おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

17.11.02 絵島・明石

2017年11月04日 | 思い出

17.11.02 絵島・明石

 

平安から鎌倉にかけて活躍した歌僧に西行法師がいる。


私はもう15年以上前から、西行法師のマガジンを出している関係で、

西行史跡を訪ねることも多い。厳密にいうなら私の旅は西行関連史跡を

訪ねてのものでもある。西行とともに芭蕉関係史跡を訪ねることも多い。

 

今回は近場なので日帰りでもあり、とても旅などとは言えない。

これまでには東北をはじめたくさんの所に行ったが、今回は見残している「絵島」と「明石」に行ってきた。

「絵島」は淡路島の北端にある。明石までJRで行き、明石港からフェリーで渡った。

西行家集である山家集から「淡路」の歌を抜粋してみる。

今回、行ったのは03番歌にある「絵島」


【淡路】  淡路の国。瀬戸内海東端にある島。現在は兵庫県

01 淡路がた磯わのちどり聲しげしせとの鹽風冴えまさる夜は

    (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮版548番・万代集)

02 あはぢ潟せとの汐干の夕ぐれに須磨よりかよふ千鳥なくなり

    (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮版549番・西行上人集・山家心中集)

03 千鳥なく繪嶋の浦にすむ月を波にうつして見る今宵かな

    (岩波文庫山家集95P冬歌・新潮版553番・西行上人追而加書・夫木抄)

04 あはぢ嶋せとのなごろは高くとも此汐わたにさし渡らばや

    (岩波文庫山家集168P雑歌・新潮版1002番)

05 小鯛ひく網のかけ繩よりめぐりうきしわざあるしほさきの浦

    (岩波文庫山家集116P羇旅歌・新潮版1378番)

   「絵島の浦」 
         淡路島北端の津名郡岩屋町にある景勝地。明石の対岸に位置する。

   「しほさきの浦」  
         不明。和歌山県潮岬説がある。淡路島南端の潮崎説が有力。

「明石」


01  月さゆる明石のせとに風吹けば氷の上にたたむしら波
  (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮版376番・西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)
                                 
02  夜もすがら明石の浦のなみのうへにかげたたたみおく秋の夜の月
           (岩波文庫山家集247P聞書集)
 
「明石」の歌は7首を数えるのだが、ここでは割愛する。
 
「絵島」は歌枕というには、歌人たちには詠まれてこなかったようだ。
手元の「平安和歌歌枕地名索引」にも取り上げられていない。
和歌としてよりは記紀にある国生み神話の「おのころ島」伝承で名高いのだろう。
 
島は小さくて、ものの数分もいれば、すべて見て回ることができる。
時間もあることとて、絵島から数キロの位置にある「明石海峡公園」に向かう。
予想以上の良い公園であった。とてもすべてを見て回ることができないので、
いつかまたこの公園に来たいものだと思う。
 
 
 
明石海峡公園から岩屋のほうに戻って、フェリーで明石に向かう。
今回は絵島の「月を波に写して」の状態を見ることもなかったが、それも仕方ない。
明石で落日をと思って撮影ポイントを歩いて探し回ったのだが、探して歩いているうちに
陽は沈んでしまった。ああ、やんぬるかな。
 
 
 
 
 
明石は地名の「あかし」に掛けて、月の名所とも言われる。
事実として「明石と月」の歌はとても多い。平家物語や源氏物語でも記述されている土地だ。
しかしながら明石の月もしっかりとは見ないで、JR舞子駅まで戻って明石大橋の撮影。
撮影場所が近すぎたと思う。もう少し離れた撮影ポイントに行くべきであった。
それにしても夜景撮影はやはりむつかしい。

かくして、私の17年11月2日が終わった。できればもう一度、明石と淡路島には行きたいものと思う。
 
この日の画像は例によってOnedrive入れています。よろしければご覧願います。
 
 
 
 

                                      

 

 

 


