おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

2013年03月 (5) 北野天満宮

2013年03月28日 | 京都
北野天満宮

3月16日、金閣寺の北にある「しょうざん」まで梅を見に行きました。梅の名所
というには本数も少なく見応えもなかったのですが、庭園には北山杉などもあり、
まずまず味わいのある庭園ではないかと思います。
「しょうざん」から歩いて「上品蓮台寺」「千本閻魔堂」「千本釈迦堂」などを
再訪してから北野天満宮に行きました。天満宮は三週間ぶりでした。
梅もまだ見頃ともいえ、それなりに楽しめました。
下は私がある所に書いたものです。

 北野天満宮のある辺り一帯を北野といいます。平安京大内裏の北側に位置
 するので北野という地名になったとのことです。北野天満宮ができる以前は
 朝廷の放牧地でもあり、また、右近の馬場があって競馬を開催していた事が
 いくつかの文献からも分かります。他には、天神地祇(てんじんちぎ)を祀る
 聖地でした。天神地祇とは全ての神という意味ですが、農耕神でもある雷神
 も早くから信仰されていました。
 天満宮ができたのは950年頃です。本格的な造営は959年、藤原師輔が神殿を
 建立してからのようです。祭神は903年に大宰府で死亡した菅原道真です。
 道真の霊を怨霊として、それを鎮めるために祀ったのが始まりです。
 この北野天満宮は創建当初からいろいろありすぎて、私の筆力では短くまと
 めあげることはできません。以下、断片的に記述します。
 北野天満宮もたびたび火災に遭っています。現在の社殿は豊臣秀頼が造営した
 ものが殆どといわれます。1607年の造営といわれます。
 豊臣秀吉の築造した御土居が現在も境内西側に残っています。
 北野天満宮(菅原道真)は早くから学問の神様として慕われていて、1204年に
 後鳥羽院、定家、家隆、良経などが北野宮歌合をやっています。時代が下がっ
 てからは連歌の興行がたびたびなされました。現在は全国から献詠された和歌
 が10月29日に披露される(余香祭)があります。
 また、芸能との関係も深く、舞楽、猿楽の興行もたびたび行われました。
 出雲阿国が1603年3月に歌舞伎踊りを演じたのもこの北野天満宮なので、北野
 天満宮は歌舞伎発祥の地ともいわれます。
 秀吉が北野大茶会を催したのもここでした。1587年のことです。
 現在、管公菅原道真の忌日にあたる2月25日に梅花祭があります。

 「東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」
                  菅原道真 (拾遺和歌集1006番)
























2013年03月 (04) 正法寺

2013年03月27日 | 京都
正法寺

3月13日に西山の正法寺にまで出向いてみました。
大原野神社の南側にある古刹です。754年創建と言いますから
古いお寺です。長い歴史の中で勝持寺の内に組み込まれて、
勝持寺四十九房の一宇でもあったようです。
現在は多くの巨石が庭に置かれていて「石の寺」とも称しています。
このお寺は桜もありますが、なんといっても梅が多くて、知られざる
梅の名所でしょう。眼見当で60本ほどの梅が梅園にあります。
私はこの4.5年、毎年行っているのですが、いつも貸切状態です。
一人で正法寺の梅を堪能している贅沢さを自覚しています。

















以下はムスカリ、ハナニラ、ホトケノザ、ヒメウズの順です。ヒメウズは5ミリまでの花です。










2013年03月 (03) 梅宮大社

2013年03月27日 | 京都
梅宮大社

もともとは橘氏の氏神社として、山城の国井手の橘寺内に建立されていたようです。
それを平安京遷都の794年以後に檀林皇后橘嘉智子が現在地に移築したそうです。
橘嘉智子は嵯峨天皇皇后です。
橘氏の氏神社ですが、嵯峨天皇や仁明天皇、そして酒造に関係する神々を祀っている
関係からか、名神大社という最も高い社各を授けられていました。
桂川を挟んでの松尾大社と並ぶ洛西にある大社として栄えたそうです。
松尾大社は秦氏の創建ですが、酒造の神様として現在でも関係者の篤い崇敬を
受けています。
本殿、拝殿の東西北側には神苑があります。この神苑には35種類550本の
梅の木があるそうです。私もここの梅を見るのを春の楽しみの一つとしています。
梅以外にも椿、桜、ツツジ、スイセンなどが植えられています。

