おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

木曽上松と寝覚めの床

2008年09月21日 | 信州旅行

木曽上松と寝覚めの床
9月13日(土)
自宅(6.40)→向日町駅→名古屋駅→塩尻駅→下諏訪駅(11.20)。
下諏訪駅(13.52)→松本駅(14.23)。松本駅(16.34)→姨捨駅(17.15)。
姨捨駅(19.21)→長野駅(19.49)。ナガノアベニューホテル投宿。

9月14日(日)
ホテル(8.00)→善光寺→長野駅(10.06)→川中島駅。
篠ノ井駅(13.08)→木曽福島駅(14.32)。木曽福島駅(17.30)→名古屋駅→
京都駅→向日町駅→帰着(21.00)前。

木曽の桟跡から国道を歩いて上松町に入りました。上松町は木曽杉の集散地。
江戸時代は尾張藩の領地でした。杉の枝を折れば腕一本、杉を一本盗んだら命一つと
いわれたほどに厳重に管理されていたようです。
ここの杉が伊勢神宮の遷宮の時に用いられます。

地図を手にして歩いて「寝覚めの床」まで。分かれ道で標識が無いところもあり、
少し迷いました。
寝覚めの床の景観は、まあ、日本では大したものではないかと思います。柱状節理という
よりは方状節理というようです。浦島伝説があるなどというのには笑ってしまいました。
なんとご丁寧に浦島太郎の釣竿も保管されています。

ツリフネソウのムラサキと白が咲いていました。ミズヒキも満開。でも植物の画像も
上松宿の画像も撮っていません。わずかにムラサキツリフネソウを一枚のみ。
芭蕉も「桟はし・寝覚めなど過ぎて」と素っ気無く書いているだけですが、私もどうやら
素っ気無く過ぎてしまったようです。
かくして、2日間にわたる私の短い旅も終わりました。短い旅とはいえ、春の東北旅行
とともに得がたい時間を過ごせたのではなかろうかと思います。
















木曽福島と桟

2008年09月21日 | 信州旅行

木曽福島と桟 9月13日(土)

自宅(6.40)→向日町駅→名古屋駅→塩尻駅→下諏訪駅(11.20)。
下諏訪駅(13.52)→松本駅(14.23)。松本駅(16.34)→姨捨駅(17.15)。
姨捨駅(19.21)→長野駅(19.49)。ナガノアベニューホテル投宿。

9月14日(日)
ホテル(8.00)→善光寺→長野駅(10.06)→川中島駅。
篠ノ井駅(13.08)→木曽福島駅(14.32)。木曽福島駅(17.30)→名古屋駅→
京都駅→向日町駅→帰着(21.00)前。

篠ノ井駅発13時08分、木曽福島着14時32分の特急に乗車。帰路、名古屋着を19時頃にと
考えると、17時30分木曽福島発に乗らなければならず、3時間までしか時間がない。
それで木曽福島駅から中山道を12キロほど歩くのは断念して、タクシーで「木曽の桟(かけはし)」
まで。ほぼ4キロ。1750円。木曽の桟の付近には人は一人も歩いていませんでした。

現在、木曽谷沿いの道は国道19号線が通じています。江戸時代の「中山道」と重なる部分が
多いです。西行の時代はこの道は官道の東山道ではありません。
東山道は中津川を越えてから神坂峠、園原、阿智と過ぎて、伊那を塩尻に行きます。
中山道は木曽谷沿いを通って塩尻に出ますが、東山道ルートに比べて距離を
10数キロ短縮できます。
木曽谷ルートは820年には完成していたようですが、しかし当時は桟の場所も多くて通行は
難渋したようですので、それが原因で官道とはならなかったものでしょう。

桟とは川を挟んで対岸との行き来を可能にする通常の橋ではありません。地形などの
ために一本の道を連続したものとして造ることができず、その通行できない部分に板や
丸木などを掛けて通行できるようにした設設を言います。木曽谷では断崖絶壁の部分も
多くて、たくさんの桟があったようです。
現在、遺構が残っているのは木曽福島駅からほぼ4キロ南にあります。石組みの桟に
作り変えられたのが1648年。長さ102メートル。もともとは木を蔓で縛って長くした木の
桟道だったものでしょう。西行に桟の歌が4首あります。
西行は実際に現地に行ったものと思います。

1 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曽のかけはし底もみえねば
           (岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1432番)
           
2 さまざまに木曽のかけ路をつたひ入りて奧を知りつつ帰る山人
            (岩波文庫山家集229P聞書集・夫木抄)
           
3 駒なづむ木曽のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり
             (岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)

4 ひときれは都をすてて出づれどもめぐりてはなほきそのかけ橋 
           (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1415番) 

