おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

2009年京都の紅葉

2009年12月04日 | 09年京都
今年も充分に紅葉を楽しめた感じです。下馬評では「少し速い」とか「今年は良くない」とか
いう声が聞えていました。事実としてそうなのだろうと思いました。
昨年に感嘆した所が今年はガッカリというお寺もありました。
私の好きな大覚寺の紅葉のトンネルなどは11月23日に青々とした葉でしたのに、
30日にはすでに見頃を過ぎていました。タイミングが難しいです。

画像はデジブックに載せました。紅葉の素晴らしさのみにスポットを当てた撮影、
編集をしています。撮影場所も明記していません。植物の華麗な営みを味わって
いただけたらと思います。フル画面にして見ていただくと迫力があります。
京都紅葉紀行01から05までです。


京都紅葉紀行




東福寺

2009年11月05日 | 09年京都
一昨日、文化の日に東福寺まで出向いてみました。
まだ紅葉には早いので人も多くはありませんでした。
今の季節は拝観料も400円ですみますが、もう少ししたら700円になります。
紅葉シーズンだけの観光バスがひっきりなしに来ていて、大変混雑します。
まあ混雑するだけのことはあります。画像は通天橋、境内、通年の紅葉木、モミジの葉、10月桜です。

宝堂の天井には堂本印象の「雲龍図」もあるのですが、宝堂内には入れないので、ちらっと見えるばかりです。残念です。

東福寺についてのページ

東福寺

下はデジブック。紅葉です。1と2があります。見て下さいね。
















洛西逍遥(2)

2009年05月27日 | 09年京都
長岡京大極殿跡・石塔寺・乙訓寺

長岡京は第50代桓武天皇によって作られた都です。桓武天皇は仏教勢力が
強くなったことや、旧弊に縛られていることを嫌って、奈良の平城京から
長岡京に遷都しました。784年のことです。
これには桓武帝の母である高野新笠の出自も関係してのものでしょう。
桓武帝の母は半島の百済からこの国に亡命してきた人の末裔です。長岡に勢力を
扶植していたようで、母方の力を頼みにもしたものでしょう。
ところが新京では様々な苦難がありました。新京を造営する監督官とも言うべき
藤原種継も島坂「今の石塔寺沿いの坂道」で暗殺されました。
まがりなりにも親政が成功した桓武ですが、しかし皇太子の安殿親王の病気、
母の高野新笠や皇后の死、疫病の流行などが続いて、桓武はまたしても遷都します。
結局、長岡京は10年間という短い期間だけの都でした。
新しい都は平安京と名付けられました。

「長岡京大極殿跡」

中山修一先生を中心とした昭和29年からの発掘調査によって、長岡京の
ほぼ全容が解明されました。大極殿跡は向日神社から東に200メートルほどの
ところにあり、現在は公園となっています。





「石塔寺」

向日神社から100メートルほど南寄り(長岡京市寄り)に石塔寺があります。
石塔寺の前の緩やかな坂を「島坂」といい、この付近で藤原種継は暗殺されました。
犯人は不明ということでしたが、皇太子の早良親王が疑われ、親王は乙訓寺に
幽閉されました。当時はまだ石塔寺はここにはありませんでした。



乙訓寺も私にはなじんでいたお寺だったと思います。ただ、光明寺や向日神社の
ように遊び場であったとはいえません。
かすかな記憶を手繰り寄せれば、乙訓寺は40年から45年前は随分と
荒れていたお寺だったと思います。この間に本堂の修理、瓦の葺き替えを
したものでしょう。ボタンで有名なお寺ですが、
当時は何もなかったはずです。
ここに幽閉された早良親王は絶食して無実を主張したようですが、結局は
淡路島に配流となります。しかし体力の衰えていた親王は山崎の港から
淡路島に護送される途中に死亡しました。毒殺説があります。
以後、長岡京では疫病の流行などがあり、次第に早良親王のたたりという
ことが言われるようになりました。
早良親王の霊を鎮めるために、朝廷は800年に「崇道天皇」の諡号を
贈りました。









洛西逍遥(1)

2009年05月27日 | 09年京都
車塚古墳・須田家住宅・向日神社

過日、自転車で拙宅の近辺を巡ってみることにしました。一応の目的地は、
車塚古墳、向日神社、乙訓寺・光明寺です。
道は、高槻、嵐山線の、この付近では通称「物集女街道」と呼ばれて
いる道です。江戸期の名称は「西国街道」。

「車塚古墳」

淳和天皇陵と長く信じられていたようですが、発掘調査、研究によって
古墳時代にこの地で勢力のあった豪族のものと比定されています。








「須田家住宅」

須田家は「松葉屋」と号し、醤油の製造販売をしていたようです。向日市競輪場の
近くにあります。1744年の建築と言われます。京都府の文化財であったと思います。
瓦も漆喰壁も新しくなって、古色蒼然とした感じは薄いですね。






