このたびの燐光群『わが友、第五福竜丸』の全国ツアー最終地は、本州最南端の地、和歌山県・串本町。
現在の串本町(当時は東牟婁郡古座町)が、「第五福竜丸」の前身「第七事代丸」誕生の地なのである。
1946年10月、神奈川県三崎漁港の寺本正市氏の依頼により、古座造船所で建造された。
1947年3月20日、カツオ漁船「第七事代丸」として 進水。
このあたりはいい松がとれる、ということで、木造船だが、船の多くの部分が、脂分の多い松なのである。
もちろん、鋼鉄の船を作るには、当時の日本は資材が不足していた。
連合軍の占領政策で、大型の船は作ることができず、ギリギリの、許可が不要のサイズで作られた(実際はオーバーしていたらしいが)。
そこは、復員してきた青年たちの働き場であり、丸太を板にする製材部、八人の船大工を中心とした「造船部」と、急かされながら、大急ぎで作りあげたという。
上演会場の串本町文化センターのロビーに、その建造時の資料や道具などが展示されている。
当時を振り返ると、「星から星まで(夜明け前から日没まで)働いた」という言い方が、されている。
この船が作られた背景に、この船が航行することになる背景に、第二次世界大戦の、影がある。
それは、戦後まだ十年経っていない時なのである。
いま現在、信じがたい酷い状況に置かれているパレスチナに思いを馳せながら、戦争の時代と「第五福竜丸」の根深い関係を、創作の中で、辿っている。