湖東歴史散歩

2017年06月16日 | 思い出

170615湖東歴史散歩

6月15日、湖東を少し歩いてきました。
以下はルート。
もう10年ほど前に中山道の関が原から高宮まで歩いたことがあります。
歩き残した京都までの道をすべて歩くには年を重ねすぎた気もしますし、だから
すべての行程を歩かないで行きたいところだけ行ってみたということです。

JR桂川駅→JR篠原駅→鏡神社→JR篠原駅→JR近江八幡駅→近江鉄道市辺駅→船岡山→

近江鉄道太郎坊駅→太郎坊宮→近江鉄道太郎坊駅→JR近江八幡駅→JR田村駅→湖岸→

JR田村駅→JR桂川駅

【篠原・鏡神社】

「JR篠原駅」は東山道ルートからは少し外れている。それでも平安時代の東山道「鏡宿」と
現在の「JR篠原駅」は2キロほどの距離しかない。
篠原と言えば、平氏が壇ノ浦で滅んだあとに、生け捕りになった平宗盛とその子の清宗が
源義経によって惨殺された場所として記憶する。
義経は宗盛父子を護送して鎌倉に下ったのだが、鎌倉入りを頼朝に拒絶されて、満福寺で
「腰越状」をしたためた後、止む無く京都に戻る途中に宗盛父子を斬った。1185年のこと。
当時の武士の習いでもあり仕方ない処置ではある。
その地は「大篠原」と言い、鏡宿からも近かったようだが、今回は行かなかった。

西行が、このことを知って詠った歌がある。山家集から詞書と歌を引く。

    八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。
    武士の、母のことはさることにて、右衞門督のことを思ふ
    にぞとて、泣き給ひけると聞きて

  夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
     (岩波文庫山家集185P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

「八嶋内府」とは宗盛のこと。内府は内大臣。
「右衛門督」とは平清宗のこと。

平安時代当時はもちろん中山道はできていない。江戸時代にできた中山道は
東山道と多くの部分で重なる。
平安時代には東山道にも「鏡宿」があった。宿場である。

鏡神社は古刹である。このブログで触れるのは「義経元服地」としてのものだ。
鏡神社の前に「烏帽子掛け松」や「元服の池」などの標札がある。「義経記」などを
読むと、鞍馬山を出た義経は金売吉次と奥州平泉に向かう途中、鏡宿で元服したという。
「義経記」は読み物であり、すべてが事実ではないようだ。義経が鏡宿で元服したかどうか、
事実かどうかは置くとしても、義経がその生涯に古代官道のこのルートを何度かたどったのは
間違いないはずだし、鏡神社にも何度も立ち寄ったはずだろう。
もし鏡宿での元服が事実だとすれば義経の短い生涯の中でも、自身ではとても重要な地として
認識されていたのではなかろうか。
源平争乱で戦いに明け暮れた日常にあって、なおさらに脳裡に去来した
地ではなかっただろうか?。
平氏を滅亡させた義経も四年後の1189年、31歳という短い生涯を閉じる。



【船岡山・万葉の森】

「茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖ふる」
          (額田王 万葉集巻一17番)

万葉集ではことに名高い額田王のこの歌は蒲生野で読まれたという。
古来からこの辺りは「蒲生野」であり、天智天皇の大津京からはかなり
離れている。歌からもわかるように朝廷の禁野が蒲生野にもあったのだろう。
「野守」とは禁野を守護する職掌の人で、現在で言うなら農林水産庁の役人を言う。

彼女の歌は読んでいて気持ちが良い。明るく伸びやかに詠われ、外に向かって
広がる力がある。
私の詠む歌とは大違いだ。自身の深奥にまで掘り下げるというつもりで読んではいても、
変に意固地に、窮屈な歌になっていることを自覚する。
常に反省はしてはいるのだが・・・

良い機会なので額田王の歌をもう一首。

「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今こぎ出でな」
            (額田王 万葉集巻一08番)

この森は「阿賀神社」の境内地にあるのだろう。たくさんの万葉歌碑が
あったが日差しのためもあり、かつ私の視力では読みにくいものであった。
額田王の歌の情景を描いた陶板レリーフはもう10年以上前に友人の
Y・Y氏撮影写真で見ている。私のホームページにもその写真を掲載している。
そのことがあって、なんとなく懐かしい感じがした。





