最近のお奨め映画はと問われたら、『希望の灯り』と答えるだろう。といってもここしばらく、ほとんど映画を観てはいないのであるが。ただ昨今、「作られすぎているもの」がちょっと嫌になっていて。そりゃハリウッド的な映画は手間もカネもかけシナリオの練り直しもちゃんとしている。観やすい。だが、それだけのように思われてしまうのだ。『希望の灯り』は、べつにたいした出来事が起きなくても、観客としてその空間にいることが喜ばしい、という、正しいヨーロッパ映画のあり方の一つの王道に、まっしぐらな作品なのである。
トーマス・ステューバー監督は私より二十歳も若いのだ。やれやれ。この一本で、彼がフィンランドの監督アキ・カウリスマキが好きだということがよくわかる。もちろんカウリスマキの熟練に対して彼はとても青臭いのだが、それがまたいいのだ。
舞台のライブチヒは、もともと東ドイツで、学究都市でもある。ライブチヒ名物はじゃがいもスープである。確か冷製。……落ち着いた良い町だ。映画ではカウリスマキ・マニアの監督だからのためか、どこか北欧の町のようにも見える。ライブチヒは日本に来た演出家ペーター・ゲスナーの出身地でもある。2001年に、私もこの地で公演したことがある。岸田戯曲賞を戴いた『ブレスレス ゴミ袋を呼吸する夜の物語』の再々演で、柄本明さんに主役の「パパ」をやってもらった。まあこの劇は構造としてはリア王なのである。初演と再演で私がやった役は大西孝洋にやってもらった。こっちはリア王で言えばエドガーか。物語的な主人公はゴミ清掃員の猪熊恒和。道化役に位置していたのは謎の執事然としていた川中健次郎か。ヒロインは島田歌穂さん。ポーランドとドイツを巡るツアーだった。ワルシャワの会場はロマン・ポランスキーが芸術監督だったことがあるという劇場で、彼の代の時に備えつけられたという出鱈目にはっつけているようにも見える膨大な反響板が印象的だった。『ブレスレス』は廣木隆一監督と作ろうとしていた映画の企画でもあった。こちらは頓挫した。
映画『希望の灯り』の舞台は、巨大なスーパーマーケットである。ほぼそこから出ない。巨大なスーパーマーケットだけが舞台の映画と言えば、一九七十年代後半のジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』なのだが、もちろん関連はない。しかし、資本主義のもの悲しさをしみじみ感じさせるところは共通している。
冷戦が終わり東西が統合されてトラック運転手としての自負を持った男たちがスーパー勤めをさせられているという状況は、私が八十年代、バブル前の時期にディスプレイ会社のN社のバイト頭をしていたとき、この会社が二十年近く前の大阪万博の時に人をいっぱい入れすぎてそのオジサン社員たちを持て余していた、というあの構図と、どこか類似しているように思われるのだった。
主人公のフランツ・ロゴフスキは岡田利規のヨーロッパ製作の劇にも出ているというが、魅力的だ。そしてヒロインのザンドラ・ヒュラーがどうにも羊屋白玉そっくりに見えて困った。で、職場の先輩ペーター・クルトは、やはりカウリスマキ映画の顔をしているし。
せりふが極めて少ないことも好感が持てる『希望の灯り』。観たのは、ちょっと気になることがあったからなのだったが、その件はほぼ忘れて、久しぶりにヨーロッパらしい映画を観ることができた、ということで満足している。