そりゃ、亡くなられてしまうと、ああ、あらためて、こんなに多くの作品に出ておられたのだなあ、と思います。
猪八戒から植村直己まで。
「七十年代の頭に、若いけどすごい役者がいるんだ、と気がついて、みんなが盛り立てたんだ」と、青年座界隈の先輩諸氏から、何度も聞きました。
西田敏行さんの御冥福をお祈り致します。
その後お話することもありましたが、あまりおおっぴらに話すようなことではないので、ご容赦ください。いつも腰の低い、丁寧な方でした。
私の芝居も、幾つか観てくださった。最初は地人会『海の沸点』だったと思う。
やはり印象に残るのは、ドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』の頃。
一九八二年。
市川森一さん、すごい脚本家だと思った、一つ。
プロデューサーは大山勝巳さんですよ。
しかし、個人的に印象深い理由は、このドラマの撮影が行われていた頃、舞台の一つになっていた、劇中名は「鈴なり座」こと、下北沢ザ・スズナリで、ペーペーの私は、当時在籍していた劇団の、本番の舞台公演についていたのです。
スズナリでも、下北沢の町中でも幾度か『淋しいのはお前だけじゃない』の撮影とクロスしました。書けないことも多々あり。
やがて、自分たちの劇が東京公演以外のところに移動し、その旅の中の、名古屋は七ツ寺共同スタジオで、銭湯から帰ってきた仲間たちと楽屋のテレビを眺め(当時は、女性は楽屋、男性は舞台と客席で、宿泊していました 助成金のない時代です)、何週間か前まで自分たちがそこに居た「鈴なり座」こと、下北沢ザ・スズナリが、あらためてドラマの中で重要な役割を果たしていて、特に回想シーンで無人の劇場が、スズナリのあの階段が映し出されるようなカットがあったりして、しみじみしたり、我が身をかえりみたり、思いは複雑でした。一九八二年。四十二年前。
西田さん、他にもお亡くりになられた皆さん、私は今でも「鈴なり座」で芝居をしていますよ。これからも、やってゆきます。
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