向日神社
718年の創建といいますから古社です。古くから地域の方に産土神として
崇められていたものでしょう。狛犬もこの社の歴史の古さを思わせます。
平安時代から六人部(むとべ)さんが神主です。もちろん現在もそうですから、
すごいものですね。
長い参道の奥にある本殿は1422年の建築。「三間社流造」といいます。
なぜか「さざれ石」が5個置かれていました。
実は私が15歳の年に中学を卒業して就職した地は、向日神社のすぐ裏手に
ありました。だからこの神社などは20歳頃までの遊び場でした。
今回、久しぶりに訪ねてみて、やはり、なつかしいものを禁じえませんでした。













石峰寺 (1)

2009年03月31日 | 09年京都
過日、伏見に行ってきました。
石峰寺は京都市伏見区深草にあります。町名もこのお寺から採って、石峰寺山町です。
稲荷信仰で有名な伏見稲荷大社の南に向かって300メートルほどのところにあります。
黄檗宗の禅道場として1700年初頭に建立されたお寺ですが、このお寺が有名なのは、
江戸時代中期の画家である伊藤若冲が住み、そして若冲の描いた羅漢図を元にしての
五百羅漢像があるからです。
裏山にある羅漢像は今日ではかなり風化が進んでいるように見えました。
それもまた仕方ないことでしょうね。

画像は説明板、参道、若冲墓、羅漢山入り口、羅漢像の順です。













北野天満宮の梅 (2)

2009年03月06日 | 09年京都
菅公こと、菅原道真の忌日は2月25日です。毎年、2月25日には梅花祭が行われています。
これとは別に月命日には天神さんがあり、たくさんの露店が出て、多くの参拝客で賑わいます。
私の行ったのは3月5日。梅は見頃でした。平日ですが人も多いほうでした。
さすがに梅の季節だけのことはあります。
境内には500種類、2000本の梅の木があるとのことです。



























北野天満宮の梅 (1)

2009年03月06日 | 09年京都

 北野天満宮のある辺り一帯を北野といいます。平安京大内裏の北側に位置
 するので北野という地名になったとのことです。北野天満宮ができる以前は
 朝廷の放牧地でもあり、また、右近の馬場があって競馬を開催していた事が
 いくつかの文献からも分かります。他には、天神地祇(てんじんちぎ)を祀る
 聖地でした。天神地祇とは全ての神という意味ですが、農耕神でもある雷神
 も早くから信仰されていました。
 天満宮ができたのは950年頃です。本格的な造営は959年、藤原師輔が神殿を
 建立してからのようです。祭神は903年に大宰府で死亡した菅原道真です。
 道真の霊を怨霊として、それを鎮めるために祀ったのが始まりです。
 この北野天満宮は創建当初からいろいろありすぎて、私の筆力では短くまと
 めあげることはできません。以下、断片的に記述します。
 北野天満宮もたびたび火災に遭っています。現在の社殿は豊臣秀頼が造営した
 ものが殆どといわれます。1607年の造営といわれます。
 豊臣秀吉の築造した御土居が現在も境内西側に残っています。
 北野天満宮(菅原道真)は早くから学問の神様として慕われていて、1204年に
 後鳥羽院、定家、家隆、良経などが北野宮歌合をやっています。時代が下がっ
 てからは連歌の興行がたびたびなされました。現在は全国から献詠された和歌
 が10月29日に披露される(余香祭)があります。
 また、芸能との関係も深く、舞楽、猿楽の興行もたびたび行われました。
 出雲阿国が1603年3月に歌舞伎踊りを演じたのもこの北野天満宮なので、北野
 天満宮は歌舞伎発祥の地ともいわれます。
 秀吉が北野大茶会を催したのもここでした。1587年のことです。
 現在、管公菅原道真の忌日にあたる2月25日に梅花祭があります。ただ、
 新暦に直せば3月16日ですから、2月25日とは半月以上違います。


東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
        菅原道真 (拾遺集)

初めの画像及び多くの画像は北野天満宮梅苑内。最後はヒヨドリでしょう。


 
















梅宮大社(3)

2009年03月01日 | 09年京都
梅宮大社(3)
結局、梅宮大社には一時間少しいただけで帰路につきました。上から三枚は梅宮大社で撮影。
三枚目はヤマブキでしょうか?。
梅宮大社から200メートル程度で松尾橋の東詰め。橋を渡ってから歩いて帰宅しました。
途中で松尾大社の鳥居を入れて二枚撮影。なんとツクシも発見。春らしくなったなーと実感します。
最後の画像は枝垂れの紅梅です。梅なのにこれほど花をつけていることに驚きました。

















梅宮大社(2)

2009年03月01日 | 09年京都
梅宮大社(2)
梅宮大社の神苑はそれほど広いわけではありません。
しかし京都有数の梅の名所として、この季節はそれなりに賑わいます。
平安時代の和歌では梅津川を詠んだ歌はありますが、梅宮大社を詠んだ歌はないようです。

さらにいま花咲く梅の宮ばしら立てても千代のさかりをも見め
           新後拾遺集 慶有
 《「都名所図会」から抜粋》

画像は全て梅宮大社神苑での撮影です。