木曽福島と桟 9月13日(土)
自宅(6.40)→向日町駅→名古屋駅→塩尻駅→下諏訪駅(11.20)。
下諏訪駅(13.52)→松本駅(14.23)。松本駅(16.34)→姨捨駅(17.15)。
姨捨駅(19.21)→長野駅(19.49)。ナガノアベニューホテル投宿。
9月14日(日)
ホテル(8.00)→善光寺→長野駅(10.06)→川中島駅。
篠ノ井駅(13.08)→木曽福島駅(14.32)。木曽福島駅(17.30)→名古屋駅→
京都駅→向日町駅→帰着(21.00)前。
篠ノ井駅発13時08分、木曽福島着14時32分の特急に乗車。帰路、名古屋着を19時頃にと
考えると、17時30分木曽福島発に乗らなければならず、3時間までしか時間がない。
それで木曽福島駅から中山道を12キロほど歩くのは断念して、タクシーで「木曽の桟(かけはし)」
まで。ほぼ4キロ。1750円。木曽の桟の付近には人は一人も歩いていませんでした。
現在、木曽谷沿いの道は国道19号線が通じています。江戸時代の「中山道」と重なる部分が
多いです。西行の時代はこの道は官道の東山道ではありません。
東山道は中津川を越えてから神坂峠、園原、阿智と過ぎて、伊那を塩尻に行きます。
中山道は木曽谷沿いを通って塩尻に出ますが、東山道ルートに比べて距離を
10数キロ短縮できます。
木曽谷ルートは820年には完成していたようですが、しかし当時は桟の場所も多くて通行は
難渋したようですので、それが原因で官道とはならなかったものでしょう。
桟とは川を挟んで対岸との行き来を可能にする通常の橋ではありません。地形などの
ために一本の道を連続したものとして造ることができず、その通行できない部分に板や
丸木などを掛けて通行できるようにした設設を言います。木曽谷では断崖絶壁の部分も
多くて、たくさんの桟があったようです。
現在、遺構が残っているのは木曽福島駅からほぼ4キロ南にあります。石組みの桟に
作り変えられたのが1648年。長さ102メートル。もともとは木を蔓で縛って長くした木の
桟道だったものでしょう。西行に桟の歌が4首あります。
西行は実際に現地に行ったものと思います。
1 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曽のかけはし底もみえねば
(岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1432番)
2 さまざまに木曽のかけ路をつたひ入りて奧を知りつつ帰る山人
(岩波文庫山家集229P聞書集・夫木抄)
3 駒なづむ木曽のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり
(岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)
4 ひときれは都をすてて出づれどもめぐりてはなほきそのかけ橋
(岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1415番)
芭蕉が更科紀行でここをたどったのは1688年のこと。その時にはすでに石組みの
桟になっています。したがって芭蕉の句の
桟や命をからむつたかづら
は、どうなのでしょうね。別の部分の桟であるか、もしくは芭蕉お得意の虚構なのでしょうね。
小さな石を敷き詰めた部分が桟。高さ13メートル、長さ102メートルあったようです。
最後は木曽福島の町並みです。