【太郎坊宮】

神社名は阿賀神社と言い平安朝の創建らしい。滋賀の寺社はもちろん天台宗の影響が
強くて、この神社も天台宗の流れを汲む。
「万葉の森」船岡山にある一宇と同名の社である。
「太郎坊」とは役小角の弟子というが、創建が7世紀というから、なるほどとも
思わせる。
近江電鉄太郎坊宮駅から長い参道を歩き、700段という急勾配の石段を
休み休みしながら登る。さすがにこの齢になると、駆け上がるようには登れない。
軽やかに登れるカモシカの足が欲しい。

山全体が記号の山マークの様な形をしていて、ほぼ石の山らしい。
登るほどにそのことがよくわかる。
堂宇は山の山頂までは続いていず、中腹で終わる。眺望が良い。
近江平野がよく見渡せる。







御手洗の手水は童の天狗らしい。このような山にはよくある天狗信仰は
この社でも盛んなのだろう。

登る時には息も荒く登ったのに下山はすぐであった。それだけ勾配がきつかったという
ことだろうか。私が今まで登った参道階段は讃岐の金比羅宮が一番きつく長かったと
思うが、その意味ではこの社も二番手か三番手か、ともかく三指の中に入る。

石の寺である石塔寺にも行きたかったが今回は断念。次に譲るとしょう。
時間が迫っていたので太郎坊を辞し、JR田村駅に向かう。
近江鉄道近江八幡→JR近江八幡→田村駅と行くのだが、なんと米原で30分以上の
待ち時間あり。何とかぎりぎりで湖岸の撮影ポイントに向かう。

【夕日撮影】

田村駅から歩いて10分以内に湖岸に出る。初めての地かどうか記憶はあいまいだ。
もう20年ほど前になるのか京都市西京区の自宅から自転車で琵琶湖一周をしたときには、
湖岸道路ではなくて国道8号線を通ったように思うが、定かではない。
妙に懐かしい気もする。湖岸には人が二人いただけである。
人物か、他の景物を入れて夕日を撮りたかったのだが、断念して夕日だけを撮る。
厚く黒い雲があって、思ったよりは良い画像にならない。仕方ない。
湖岸になんと自生のワスレナグサがたくさん咲いている。初めて見る光景。







かくしてこの日の一日が終わる。この湖岸にはまた来たいものである。

例によって画像はOneDriveに入れてます。ご覧願います。

170615湖東散歩

       










服部緑地・大阪港・淀緑地・流れ橋・伏見界隈

2017年03月15日 | 思い出


時制の順を追って記述します。

03月12日 服部緑地と大阪港

決して出不精ではないとは思うが、とはいえ、いつも閉じこもりがちな
生活をする性分ではない。
それはまああまり自覚することもないのだが、長く行きたいと思いながら
これまでずっと行かずにいた。なんだかんだと理由付けしたわけではないのに、
なんでこんなに行かずにいたのだろうと自分でも不思議である。

場所は「服部緑地」。割合良い植物公園であることはネットで知っていた。
春まだ浅き12日、天気も良いことだし思い切って行ってみる。12時過ぎ着。

出迎えてくれたのは「まず咲くマンサク」。人も予想以上に多いのは
天気が良いからだろう。
一通り巡ってみる。広さは京都府立植物園と同程度かあるいは広いのか、狭いのか
ちょっと分からない。見ごたえのある植物園であることは確かだ。
アトラクションなどもあって子供連れでも楽しめる施設を目指していると感じる。
専門的になりすぎず、より広範にニーズを考えてのことだろう。







今の季節だからマンサクの花が多い。マンサクも種類が多いそうだが、ここでは
4種類ほど見られた。
木本ではなくて草本の植物も多いようだが、今の時期は当然に開花しているのは少ない。

