黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

日光裏街道総集編37(愛しの青面金剛・奥沢東昌寺の謎)

2023-12-21 19:53:49 | 日光裏街道総集編

風の冷たい1日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、赤城南面・国道353線沿いの大胡グリーンフラワー牧場へ行ってきました。

久しぶりのお出かけ、楽しんで来ました

(記事は、「続ひめ」にて

 

この元記事の頃、2020年の4月、まだあちこちにアブラナがありました

アブラナ大好きの獅子丸は、自分でちぎってくわえて食べました。

お散歩の途中でも、気になると、口でちぎってムシャムシャです。

獅子くんは、本当にアブラナが好きでした

 

ひめちゃんは、獅子くんに、ゆでたアブラナだけでなく、生のアブラナも食べられることを教わりました

獅子くんの影響かな

ひめちゃんは、草をよく食べます

 

 

 

新里の北部、国道353号線の奥に梨木温泉があります。

温泉の脇には深沢川が流れ、その下流には正円寺・深沢城(旧黒保根村)があります。

(桐生市新里町)奥沢の東昌寺が、その正円寺の末寺であるという情報を得ました

 

右下の卍の所が、東昌寺です。

 

ここには、記憶に残る青面金剛があります

廃寺ではないかと勘違いする人もいるほど、奥まったひっそりした寺です。

(2018年9月1日)、久しぶりに訪れてみました。

車がやっと通れるくらいの細い参道です。

今日は、またお邪魔します

 

誰が見ても一目でわかう、りっぱな青面金剛があります

月と日があり、手には武器を持ち、力強く邪鬼を踏みつけています。

そうすると、一番下で支えているのは、邪鬼ではありません。

ヒイキでしょか?

龍の出来損ないの息子ヒイキが踏みつけられている仏像を見たことがあります。

朱が残っています。

 

その隣も単なるお地蔵様ではなく、もしかしたら地蔵型の庚申塔かもしれません。

残念ながら、「庚申」の文字は発見できませんでした。

 

堂宇は、この階段を登らなければなりません

階段脇には、イノシシ捕獲の罠を仕掛けた檻がありました。

 

堂宇は新しいです。

 

堂宇の脇にも、りっぱな庚申塔です。

側面は、蓮の花かな?

 

奥に和尚さん達のお墓があります。

確認できた一番古い年号は、元禄です。

確認できた一番新しい年号は、明治です。

 

明治の時にまとめられた『上野国寺院明細帳』に、信徒5名とあったような気がします。

どうしてこの寺が今日まで維持されているのか、とても知りたくなりました

 

獅子丸家(獅子丸が養子に行っていた家)が運営していた長安寺は、もう少し信徒があったと思います。

実家の一族が大本家を中心に営んでいた成就院は、20数名の信徒がありましたけど、大正時代に世良田の普門寺に合併しています。

 

東昌の本寺、黒保根の深沢城趾にある正円寺に向かいます

 

(つづく)

 

 

初出  2020.04.21  カテゴリー 旧勢多郡とその周辺・総集編 愛しの青面金剛(奥沢・東昌寺の謎)

改稿  2023.12.21

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日光裏街道総集編36(奥沢と号する地の木造大日如来坐像)

2023-12-17 19:06:21 | 日光裏街道総集編

風の冷たい朝でした。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西の方を歩いてきました。

タバサねーちゃん、帰道はとても速く歩きます

15歳半、緑内障ですけど、まだまだ元気に歩けます

 

この元記事の頃、2020年の4月、ひめちゃんと獅子丸です。

雨の日も、貧乏カッパでお散歩で、元気にお散歩してました

菜の花の咲く、葉桜の川縁も楽しくお散歩しました

獅子丸、実家に帰って、初めての春です。

 

 

 

日光裏街道周辺の文化財等、87番が奥沢の石造大日如来坐像、88番が奥沢の木造大日如来坐像です。

88番の右下の神社は奥沢神社、その右(東)の寺は東昌寺です。

 

由良成繁(ゆらなりしげ)は、「奥沢」と言わずに、「奥沢と号する地」といいました。

号するとは、「自ら言い広める。表向きにもっともらしく言う。」という意味です。

そうすると、ここ奥沢は地名がなくて、この戦いのころに由良成繁が名付けた事になります

由良成繁が、「奥沢と号する地」と言った場所はどこか?