芭蕉が更科紀行でここをたどったのは1688年のこと。その時にはすでに石組みの
桟になっています。したがって芭蕉の句の

桟や命をからむつたかづら

は、どうなのでしょうね。別の部分の桟であるか、もしくは芭蕉お得意の虚構なのでしょうね。

小さな石を敷き詰めた部分が桟。高さ13メートル、長さ102メートルあったようです。
最後は木曽福島の町並みです。















川中島古戦場

2008年09月21日 | 信州旅行

川中島古戦場
9月13日(土)
自宅(6.40)→向日町駅→名古屋駅→塩尻駅→下諏訪駅(11.20)。
下諏訪駅(13.52)→松本駅(14.23)。松本駅(16.34)→姨捨駅(17.15)。
姨捨駅(19.21)→長野駅(19.49)。ナガノアベニューホテル投宿。

9月14日(日)
ホテル(8.00)→善光寺→長野駅(10.06)→川中島駅。
篠ノ井駅(13.08)→木曽福島駅(14.32)。木曽福島駅(17.30)→名古屋駅→
京都駅→向日町駅→帰着(21.00)前。

長野駅から川中島駅まで移動。川中島と言っても広範囲にわたるようであり、
実際の合戦場の中心地である八幡平は川中島駅からは遠い。バス便が無いために
やむなくタクシー。ちょっと10分程度で2200円。やはりタクシーは常軌を
逸するほどに高いと思う。
古戦場跡は整備されて公園になっている。そこでこの日に川中島の戦いを再演する
イベントをやっている。「更級女性会」なども出て案内もしており、露店も多い。
観衆も多く、賑わいを見せている。
13時から再演とのことであり、それまでは付き合うことが出来ないので、再びタクシーで
篠ノ井駅まで。特急で木曽福島駅まで。篠ノ井駅発13.08分の特急に乗車。
三枚目は信玄と謙信。最後は古戦場側のリンゴ。


















長野市

2008年09月21日 | 信州旅行

長野市

9月13日(土)
自宅(6.40)→向日町駅→名古屋駅→塩尻駅→下諏訪駅(11.20)。
下諏訪駅(13.52)→松本駅(14.23)。松本駅(16.34)→姨捨駅(17.15)。
姨捨駅(19.21)→長野駅(19.49)。ナガノアベニューホテル投宿。

9月14日(日)
ホテル(8.00)→善光寺→長野駅(10.06)→川中島駅。
篠ノ井駅(13.08)→木曽福島駅(14.32)。木曽福島駅(17.30)→名古屋駅→
京都駅→向日町駅→帰着(21.00)前。

長野駅から善光寺までの参道沿いで撮影した画像を少し出します。
初めの二枚は街路樹として植えられていた姫リンゴ。直径3センチほどのリンゴです。
次の二枚は白とピンクのシモツケ。

後の二枚、お地蔵さんは柔和な表情、土産物店の前にあった「おかめ像?」は
インパクトがあるので撮影しました。













長野 善光寺

2008年09月21日 | 信州旅行

長野 善光寺

9月13日(土)
自宅(6.40)→向日町駅→名古屋駅→塩尻駅→下諏訪駅(11.20)。
下諏訪駅(13.52)→松本駅(14.23)。松本駅(16.34)→姨捨駅(17.15)。
姨捨駅(19.21)→長野駅(19.49)。ナガノアベニューホテル投宿。

9月14日(日)
ホテル(8.00)→善光寺→長野駅(10.06)→川中島駅。
篠ノ井駅(13.08)→木曽福島駅(14.32)。木曽福島駅(17.30)→名古屋駅→
京都駅→向日町駅→帰着(21.00)前。

7時に起床。カーテンを開く。本日は良い天気になりそう。宿泊した
ナガノアベニューホテルで朝食後、1.5キロ離れている善光寺に向かう。
朝8時の出発。
参道の両側にカツラの木と姫リンゴの木が街路樹として植えられていて、
姫リンゴは鈴成りに実をつけている。
仁王門、山門、本堂の順に拝観。仁王像は高村光雲作。

牛に引かれたわけではないけれども、長野に来て善光寺を素通りするわけには
行かない。
善光寺は大化の改心の2年前に創建されたというから、非常に古いお寺。
本田善光なる人が開基という。信濃国司に随行して飛鳥京に来ていた善光が難波堀江
(大阪説は無理がある)で阿弥陀如来の声を聞いたのが結縁という。国司に随行して
都まで来たのであるなら、それなりに身分が高くて苗字を許されていたのだろう。
それなのに「善光寺縁起」では貧しい暮らしをしていたとある。納得は出来ないが、
所詮は縁起。

どの宗派にも属していないというが、それは鎌倉、室町に入ってたくさんの宗派が
できてからのことであろう。
要するにどの宗派であれ参拝は受け入れるということだと思う。ただ、善光寺信仰の
中核を担ってきたのは天台宗、時宗、浄土宗とのことであり、それらの不断の
信仰がなければ今日の善光寺はなかったものと思う。
境内をひととおりざっと拝観。さすがに巨大な構造物で圧倒される。
本堂の中には入ったが戒壇巡りなどはしないで近くのバス停から長野駅まで。