一日時間をつぶそうかとの思いもしたが、またいずれ来ればよいのだから、
今回は15時半には辞して大阪港に行く。
夕日撮影のためだが、大阪港は初めてではなかろうか。
天保山や南港は移動のために何度か行った。が、遊びのため、
それも撮影のためなどというのは初めてのことである。海遊館近くの場所。
初体験ながら良い位置を確保して夕日を待つ。







だが情けないことに夕日撮影はむつかしい。一度はきれいに撮れても、
ちょつとした設定ミスできれいに撮れない。天気や光の強さなどで設定は
常に変えなくてはならないが、その時にちょっとした変更ミスをする。
そのまま気が付かなかったり、気が付いてもああでもない、こうでもないと
いろいろいじっているうちにすぐに陽は落ちてしまう。
わずか数分。長めに見ても20分もない時間の中での競争である。

どうにもならないので提示画像は彩度・コントラストなどを改変して
調整しています。

3月14日。

参加させていただいているカメラの同好会の方々と伏見の「淀緑地」、
八幡の「流れ橋」に行く。

淀緑地は5年か6年前から毎年行っており、今年も2月26日に行っている。
その時からみたら、ちょうど満開で花数も多く、その分、人も多い。
5.6年前は貸し切り状態に近い感じもしたものだが、いつの間にか
多くの人にも知られるようになってきた。良いことかどうか・・・・。
でも多くの方々に楽しんでほしいとは思う。





みんなで淀緑地から流れ橋まで移動。
橋は今の橋以前には3回ほどか毎年流れていたように記憶する。
渡れる期間よりも修理などで渡れない期間の方が長かったような・・・。
それで私の足も当然のように遠のいて、以前に見たのはいつだったか、
記録を見ないと分からない。でもこれまでに5回は行っているはずだから、
結構行っている部類だろう。
2011年に流れた直後の橋と現在の橋。







私一人が皆さんと別行動を取り、京阪中書島駅下車。

長建寺の糸桜と陽光桜の具合はまだまだ冬眠から目覚めようとはしていない。
固い蕾である。ここも昨年よりはかなり遅い。でもまあ自由に目覚めたらよいだけの
話で、私などがやきもきするのも筋違い。

宇治川派流を歩いてからJR桃山駅。ここの寒桜が見たかったのである。
すでに盛りを過ぎてはいるが、まだまだ見頃で堪能する。
寒桜にしては赤みが強くて、きっと緋桜系が混じっているのだろう。
毎年見ているこの桜を見ただけでも、良かったと思う。





かくして12日と14日が過ぎて行ったけど、まずまず納得できる時間であった。

画像は例によってOnedriveに出しています。

17.03.12 服部緑地と大阪港

17.03.14 淀・流れ橋・伏見

2011年石清水八幡宮と流れ橋のブログ









170228 中山寺観梅と飛行機撮影

2017年03月02日 | 思い出


結局、生地から出ることのなかったカントほどではないが、私も
住居地の京都から出ることはあまりない。
とはいえ、これまでには北は岩手県の平泉、南は鹿児島も長崎も
行っているのだから、それほど閉鎖的な人生だとも言えないだろう。

二月如月の最終日、二月尽に兵庫県宝塚市の「中山寺」に出向く。
連れて行っていただいたという方が正確である。
今年になって初めて他府県に出向いたことになる。

属している同好会の撮影会として行った。
中山寺は初めて行く寺である。梅の名所ということさえ知らずにいた。
梅園は狭くはない?のだが、梅はまだ3分咲き程度。
むろん早咲きの樹は満開であり、馥郁とした香りを放っている。

この中山寺については、その由緒を全く知らない。それが残念。
これからしっかりと勉強するだけの時間は許されていないだろう。

境内、梅園の一応の撮影をしてから詳しい方の発案で近くの伊丹飛行場の
飛行機撮影に行く。飛行場の東側に千里川が貫流しており、川の両サイドの
散歩道で撮影。川幅が広くはなく、着陸・離陸も見えるのだが、私の
眼ではしかとは見通せない。
飛んでいる飛行機を数葉撮影。背景が空だけ、写っているのは飛行機だけと
いうことになってしまって絵にならないのだが、これはこれで仕方ない。
夜ならまた違った写真になると思いつつも納得するしかない。

