ブログを開設し、今日で丸4年。
2005年2月17日…
初めて投稿したときの興奮は記憶に新しい。
自分が考えていること、思っていることが文字となり、世界中を駆け巡るという単純な感動。
そして「誰が見ているか分からない」という恐怖。
つまらない一日でも読み返してみると、「そんなこと、あったんだ…」「あんなこと、考えていたんだ」など発見できて面白い。
我が家のテレビの横にて埃まみれで佇んでいた相棒・吉熊。
「僕、吉熊!」
と彼が話し始めた日から吉熊には生命が息づき、そしてこのブログは開設された。
ここ2年はパキシルを服用しているため、感性が鈍ってしまっていることを強く実感。
感情をフラットにする薬ゆえに、喜怒哀楽を感じる力が開設当時よりも少なくなってしまったのであろう。
書いている本人がそう感じるんだから、読んでいる皆さんはもっと感じているに違いない。
かつて、あれほど潤沢だった感じる心が、すっかりと枯渇してしまい、「…もう書けない」と思うことなんて、実は数えきれないほどあった。
あと、より適切な言葉があるはずなのに出てこなくて、妥協して安易なものを使用してしまうことも日常的にある。
これも開設当時より頻発している現象だ。
でも、日記を書くということは私の日常の一部と化してしまっている。
書かないでいるとなんだか気持ちが悪くなるぐらい、自分の中でルーティンと化している。
なぜ毎日ブログを書いているのか?
とよく尋ねられるが、私にとっては空気を吸うのと同じくらい自然なことなので、答えに詰まる。
書けないかも…と苦悩していても、とにかく何かを書く。
言葉が見つからなくても、とにかく何かを書く。
書いているうちに、変哲のない「今日の出来事」が、極彩色に富んだ一日に変化する…場合もある。
あとで読み返したとき、なるべく読んでいて楽しいものを残したい。
この想いは開設した当時より増大している。
そんなこんなで、5年目の「世界の中心で吉熊が叫ぶ」も宜しくお願いします。
2005年2月17日…
初めて投稿したときの興奮は記憶に新しい。
自分が考えていること、思っていることが文字となり、世界中を駆け巡るという単純な感動。
そして「誰が見ているか分からない」という恐怖。
つまらない一日でも読み返してみると、「そんなこと、あったんだ…」「あんなこと、考えていたんだ」など発見できて面白い。
我が家のテレビの横にて埃まみれで佇んでいた相棒・吉熊。
「僕、吉熊!」
と彼が話し始めた日から吉熊には生命が息づき、そしてこのブログは開設された。
ここ2年はパキシルを服用しているため、感性が鈍ってしまっていることを強く実感。
感情をフラットにする薬ゆえに、喜怒哀楽を感じる力が開設当時よりも少なくなってしまったのであろう。
書いている本人がそう感じるんだから、読んでいる皆さんはもっと感じているに違いない。
かつて、あれほど潤沢だった感じる心が、すっかりと枯渇してしまい、「…もう書けない」と思うことなんて、実は数えきれないほどあった。
あと、より適切な言葉があるはずなのに出てこなくて、妥協して安易なものを使用してしまうことも日常的にある。
これも開設当時より頻発している現象だ。
でも、日記を書くということは私の日常の一部と化してしまっている。
書かないでいるとなんだか気持ちが悪くなるぐらい、自分の中でルーティンと化している。
なぜ毎日ブログを書いているのか?
とよく尋ねられるが、私にとっては空気を吸うのと同じくらい自然なことなので、答えに詰まる。
書けないかも…と苦悩していても、とにかく何かを書く。
言葉が見つからなくても、とにかく何かを書く。
書いているうちに、変哲のない「今日の出来事」が、極彩色に富んだ一日に変化する…場合もある。
あとで読み返したとき、なるべく読んでいて楽しいものを残したい。
この想いは開設した当時より増大している。
そんなこんなで、5年目の「世界の中心で吉熊が叫ぶ」も宜しくお願いします。