 

候補の一つとして、奥沢の大日如来立像のあたりも考えられます

付近をウロウロしましたけど、見つかりません

 

先日(2018年9月7日)知人の案内で、やっとたどり着きました

脇道に入り、更に折れて、やっとたどり着きました

登るというほどではないけれど、ちょっと高台になります。

この時期は、あちこちが超・浅茅生の宿(あさじゅうのやど)状態なのに、付近はきれいになってました

落ち葉ではないけれど、「落ち葉踏み分け」という感じで歩きました

 

石造物もあります。

 

桐生市のHPによると、

作られた年代は定かではありませんが、室町時代(1338~1575)に奥沢の人々により勢戸林に社寺を建てたといわれることから、その頃のものと考えられます。その後、明治初期の神仏分離の時に、天台宗東昌寺へ大日如来を移しました。しかし、明治20年に奥沢の集落に大火があり、大半が焼けてしまったと伝えられます。その原因は、大日如来をよそへ写したための災難であろうということになり、再び元の地へ安置した、といわれています。

 

永禄10年(1567)に、由良成繁は「奥沢と号する地」といいました

たぶん、この時が、奥沢という地名が文書に初出です

神仏分離の時に大日如来を東昌寺に移したということは、ここは神社ですか

 

鍵を開けてもらいます

思ったより小さいです

これくらいならば、厨子ごと、東昌寺に運べます。

かなり古いもののようです。

脇に小さな板碑のようなものがあります。

 

ここは、現在5軒の人々によって、維持されているそうです。

冬のある日が祭日で、お赤飯をあげるのだそうです。

 

大日如来ではなく、阿弥陀様ではないかという説もあるそうです。

どの印を結んでいるかちょっとわかりません。

 

ここはさほどの高地でもなく、川沿いに人家があります。

戦国時代、戦いの犠牲者を供養するために建てられた可能性も十分考えられます

今維持している5軒は、それぞれ別のお寺の檀家になっているそうです。

普段は閉まっています。

わざわざ鍵を借りてきて開けていただききました。

ありがとうございます

 

この付近は奥沢と号する地で、戦いが行われた可能性がおおいにあります

 

初出  2020.04.18  奥沢の木造大日如来坐像  カテゴリー 旧勢多郡とその周辺・総集編

改稿  2023.12.17 

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日光裏街道総集編35(奥沢と号する地の裸大日)

2023-12-13 20:59:41 | 日光裏街道総集編

今日で、獅子丸が突然の事故で逝ってから丸2年たちました

獅子丸のお部屋(サークル)はそのままです。

最近、ぬいぐるみの獅子くんを迎えました

まるで生きてるような 存在感です

 

本日はこの記事の初出頃、2020年4月頃の獅子丸アーカイブです

ひめちゃんとタバサねーちゃんと、きょうだい仲良くお散歩出来たね

時には、七海ママのそこらまでのちい散歩にも、つきあいました

時には、こんな不満顔も

満面の笑みの獅子くんです

獅子くんには、笑顔が一番似合うよ

また逢おうね

 

 

 

79龍興寺の北東山中に、87奥沢の石造大日如来坐像と88木造大日如来坐像があります。

 

永禄10年(1569)に、由良成繁(ゆらなりしげ)が書いた文書に、

「奥沢と号する地に於いて、佐野周防守(さのすおうのかみ)と一戦を遂げ勝利を得し後」という記述があります。

奥沢(桐生市新里町奥沢)は、しばしば戦いの舞台となったようです。

では、その戦いは奥沢のどこで行われたのか?

 

深沢の角地蔵も、戦国時代にたくさんの死者を出した所に建てられています。

石造物があるところか、堂宇がある所が、その可能性が高いのではないか?

 

正円寺の隠居寺・東昌寺の辺りも、候補地のひとつです

また、裸大日と大日如来立像も気になります

この2件は何度か探しましたけど、見つかりません

今回(2018年9月7日)、地元の人をたよって、やっと「奥沢の裸大日」と「奥沢の大日如来立像」に参拝できました

 

 

まず、裸大日です。

国道353号線新里北小学校入り口の信号付近に、「裸大日入り口」の表示が目立たなくあります。

文字もうすくなってます

たぶん新里村時代に設置されたものでしょう。

北小の方に折れて、東を目指します。

ちょっと細道に入ります。

さて、これからが大変です

大日山の山頂にあるということなので、あるかなきかの道を登ります。

絶対に、長ズボン長袖でなければいけません。

スニーカーで行きましたけど、長靴の方がいいかもしれません。

クマが出るとか、イノシシが出るとか、シカがでるとか、そんな話も聞きました。

何人かで行った方が良さそうです。

 

さほどの気温でなかったのですけど、汗だくになって、やっとたどり着きました

桐生市の指定文化財にもなっているはずなのですけど、とてもそんな雰囲気ないですね

桐生市のHPによると、

奥沢の標高398.5mの大日山の山頂、ここにも大日信仰の跡がみられます。元和7年(1621)に堂宇が建てられましたが、火災によって焼けてしまいました。その後安政6年(1859)に再建されましたが、またもや火災によって焼けてしまいました。それ以来堂宇は建てられることなく現在に至ります。

 

2体あるのですね

 

左の像は、痛々しい状態です

首もなく本当にいたわしい状態ですけど、大日如来の印を結んでいるのがわかります。

下に転がっているのは、もしかしたらこの大日如来のパーツかもしれません。

右の像は、無事だったようです

気のせいか、ちょっぴり寂しそうに見えます

 

ほぼ同じ大きさの大日如来像が、なぜ2体あるのでしょう?