ともあれ充実した一日になったと思う。同行の方々に感謝したい。
例のごとくにOneDriveに入れています。ご覧願います。

170228中山寺・飛行機











160308 万博記念公園

2016年03月14日 | 思い出


 16.03.08 万博記念公園

3月8日、うす曇りの一日、撮影会があり万博公園に連れて行ってもらいました。
この地は1970年に「日本万国博覧会」が開催された地。その時に私も二度か三度は
行った記憶があります。

公園として整備されてからは一度のみ、短時間だけ行きました。
当時はカメラを持っていず、写真は一枚も残されていません。
記念として写真に残しておくことは良いことだと改めて思います。

残念ながら当日の私は体調が良くない。体調と言っても腰痛です。
歩き回ることができたとしても、後でしんどくなる予感があって、
移動は最小限にしました。

それでも「太陽の塔」の写真を角度や位置を変えて何枚か撮影。
太陽の塔には三つの顔があると言われます。

塔頂部は未来を表した「黄金の顔」。
正面は現在を表す「太陽の顔」
背面は過去を象徴する「黒い太陽」とのことです。
その「黒い太陽」は下から二番目、最後は塔の前を通過するモノレールです。

















園内は広いのですが、私は「梅林」だけ行きました。128品種600本の梅林とのことです。











移動中に見つけた「コノテガシワ」の花です。花は長径4ミリか5ミリの小さなものです。
したがって水滴の直径も1ミリもありません。



いたるところに芽吹いていた雑草の「ミチタネツケバナ」。撮りにくいものです。



最後は現在的に整備された広場。若い感覚を持っていないと、こういう構造物エリアは楽しめないかも
しれません。



とまれ、また何度か一人でじっくりと撮影に来たいのだと思いました。
次はコンディションの良い時に・・・。








大阪慕情

2015年12月12日 | 思い出

大阪慕情

2015/12/08日、加入させてもらっている写真同好会の撮影会で
大阪梅田のスカイビルに行く。
最近は大阪にまで出かけることは、ほとんどない。
久しぶりに行った梅田界隈は随分と変容したと思う。
大阪には雑然とした泥臭さが似合うと思うが、梅田あたりは高いビルが
林立していて、人も多く活気があり洗練された大都会のように感じた。
長年、京都に住んでいて京都の街並みに馴れている者にとっては、
なんだか「おのぼりさん」という思いもし、ふっと田舎者という
フレーズも頭をかすめる。

16時前には撮影場所の大阪スカイビルの41階に上がり「空中庭園」で
撮影に興じる。







しばらくすると、この日の落日。太陽は大阪湾に沈む。
きれいな夕日ではあるが、惜しむらくは黒く分厚い雲が横に長く
たなびいている。仕方がない。
しかし石川県の安宅の場合の方がはるかに巨大な雲の塊であった。
でも日輪はいつ見ても神々しい。





日没後、真の闇が迫る前に同じ場所から大阪の街並みを撮影。
写真奥の山並みは生駒山などだろう。



闇が迫って来たので「空中庭園」を辞す。
最近に限らず言葉を失念することが多いのだが、「夜の帳がおりる」という言葉などを思い出す。

エレベーターとエスカレーターを使い地上に降り立つと、そこは人工的な光の洪水。
散文的な光景でありながら、詩が随所に入り口を見せているようでもある。
以下は地上の光景。











最後はグランフロント大阪南館ビルを空に浮かべた画像です。



私の日常は夜は出歩かなくなって久しい。よって夜景撮影にも慣れてはいない。
こういう機会を与えていただいたことがうれしい。感謝です。
もっと撮影全般について経験をつみたいものだと思う。






