祭り(1)

2008年05月20日 | 08年京都
08年葵祭り(1)

今年の葵祭りは木曜日でしたので、行くのはどうしょうかという思いはあったのですが、
午後の数時間がぽっかりと空いてしまったので、行って見ました。
阪急の桂から河原町、京阪に乗り換えて出町で下りて下鴨神社まで。
糺の森ですでに14時前。
下鴨神社で行われる社頭の儀もすでに終っていました。
ここでは舞楽の「東遊」も演じられるのですが、それも見られませんでした。

 『「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となったのは794年のこと
 です。第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、長岡京に遷都しました。しかし
 長岡京も藤原種継暗殺、早良親王幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したため
 に、わずか10年でおわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
 そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と改め、新京を
 平安京としました。
 ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
 平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社は784年に
 従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の正一位の位階を授けら
 れています。810年には斎院の制度も整い、賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭
 にふさわしい儀式として、形式が整えられました。
 賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。朝廷が騎射
 禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる制度もあって鴨氏の女性が
 「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女になっていたとのことです。
 ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わりして主催する
 ことになったわけです。別の言い方をするなら、大変な人気のある祭りを朝廷が
 乗っ取って、主催することになりました。
 この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。以来、今日
 まで続いています。
 ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。』
               『』内は私発行のマガジンから引用。