08年夏 生地(2) 2008年08月19日 | 四国 08年夏 生地(2) 初めの画像は宇和海。左手奥に八幡浜市があります。 二枚目は漁港。三枚目は海水中の穴の開いた岩。四枚目は波打ち際の石。 五枚目は海水浴風景。六枚目はテトラポットとカモメ。最後はフナムシです。
08年夏 生地 2008年08月19日 | 四国 08年夏 生地(1) 今年の夏も四国の端の生地に帰ってきました。見るべき所とて何もない寒村ですが、 海の青さだけは自慢できるでしょうか? 初めの画像は岡山駅での特急「しおかぜ」。 やなせたかしさん原作のアンパンマンの絵が描かれています。 二枚目は盆踊り風景。 三枚目はアーチ橋。長さは200メートル丁度。 四枚目は小学校全景。築127年。生徒数が少なくて来春に廃校です。 五枚目は校舎。夏休みで戸を閉めています。 六枚目は冒険家の河野さんの色紙。さりげなく飾られていました。 最後は岩の上の巨木です。
亀岡平和祭花火大会(2) 2008年08月09日 | 思い出 亀岡平和祭花火大会(2) それにしても花火の撮影は難しいです。 手持ちのパナソニックのコンデジでもモードを「花火」にして40枚ほど撮影したのですが、 満足できるものがなくて、ここには出せませんでした。 一番下の画像は下側の白いのは「ナイアグラ」なのですが、花火による煙幕が立ちこめて、 きれいには撮れませんでした。 私は自宅に帰らなくてはならないので21時過ぎには会場を後にしました。凄い混雑で、 亀岡駅では積み残しが出ました。でもすぐに臨時列車が出るということでしたので、 さほどの混乱はなかったものと思います。 かくして今年の夏の日の1日が終わりました。
亀岡平和祭花火大会(1) 2008年08月09日 | 思い出 亀岡平和祭花火大会(1) 亀岡の市内を見物してから、花火の打ち上げの始まる2時間以上前には、観覧場所である 大堰川公園に行きました。すでに人々が集まっていて、打ち上げの始まる20時頃になると 凄い混雑振りでした。 私は数年ぶりの花火見物でした。単純に見るだけしかできないとはいえ、やはりいいですね。 合計7000発の花火が打ち上げられるということです。 一番初めの画像は露店です。早い時間から準備をしていました。
亀岡まで 2008年08月09日 | 思い出 亀岡まで 8月7日(木) 自宅発(13:00)→阪急桂駅(13:15)→嵐山駅(13:40)→JR嵯峨嵐山駅(13:55)→ 亀岡駅(14:10)市内見学→大堰川公園(17:20) 「帰路」 大堰川公園(21:10)→亀岡駅(21:43)→嵯峨嵐山駅(21:55)→阪急桂駅(22:20) 自宅(22:40) 急ぐべき仕事もなく、取り立ててしなくてはならないことも無かったので、 亀岡市の花火大会を見るために出かけました。 亀岡市は隣の市でありながら、これまで市内巡覧は殆どしてきませんでした。自転車ででも 合計で10回近くは通過しているというのに、じっくりと市内を見て回ることなどしないままで あったというのが不思議です。 亀岡には西国三十三番観音霊場21番の穴太寺、円山応挙ゆかりの金剛寺、 明智光秀の亀山城跡などがあります。今回は亀岡駅から近い亀山城跡を中心にして その周辺を三時間ほどかけて歩きまわりました。 画像は電車の中から撮影した保津峡、次いで亀岡駅。ハスの花は南郷公園。たくさんの ハスがありました。 蓮台(はすのうてな)は円通寺、後の三枚は亀山城跡です。 亀岡市は亀山と言っていましたが市制施行の時に、三重県に概に亀山市があったために 亀岡市としたものと記憶しています。 亀山城跡は現在は「大本教」のものです。 この大本教もひどいとしかいえない歴史をたどっています。日本の歴史の暗部、恥ずべき 宗教弾圧の犠牲となった教団です。
大山崎歴史散歩 2008年08月06日 | 思い出 大山崎歴史散歩 八月五日、仕事が切れて時間が空いてしまったので、急遽、思い立って山崎まで出向きました。 二時過ぎに家を出て五時過ぎには帰り着いていたので、ほんの短い時間の散歩です。とはいえ、 一番陽射しの厳しい時間帯であり、汗をぬぐいながら歩いた数時間でした。 天王山 天王山と淀川に挟まれた隘路の地である山崎は京の都から西国に行き来するための交通の 要衝でした。紀貫之の「土佐日記」にもありますが、山崎には港があって、ここまで舟で行き来 していました。これより上流には鳥羽の港まで船が入っていて、西国からの船便の荷は 鳥羽に陸揚げされていました。 天王山は270メートルほどの標高です。高い山ではありません。 明智軍と羽柴軍の戦いで有名ですが、戦いの場所は実際には長岡の勝竜寺の 南側付近が主戦場だったということです。 離宮八幡宮 嵯峨天皇の「河陽離宮」でしたが、山陽道の山崎駅も併設されていたようです。 ここは製油所、油座の発祥の地としても有名です。油の原料は胡麻でした。 幕末の1864年、蛤御門の変で敗れた長州方がここに逃げ込んだため会津藩に 攻められて焼失してしまいました。現在の社殿は昭和になってからのものです。 宝積寺 宝寺 正しくは「宝積寺=ほうしゃくじ」といいますが、「宝寺」とも呼ばれています。行基創建の「山崎院」を継いだもののようです。 1604年に建立された三重の塔は国の重文。朱塗りだったようですが、今は色が剥落しています。 鐘楼は岩清水八幡宮の待宵小侍従の歌にちなんでいます。 天王山にはここの境内を過ぎて登山道が続いています。 山崎聖天「観音寺」 899年創建と伝えられる古刹です。本尊は十一面千手観音なのですが聖天堂に安置されている 「歓喜天」の方が信仰されていて、ゆえに「山崎聖天」の通り名のほうが有名です。