Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

リチャード・フォアマン 亡くなる

2025-01-05 | Weblog
リチャード・フォアマン(Richard Foreman)の訃報。ニューヨークの演劇集団マボウ・マインズのFacebook投稿で知った。
1月4日に亡くなった。87歳。肺炎の合併症、穏やかな死だったという。

1990年頃から巻上公一さんや川村毅さんがフォアマン作品に惹かれていることは知っていて、私も90年代後半、ニューヨークに初めて行ってから一挙に、リチャード・フォアマンの世界に出会っていった。

ニューヨークはイーストヴィレッジ、アスタープレイスに近いセント・マークス・チャーチの、社務所みたいなところに彼のスタジオがあって、リチャード・フォアマンが1968年に創立し、劇作・演出・美術を一人で担当する「オントロジカル・ヒステリック・シアター」は、新年早々から三ヶ月くらいのロングランをやって、その後、欧州ツアーに出掛けていくというのが、毎年の通例だった。国際的な評価も高いのに、ニューヨークでは客席数百以下の小さな劇場で、彼自身が音響操作をする形で冬から春にかけて長く上演するやり方が、ディフォルトだった。ストーリーなど蹴散らすディティールの積み上げ方、美術もコレオグラフもぶっとんでいたし、表面的な見映えを気にしない作品たちだった。この集団での出演者はみんな若く、学生が混じることもあったみたいだ。
フォアマンは2000年、新宿パークタワーホールで、『バッド・ボーイ・ニーチェ!』を来日上演している。

フォアマンはオフ・ブロードウェイの演劇賞「オビー賞」をいろいろな形で十個くらいは取っていると聞く。全米芸術基金から「演劇生涯功績」賞をもらい、マッカーサーフェローシップも受けている。そういう話はニューヨークで知り合いになった若い演劇人たちから聞いた。前衛演劇なのに立ち位置を確立していた。映画界の前衛ジョナス・メカスの影響を受け、ロバート・ウィルソンやリチャード・シェクナーとも深い親交があったようだ。
昨年末に亡くなられた鴻英良さんも彼の翻訳・批評をしていた。

私はニューヨークに行けばタイミングが合う限り必ずフォアマン作品を観たが、いっとき彼がセント・マークス・チャーチの稽古場のほうを上演会場として、若い人たちの上演を援助していることも知っていた。フォアマンのやり方を学んで、金がないからこそ工夫をする若い人たちがいた。四半世紀前、週末の夜遅い時間から上演されるそうした作品たちにも、刺激を受けたことを憶えている。

だから当時、私の助手をやってくれていたKさんに、ニューヨークへ行ったらフォアマンに出会うことを薦めたら、彼女はじっさいに文化庁在外研修でニューヨークに滞在している一年間、フォアマンのところでいろいろと学んだようだ。帰国してからの作品で、その影響をひしひしと感じた。フォアマンについてはやがてKさんご本人が何か書くはずだろうと思うから、まだ筆名も明かさないので、もうちょっとお待ち下さい。

日本に唐十郎、韓国にオ・テソク、ニューヨークにフォアマン、という言い方をする人もいた。さすがにそれぞれ作品も作り方も違いすぎるが、三人とも間違いなく「アングラ」だし、演劇づくりには「カンパニー」が必要だという信念、自分がいる街を代表するエネルギッシュなイデオローグという意味では、確かにそうだと思う。
ときに理不尽だが、だからこそ、それまでにないことを成し遂げた。
その三人ともが、亡くなられてしまった。

そして、一昨年に久しぶりにニューヨークに行ったが、イーストヴィレッジやロウアー・マンハッタンが「何かを発信する場所」だという感覚は、街から消えていたように思う。

ああ、あっという間だ、こうして時間はあっという間に過ぎていくのだな、と、実感し、思った。


写真は一昨年の初春、ニューヨーク。

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