石川県小松市駆け足旅行 02

2015年11月23日 | 思い出

石川県小松市駆け足旅行 02

2015年11月13日(金) 天気 曇り

ホテル→多太神社→JR小松駅→粟津駅→那谷寺→「ゆめのゆ」→加賀温泉駅→京都駅

朝、ホテルを出てから1キロほどの場所にある「多太神社」に向かう。
創建は古く、落ち着いたたたずまいはいかにも由緒のありそうな
感じである。古刹の持つ素朴さがある。
こけおどしのきらびやかさなどとは無縁の、それゆえにあまたの
無辜の歴史をしっかりと懐胎して、これまであり続けてきた社である。

神社関係者数人が境内を掃き清めている。昔なら神官というべき
だろうが、今は何というのだろう。
この社には斉藤別当実盛の兜があるとのことだが宝物殿は未見。
なんでも源義仲が奉納したようである。義仲は一時期、実盛に養育
されていたらしい。

「この所多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往古源氏に
属せし時、義朝公より賜はらせたまふとや。げにも平氏のものにあらず。
目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打ったり。
実盛討死にの後、木曽義仲願状に添えて、この社にこめられはべるよし、
樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。」
                      「(おくのほそ道)から抜粋」

「むざんやな兜の下のきりぎりす」







これで小松駅近いエリアから離れて「那谷寺」に向かう。

小松の駅も電車の本数は少ない。乗客数が少ないので仕方がない。
待ち時間が長い。
小松から隣駅の「粟津駅」まで。駅から那谷寺まではタクシー利用。
市営のバスがあるかとも思って探したが見つからない。

那谷寺は小松の市役所などからは離れているが小松市内。
芭蕉は小松→山中温泉→那谷寺→小松というコースを採っている。つまりは
小松の中心街には二度入ったということだ。

那谷寺は観光寺社でもあり紅葉でも有名らしく、そこそこに人が多い。
石の寺として岩盤や岩窟を本尊としているとのこと。別に十一面千手観音像がある。

「山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ」

「石山の石より白し秋の風」

















紅葉はあきらかに盛りを過ぎていた。散り紅葉もたくさんである。でもまだまだ十分に楽しめた。
芭蕉の「石山の・・・」句は、このお寺のものである。

観光寺社だけど流しのタクシーが捕まえられるわけではない。
運よく空車が来ないものかと待ってるうちに「キャンバス」という乗り降り自由のバスが
来たので飛び乗る。
そのバスがたまたま「ゆめのゆ」という所で停車したので、下車して湯に浸かる。
せっかく温泉地に来たのに、入らないまま帰るのもどうかと思い、のんびりと過ごす。風呂代620円。



風呂からでて、来合わせたキャンバスで加賀温泉駅。サンダーバードで京都。
まずまず思い出に残る小旅行である。








石川県小松市 駆け足旅行 01

2015年11月23日 | 思い出

石川県小松市駆け足旅行 01

2015/11/12 天気 晴れ

「奥のほそみち」の芭蕉の足跡をたどって石川県小松市に行く。
初めは11月2・3日の予定だったが、宿と交渉して12・13日に延期する。
まずまず忙しく、2・3日の次は12・13日しか空いていなくて、那谷寺の
紅葉がどうかなーという一抹の不安があったが、変更して正解であった。
紅葉は進んでいたが十分に見られる状態だった。

順を追って時系列に記述する。
サンダーバードで小松駅に降り立ったのは11時半。すぐさま近くの観光案内所。
小松のマップやら芭蕉関係資料を手に入れる。ネットで下調べをしていたが、
案内所には立ち寄ることが必須だと思う。




小松には芭蕉関係史跡が多い。芭蕉が小松にたどり着いたのは「奥のほそみち」の途次、
1689年8月24日のこと。芭蕉46歳の年。歩いての旅は厳しいものだっただろう。

小松には小さな寺社が多いことに驚く。
まずはじめに小松天満宮。マップがありはするがスマホの地図も重宝する。
天満宮には「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑がある。撮影せず。