1688年、芭蕉は善光寺に参拝したことは確実だと思われますが、「更級紀行」の
地の文には「善光寺」の名前はありません。

初めの三枚は仁王門と仁王。ついで山門。本堂前の大香炉。本堂を正面と横から。
最後は境内の桜紅葉。




















姨捨

2008年09月19日 | 信州旅行

姨捨
9月13日(土)
自宅(6.40)→向日町駅→名古屋駅→塩尻駅→下諏訪駅(11.20)。
下諏訪駅(13.52)→松本駅(14.23)。松本駅(16.34)→姨捨駅(17.15)。
姨捨駅(19.21)→長野駅(19.49)。ナガノアベニューホテル投宿。

9月14日(日)
ホテル(8.00)→善光寺→長野駅(10.06)→川中島駅。
篠ノ井駅(13.08)→木曽福島駅(14.32)。木曽福島駅(17.30)→名古屋駅→
京都駅→向日町駅→帰着(21.00)前。

姥捨着17.15.少し暗くなりかけています。雨がポツリポツリと降っています。
13日、十四夜の月を待ったのですが、月はついに現れませんでした。
棚田はそこそこに風情が感じられますし、また夜景もすばらしいものでした。

大和物語(950年頃)、今昔物語集(1060年頃)にほぼ同じ内容の姨捨伝説があります。
それまでのこの地方の古称は「小初瀬」がなまって「オバステ」と呼ばれていたようです。
「姨捨」の文字が当てられたのは両物語が広まってからだろうと言われます。

上の物語では、実母のように仲良く暮らしていた伯母が年を重ねて身体も弱り腰も
曲がったので、甥は意地の悪い妻にそそのかされて伯母を姥捨山に棄てて来るという話です。
伯母を山に棄てては来たけれども、姥捨山を照らす月が明るく見事でもあり、気になって終夜
寝ることができず、悲しく、恋しく思えて、再度、山に登って伯母を連れて帰るという説話です。

生活に困窮した果てに生活能力の衰えた高齢者を棄てるという棄老伝説は各地にあった
ようです。柳田國男も遠野物語で棄老の風習を紹介しています。
棄老ではないのですが、生まれたばかりの子供、幼い子供を間引く(殺すこと)ということも、
これまでの長い歴史の中では盛んに行われていたのが実情ですし、
いずれにしても悲しい事実に違いありません。

この姥捨ての地はまた「田ごとの月」で有名です。水を張った棚田に月の写る状態を言いますが、
棚田が形成されたのは江戸時代と見られています。

JR姥捨駅は標高547メートルにあり、そこから見下ろす一帯は、上杉謙信と武田信玄が
戦った「川中島の戦い」の場所でもあります。
下は西行の歌です。

 あらはさぬ我が心をぞうらむべき月やはうときをばすての山
          (岩波文庫山家集84P秋歌・西行上人集・
                 新勅撰集・御裳濯河歌合)

 天雲のはるるみ空の月かげに恨なぐさむをばすての山
          (岩波文庫山家集219P釈教歌・新潮886番・
                 西行上人集・山家心中集)

 くまもなき月のひかりをながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき
           (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮375番)

現在、姨捨駅は無人駅となっています。棚田はイネが実って黄金色ですが、しかしながら、
こんな所にまで民家が建てられていて無粋もいいところです。せっかくの名所が台無しです。
ひどい話です。なんとか行政がこれ以上にひどくならないようにして欲しいものと切望します。



















信州旅行 諏訪市 (1)

2008年09月19日 | 信州旅行

諏訪市(1)

< 9月13日(土)

自宅(6.40)→向日町駅→名古屋駅→塩尻駅→下諏訪駅(11.20)。
下諏訪駅(13.52)→松本駅(14.23)。松本駅(16.34)→姨捨駅(17.15)。
姨捨駅(19.21)→長野駅(19.49)。ナガノアベニューホテル投宿。

9月14日(日)

ホテル(8.00)→善光寺→長野駅(10.06)→川中島駅。
篠ノ井駅(13.08)→木曽福島駅(14.32)。木曽福島駅(17.30)→名古屋駅→
京都駅→向日町駅→帰着(21.00)前。

9月13日、14日の2日間にわたって信州を駆け足で見てきました。信州における
西行歌の歌枕を尋ねてということと、芭蕉の更科紀行の跡を少しでもたどって
みたいというのが目的でした。

諏訪大社は信濃の国の一宮。官幣大社従一位。全国に一万社ほどの分霊社が
あります。創建についてはつまびらかではないようですが、652年にはすでに
記録がありますから、日本有数の古い神社と言えます。
上社は本宮、前宮の二社があり、諏訪湖の南岸から少し離れた位置にあって、
本宮は諏訪市、前宮は茅野市にあります。
諏訪大社下社は諏訪湖の北岸すぐにあり、春宮、秋宮の二社です。合計四社。
諏訪湖を挟んで上下社が対峙するような形で鎮座しています。
上社は男神の建御名方神(タケミナカタノカミ)、下社は女神の八坂刀売命
(ヤサカトメノミコト)を祭神としています。この建御名方神は
古事記の国譲りの神話に出て来る神です。
例祭は十二支の申年と寅年の六年に一度行われる「御柱祭」が有名です。

画像は下社秋宮の神社標柱、神楽殿、神楽殿の注連縄、幣拝殿、左側の御柱です。
花は諏訪市内で見つけた白花ツユクサと今も盛りのアジサイです。