本殿背後の巨木にアオサギのコロニーがあったのですが、木が枯れた?ようで、
現在はアオサギはコロニーをどこかに移しているようです。

楼門です。



大社の梅

















河津桜、シロハナタンポポ、椿、オウレンです。









本殿、最後は干支の絵馬です。






春来たる

2013年03月27日 | 歌稿



春来たる                   

寒も過ぎ立つ春も過ぎ花開く六十四度目の春のささやき

春来たる僥倖ゆえの花を見て余りの生を睦れて歩く

さながらに蝶にもなりて花々の姿求めてさすらい行かむ

先がける寒の桜もひととせの春の繚乱あわれをこめて

裸木に蕾を付けたその日から盛りの花を待ち焦がれおり

年一度定めのままに花開く聞いてみたしや原発の罪

花の枝に空蝉やどり郷愁の風はにわかに我が身を包み

花も無き祇園の名花宵闇に光当てられ人目集めて

草や木も仏性宿ると説く人がライトを当てて花を傷めて

欲望の渦巻く人の世であれば花も哀れや稼ぎのどうぐ


2013年3月(02) 城南宮

2013年03月26日 | 京都
城南宮

 
 史誌上の初見は925年ですが、それより早くに建立されていたことは
 確実のようです。794年の平安京遷都にあたり、南方で平安京を鎮護
 する城南明神として、崇敬を集めたようです。
 平安末期、白河院と鳥羽院の鳥羽離宮(城南離宮)に組み込まれて、
 「都移り」とも言われたように殷賑をきわめました。多くの貴族の別邸も
 付近に建てられたようです。西行も敷地を与えられて別邸を構えていた
 ということが伝えられています。(後の西行寺のこと)
 定家卿の「明月記」では城南寺と記述されています。
 当時、競馬(くらべうま)流鏑馬(やぶさめ)がここで盛んで、後鳥羽
 天皇はこの行事にことよせて、承久の変の際の兵を集めたようです。
 城南宮は応仁の乱で衰退します。時代が下がって、江戸時代末期の
 「鳥羽・伏見の戦い」は、このあたりが中心地になりました。

 庭園は楽水宛と呼ばれます。別名、神宛です。この庭園で4月29日と
 11月3日に午後2時から「曲水の宴」がとり行われ、その模様はテレビ
 放映されます。この庭は源氏物語に出てくる花が植栽されています。
 美しい庭です。
 ことに枝垂れ梅の素晴らしさは他の寺社では味わえなく、まぎれもなく
 京都一でしょう。この所、私も城南宮の梅が楽しみで毎年行っています。 
 最後の画像の「菊水若水」はお勧めでしょうか。一味違います。
 






















2013年03月 (01) イヌノフグリと梅

2013年03月22日 | 京都

イヌノフグリと御苑の梅

3月7日に再度、イヌノフグリの撮影をと思い立って百万遍に行きました。
前回、2月25日に一度は訪れていたのですが、イヌノフグリの花はしぼんでいて
目的を果たせませんでした。
今回は数輪開いていて、僥倖だとも思いました。
石垣にへばりつくように生えています。絶滅危惧種なのですが、ここでも
遠からず見ることはできなくなるのではないかとも思います。
上から5ミリほどの花、生え方、ふぐり部分の画像です。







イヌノフグリをカメラに収めてから御苑に行って、早咲きの梅の撮影。
ここでも早咲きの梅は紅白ともにほぼ満開でした。遅咲きのは固い蕾です。
















 【京都御所と京都御苑】

 現在の京都御所は南北朝時代の北朝が皇居としていた場所にあります。
 平安時代末頃には、平清盛に取り入って大納言になったという藤原邦綱邸で
 あり、この邸宅が後に後白川天皇内親王の宣陽門院に譲られ、南北朝時代の
 1331年に光厳天皇が皇居としたものです。土御門東洞院内裏という里内裏です。
 
 もともとの平安京内裏は1227年焼失後は再建されませんでした。それまでにも
 内裏はたびたび火災にあっていて、内裏の再建までの期間は摂関家などの邸宅
 などを皇居としていました。それを里内裏といいます。
 
 現代の御所も何度も火災により炎上しています。そのつど、織田氏、豊臣氏、
 徳川氏などが再建や修復をしています。
 現在の御所は1855年に再建されたものです。

 この御所を取り囲むようにして、鷹司邸、九條邸、近衛邸、閑院宮邸、桂宮邸
 などの公家や宮家の邸宅がありましたが、明治二年の東京遷都のために東京に
 移転しました。その跡地を含めた苑地が京都御宛です。
 京都御苑は自由に散策できますが御所は春と秋の各5日間の一般公開の時以外は、
 事前に、はがきによる参観申し込みが必要です。

 清和天皇の清和院はこの御苑にあったのですが、現在は、寺町通りに面した門に
 「清和院御門」という名称がわずかに残っているばかりです。

      (主に平凡社「京都市の地名」を参考にしています。)