天満宮から芦城公園を通って兎橋神社。趣のある公園だ。





兎橋神社と、通りを挟んで隣にある「すはまへ芭蕉公園」
「しをらしき名や小松吹く萩薄」「ぬれて行や人もをかしき雨の萩」





建聖寺・本折日吉神社と行く。日吉神社の鳥居が珍しい。



秋の日は釣瓶落としである。寺社参詣はこれまでにして、いったん小松駅に戻り「安宅の関址」に行く。
勧進帳で有名だが後世に作られたものだし、真実は違うはずだ。
「義経記」も戦記物で脚色が入っていて必ずしも真実であるはすはないが、それでもより
真実に近いものと思う。ともあれ義経がこの辺りを通ったのは1186年末頃のことだろう。
安宅住吉神社などを見てから、近くのレストランで食事。











ここの夕日も撮影したくて、レストランで少しゆっくりする。
夕日撮影はうまくいかなかった。海面から上にかけて幅広の厚く黒い雲がかかっていて、陽はその雲に
隠れてしまうので、これでは無理なのも仕方ない。



タクシーはいなく、仕方なくその場で1時間ほどを電子書籍で小説を読みながら過ごし、バスで
駅前まで。駅からほど近い安宿に投宿する。





駿河紀行 04

2015年11月06日 | 思い出


駿河紀行 04

10月13日 久能山・日本平・駿府城址公園 天気 晴れ

朝、ホテルでゆっくりする。久能山下行きのバスが一日に数本しかなく、
タクシーで行くにも4000円ほど。最悪の場合でも清水駅9時57分発の
バスで行けば十分である。次は13時頃に発車するバス。

観光地であるのに、なぜこんなにバス便がないのか、乗って見て理解する。
なんと始発から終点まで私一人の貸切状態。
バスを利用する人がいないから運行してもするだけ赤字なのだし、
これではバス路線があって運行しているだけで御の字。
しかしこのことは自治体にとっても大きな問題をはらんでいる。公共交通の充実は
現実的に不可能だし、また、交通弱者は出歩くなということにもなる。

バスはイチゴの栽培地を通って行くが、確かにこの辺りはイチゴの栽培が
盛んだと子供のころに知った覚えがある。
バスには私一人だったので、これから行く久能山東照宮も随分と人が少ないものと
思っていたが、案に相違して久能山への登り口の駐車場には車が多い。
つまりは公共交通を使わずに自家用車で行く人がほとんどだということだ。

山上の東照宮まで1159段の石段を上るとのこと。登り始める。
途中で駿河湾の写真を撮る。海が青い。初めの画像の対岸は伊豆半島。
二枚目の画像は御前崎方面。







石段の段数は多いが、20分しかかからなくて、きついというほどではない。

登りきった所に東照宮の楼門。唐門、拝殿、本殿と見て回る。















家康が1616年に死亡して一年間はここに葬むられ、その後に日光に改葬されたのだが、
あの狸親父もこのような廟を建てられて、非常に幸運だったと言える。
造りは贅を尽くした権現造り。こんなにきらびやかなものを作る徳川も悪趣味だとは思うが、
建築学上は素晴らしいの一言。しかしまあ、見れば見るほど虚仮脅しである。


     駿河の國久能の山寺にて、月を見てよみける

  涙のみかきくらさるる旅なれやさやかに見よと月はすめども
   (岩波文庫山家集128P羈旅歌・新潮1087番)

ここには600年頃に「久能寺」ができて、時代とともに隆盛を誇っていたのだが、失火により灰塵。
西行がここに来たのも失火以前のことであるし、久能寺の殷賑ぶりを見ているということだ。
武田信玄がこの地に久能城を築いた。その時に久能寺は移転させられている。移転したのは
鉄舟寺のある場所。鉄舟は衰退していた久能寺を再興して、寺名を「鉄舟寺」と改める。

