おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

170515葵祭と植物園

2017年05月16日 | 京都


まずまずの天気である。

この日は両加茂社の葵祭の日だ。
久しぶりに見に行ってみようかという気になって、昼前に自宅を出る。
久しぶりと言っても一昨年か、その前年には見ている。

ちょっと長いけど私発行のマガジンから引用します。

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1 鴨氏と賀茂社
 
「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となったのは794年のこと。
 第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、長岡京に遷都しました。しかし
 長岡京も藤原種継暗殺、早良親王幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したため
 に、わずか10年でおわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
 そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と改め、新京を
 平安京としました。
 ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
 平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社は784年に
 従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の正一位の位階を授けら
 れています。810年には斎院の制度も整い、賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭
 にふさわしい儀式として、形式が整えられました。
 賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。朝廷が騎射
 禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる制度もあって鴨氏の女性が
 「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女になっていたとのことです。
 ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わりして主催する
 ことになったわけです。別の言い方をするなら、大変な人気のある祭りを朝廷が
 乗っ取って、主催することになりました。官祭です。
 この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。以来、今日
 まで続いています。
 ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。


 2 賀茂の斎院

 810年に賀茂斎院制度が制定されてから、皇室の未婚の内親王を斎王とする
 ことになりました。伊勢神宮の斎宮と区別するために斎王といい、斎王の住む
 住居を斎院といいます。斎王はまた同時に斎院とも呼ばれます。
 普段は紫野にあった斎院御所に住んでいましたが、葵祭の期間には賀茂社の
 斎院に移り住みました。上下社隔年だったとのことです。
 初代斎王は嵯峨天皇の皇女、有智子内親王です。それから約400年間、1212年に
 後鳥羽天皇の皇女、第35代斎王、礼子内親王をもって斎院制度は廃絶しました。
 現在は斎王の代わりの斎王代が葵祭りの主役となっています。1956年(昭和31年)
 からです。
 尚、紫野斎院はどこにあったか今では分かりません。櫟谷七野神社に紫野斎院跡
 の碑がありますが、きちんと検証されて信用に足るもの、ということではない
 ようです。
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源氏物語などにも、この祭りのことは記述されていますが、上記のように両加茂社も
加茂祭も大変な歴史があります。こんな大事な祭りはずっと続けてほしいものです。

そういう思いを持ってはいても、加茂祭は数年に一度しか見に行くことはしません。
何度も何度も見ていますし、もういいかなーという気もあるのです。
70歳近い高齢となれば一日仕事で10キロほどの巡行の道程をお付き合いできる
気力も体力もありません。

そういう訳で、この日も下鴨神社で「社頭の儀」を少し見て、上賀茂神社までの
巡行見物はパスして、ほど近い植物園。
植物園の花たちを見る方が私にとっては楽しいことかもしれません。
植物園ではこの季節に開花する花たちが、それなりに私を楽しませてくれました。
老境に入った私が花を愛でるのはふさわしくもあるのか、それとも大の男が
花なんて・・・と忌避するべきなのか、微妙な問題です。

ともあれ当日の画像を出します。
例によって下はOnedriveです。

170515葵祭

植物園


















170511洛西ニュウタウン撮影散歩

2017年05月12日 | 京都


季節は初夏。すばらしい季節だ。

少しばかり簡単な用件があって自転車で洛西ニュウタウンに向かう。
拙宅から自転車で10分少しの距離である。2キロから3キロ程度。
用事を済ませてから、この日の撮影行脚が始まる。

洛西ニュウタウンは1960年代から70年代に新しく造成された街だ。
当時はモダンな町であったのだが、現在は少子化・高齢化・建物の老朽化
などの問題が出ている。新たに造成された街に共通する普遍的な問題だ。
でも地域住民団体や行政がいろんな課題に真剣に取り組み、少しでも
活力のある明るい街、住みよい街にと日常的に奮闘されている。

私はこの町ができる前に近くに越してきた。中学卒で就職のためである。
当時は勤務は朝8時から19時まで。むろん昼休みが1時間あった。
毎土曜日は17時までの仕事だったと記憶する。
今の時代では考えられないほどの長時間労働だったが、それが当たり前の
時代であった。

建物が建築される前の、造成工事が終わった更地で、週に一度の休みの
日曜の多くを草野球をして過ごしていた。
もう50年以上も前の話である。

その後、会社都合で新築された工場に移ったために、この地とは疎遠になった。
それでも20歳までの少年の頃の私が、まぎれもなく懸命に一時期を過ごした
場所であり、若さをまとったままに象嵌されている場所だ。ここで若い私に出会う。
だから妙に甘酸っぱい郷愁めいた思いを懐胎している。確かにこの地にあった
私自身の歴史と、過ごしてきた日々をいとおしく思う感覚が起きる。

それはさておき、通称ナンジャモンジャという樹が花のシーズンを迎えている。
正式名は「ヒトツバタゴ」。花はマンサクに似ているともいえる。純白の花弁が薫風に
なびいて、なんだか清冽なイメージを受ける花弁であり態様だ。

このナンジャモンジャを撮影しだしてから6.7年が過ぎるが、ほぼ毎年のように
撮影を目的にニュータウンに来ている。
この町には街路樹が多い。アメリカフウ(モミジバフウ)・ユリノキ・ケヤキ・
トウカエデ・クスノキ・イチョウなど多様だ。
それらの樹を見たり、小畑川沿いをゆっくりと散策することも私の楽しみの一つだ。

この日、5月11日に撮影した画像は例によってOnedriveに出しています。
よろしければご覧ください。「2017年」から「170511洛西激写散歩」に入って下さい。
宝飾品の画像は私の手作り商品です。

170511洛西撮影散歩
















竹の秋

2017年05月10日 | 京都


竹が秋を迎えている。

私の住む京都市西京区にある西山(西の丘)丘陵には竹林が多い。
明治時代の中頃に交通網が発達してからタケノコの販路が拡大して、
そのためにタケノコ生産農地も急拡大したらしい。
現在では京都の西山のタケノコは全国的にも有名である。

ともあれ、竹は竹のクローン(竹の子)を作ってから、葉が
薄黄色く変色し落葉する。他の樹木が秋に落葉するのとは対照的であり、
ために陰暦3月、晩春の季節を「竹の秋」という。
そこここから見える山の竹林は一様に薄黄色に変色していて、今の季節を
象徴している風物詩でもある。

親竹自体は子を作る産みの苦しみの果てに葉を変色させ、ついには落下させる
ようにも思えて、なんだか痛々しい思いも持つが、それが竹の生理であり、
ごくごく自然の現象ではある。

陰暦に直すと本日5月10日はは陰暦4月15日。季語としてはすでに半月を過ぎている。
それでももう少し「竹の秋」は続きそうだ。
葉はすぐに若々しい葉と入れ替わる。
瑞々しい葉を付けた竹を「竹の春」という。でも「竹の春」は夏ではなくて
秋の季語になっている。

  竹秋の 風騒ぎして あたたかし 「清水基吉」

下の二枚は竹の秋の画像。





ブログを長く休んでいた間、写真は撮っていました。
でもまだ整理のついていないのもあり、それらは後日にOneDriveに出します。

取り合えずは「17年画像」や「植物園総合」にリンクしますので、
直近のものをご覧ください。

OneDrive画像