180715 高野山町石道
ひどい失敗談なのであり、ブログとしてここに記述するほどのことでも
ないのだが、単純に備忘録として記述してみたい。
7月15日朝、7時半過ぎには自宅を出る。最寄駅から電車を乗り継いで、
南海電鉄「九度山駅」着はほぼ10時半。
駅でマップを確認したりカメラの設定をしたりして15キロほどの踏査の
一歩を踏み出す。
正確には町石道は九度山駅が起点ではなくて、駅から25分ほどの距離にある
「慈尊院」が起点。慈尊院までに、初めて見る町である九度山町を少し散策。
戦国武将の真田幸村で有名な所なのだが、今回が初めてでもあり「真田庵」に立ち寄る。
九度山町には「大石順教尼」の旧跡もあるのだが行かない。この女性のことは
何で知ったのか、すでに定かではないのだが、かなり大昔に知ってはいた。
京都の勧修寺の側にも彼女の史跡がある。ともかくも敬服すべき女性である。
真田幸村や十勇士のことも小学生時代に知って心躍らせたものである。
ざっと九度山の町を見て丹生川にかかる橋を越えて慈尊院。
慈尊院から、その奥に鎮座する丹生官省符神社の石段を上る。
慈尊院から丹生官省符神社にと上がる石段の途中に180町石がある。
町石道とは高野山参詣道のことであり、高野山の大門からここ迄一町ごとに180基の
石柱が建っている。一町は約109メートル。町石道の道幅は1.5メートル程度。
司馬遼太郎氏の「街道をゆく」では廃道のようになっていたらしいのだが、
道の手入れをされたのか舗装さえされている。
このルートを高野山開創以来、貴顕や僧侶だけでなく、多くの人が往来した。
大門から慈尊院までは約20キロ以上という。今回は15キロ程度の踏査が目的だ。
今回の踏査で一番に行きたい所は「丹生都比売神社」。町石道からは少し外れた
位置にある。高野山は女人禁制地であり、高野山には入れない西行の妻と娘が
ここに隠棲していたという。この、高野山のふもとの天野の地にある丹生都比売神社
にはかねてより行きたいと思っていた。もちろん簡単に行けるものではないと
いうことも知ってはいたのだが・・・。
そういう思いを持っての今回の山歩きだったのだが、慈尊院から4キロも行かない
内に早々と断念する。理由を無理に上げれば、暑すぎて汗を滴らせながらの登りは
思いのほか時間がかかり、スタミナも奪われる。ベットボトルも1本しか携行して
いなくて、すぐに空になり、残りの道程を水分補給なしで歩くのは無理過ぎる。
かてて加えて風邪気味状態なのか変に咳もする。例によって昨晩の睡眠もよく
取れていないままだ。若い頃なら多少の登りもものともしないのに、この年齢では
ハアハアーと荒い息を吐きながら登るしかない。体力・脚力は年齢相応である。
年はそれだけの分、私の身体に重く降り積もっている。
かくして立ち止まって、行くべきか引き返すべきか自問自答したのだが、
水分補給ができないとどうにもならないのだし、思いを残しつつ引き返す。
結果的にはそれが賢明な選択ではなかったかと思う。
後はもう蛇足なのだが、下山して麓にある道の駅で休憩後に九度山駅から
帰宅する。自宅着は18時前。
かくしてこの日は終ってしまった。
次には秋になってから泊りがけで高野山と丹生都比売神社・粉河寺に参詣したいと
考えている。もちろん歩く行程はできるだけ短くするつもりである。
OneDriveに置いているこの日の画像です。枚数は少しです。