武田氏を滅ぼした家康が久能山も支配して、風光明媚なここを自ら墓所と定めたのである。

久能山と日本平の間にはロープウエイが通じている。片道券を買って日本平に渡る。
遠いが富士山も見える。「赤い靴をはいた女の子」の像もある。














写真を撮れば、日本平自体には特に施設も無いので静岡行きのバスに14時すぐに乗車。
そのまま京都に戻るのもどうかと思い、駿府城址公園に歩いて行く。さすがに広い。












公園から駅に戻り、コーヒーを飲んだり土産物を物色したりしてから新幹線乗車は18時前。
京都の自宅着は20時過ぎ。早いものである。
かくして、短い旅は終わる。記憶に残る良い旅であったと思う。
3日間歩行数は65000歩弱。意外と少ない。






駿河紀行 03

2015年11月05日 | 思い出
駿河紀行 03

 10月12日 由比駅から清水駅まで 天気 晴れ

「東田子の浦駅」でJRに乗車して、下車は「由比駅」。
これから東海道を歩いて清水駅に近いホテルに戻ります。

「由比駅」を出ると、すぐ前が東海道。でも東海道は標識が少ないのか
コースに不安を覚えます。案の定、あとで道を間違えました。
数年前に中山道を「関が原」から彦根を少し超えた「高宮宿」まで歩きましたが、
随所に中山道の標識があって助かりました。それから見たら東海道は、旅人に
不親切のようにも思います。

ともあれ、由井宿では由井正雪の生家である「正雪紺屋」にも行かないで、
進路を西に取り、薩埵峠に向かいます。
薩埵峠は鈴鹿、箱根と並ぶ東海道の難所。でもゆるやかな登りです。
峠を登りきった所に休憩所などが作られていますが、そこまでは難所らしい
難所はありません。海に落ち込む山を無理やりに切り開いて道を通したものでしょう。
平安期にできた「延喜式」では東海道などの道路幅は決められていますが、
道は車がすれ違えないほどの隘路。規則通りの幅の道は作られなかったものでしょう。
山の中のこんな細い道を、よくも軍勢を通したものだと思います。

これまでに勾配を緩くするなどの工事は行われたかも知れません。
でも農業用道路として使われていて一般車道としての役割はありませんから、
道幅を拡幅する必要はなかったものと思います。

画像は由井駅を出た所。薩た峠の登り口。薩埵峠標識。







登りきって休憩所で小休止。眼を南に転じれば駿河湾。青い海。そして海の上の
高速道路。東を見れば東海道の名所を描いた安藤広重の「由井薩埵峠」に近い
光景が広がっています。冠雪量も違いはしますが、良く似ています。
不思議と、この峠を詠みこんだ西行歌はない。









峠から進路を西に取り「興津」の街に向かいます。峠からのこの道が難所らしい道で勾配は急です。
東に向かう時には厳しいものだったでしょう。
小夜の中山の峠から金谷宿に向かう勾配の強さと匹敵します。なるほど・・・と思いました。
坂を下りきって興津川を渡り街に入りましたが順路が分からず、仕方ないのでひたすらに
西方向を目指して歩く。
画像は興津川。



しばらく歩くと「清見寺」にたどり着く。昔、この地に関があった時に建てられたお寺で、
由緒ある古刹中の古刹だ。680年頃の創建である。

「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり。
けぶり合ふにやあらむ、清見が関の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし」
                    (更級日記から抜粋」


 1 清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月
       (岩波文庫山家集秋歌・新潮版・西行上人集・山家心中集・宮河歌合他)

 2 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
       (岩波文庫山家集秋歌・新潮版・続拾遺集・玄玉集)

藤原孝標女ももちろんのこと、西行もこの清見寺を見て東海道を通り過ぎました。
堂々としたお寺のように思います。そのたたずまいに好ましいものを感じました。
なんと、総門の内側にJRの線路が敷かれています。

この清見寺の沖合から西にかけてが月の名所として知られる「清見潟」。
でも現在は埋め立てもされ、構造物ばかりで「潟」とは呼べず、往古の
自然の姿をただ想像するばかりです。清見寺と五百羅漢像。













清見寺から海に出て、さまざまなことを思いながらしばらく海を眺めていました。
下は「清見潟」が広がっていたあたり、最後は清水港です。





この日だけで3万歩近く歩きました。多少の疲れを覚えました。
翌日は久能山。04に続きます。