どうして、左の像だけ破壊されているのでしょう?

 

2体の間に、文字を刻んだ石があります。

最初の文字はわかりません

左の異体字とも思うのですけど、わかりません

「?元和七歳建立、寛政寅歳焼失、同三月奉建立」とみえます。

「元和7年に建立し寛政6年に焼失した。寛政6年の3月にこの像を建立した。」と読み取れるのですけど

つまり、左の壊れた像は、元和7年の像で、右のは寛政6年の像ということかな?

安政6年なんて、何処にもないぞ

寛政6年は1794年で、甲寅(きのえとら)の寅歳です

安政6年は1859年で、己未(つちのとひつじ)です。

 

下になんとなく、「奥沢村」「世話人」の文字があるようです。

 

しつこく後ろに回ります。

     

 

何もかも受け止めてくれそうな、大きなやさしい背中です

 

やはり大日信仰で建立されたものかなあ

なんとなく、戦いの供養ではないように感じました

鎧・兜を着、てここまで登ってくるのも大変そう

 

お隣の大間々町は、町誌編集の時に、基礎資料をきちんと作りました。

『大間々町誌「基礎資料Ⅵ」大間々の社寺』には、それぞれの地区ごとに細かく社寺が調査されています。

小祠や堂、里修験も収録されています。

残念ながら『新里村史』編集の時には、基礎資料集などは作られず、いきなり書き始めているようです。

返す返すも残念な事です

 

大日信仰というと、富士信仰になるのでしょうか

修験者が関係していたのでしょうか

 

和尚さんのお墓っぽい石造物も、転がっていました。

ここは、戦いのあった「奥沢と号する地」ではなさそうです。

 

さようなら

いつまでも衆生を暖かく見守ってくださいね

 

 

 

初出  2020.04.17  奥沢と号する地の裸大日  カテゴリー 旧勢多郡とその周辺・総集編 

改稿  2023.12.13

 

旧勢多郡とその周辺総集編の記事は、yahoo ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅡ」にありました。

yahoo ブログにあった旧勢多郡とその周辺の記事は、カテゴリー・旧勢多郡とその周辺・総集編にあります

 

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日光裏街道総集編34(白柴タバサちゃんの日光裏街道の休憩所・高泉村探訪記)

2023-12-08 19:25:44 | 日光裏街道総集編

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに、シャンプーやさんに行ってきました

ひめちゃんも、最近は、シャンプーやさんのお迎えの車に乗っていけるようになりました

以前は、ひめちゃんだけは、おかあさんが送迎していたのです。

 

日光裏街道の高泉村探訪の頃(2021年1月)、ひめちゃんは獅子丸と東の牧場まで足を伸ばしてました。

そこには、ヤギさん家族がいたのです。

ヤギさん家族のアーカイブです

その後、「食べ物をあげないで」という掲示が出ました

ヤギさん家族は、どんどん減っていなくなってしまいました

 

 

 

 

「日光への脇往還」(街道を歩くシリーズ15 群馬県教育委員会)の地図、桐生市新里町高泉(たかいずみ)付近です。

本日は、日光裏街道・高泉村の文化財等の84番・85番・86番の確認です

86が日光裏街道の休み場とあります。

ここには、以前に行った記憶があります。

でも、石造物があったというだけでした。

日光裏街道の休み場という目で見れば、また違った風景になるでしょう

 

 

2021年の1月、タバサねーちゃんも一緒に探訪です

県道333号線(日光裏街道)板橋の信号をを過ぎて、ちょっと寂しい山道を過ぎると、集落が開けます。

まもなく、ありました

 

 

目立つお地蔵様です

イノシシの捕獲用の檻も見えます。

かつては、日光裏街道の休憩所だったはずですけど、今はそういう場所なのです

 

 

奥は青面金剛です。

邪鬼を踏みつけています。

ちょっと誰かに似ているような?

モデルが近くにいたかな?

優しそうな書面金剛です

 

 

青面金剛の下方には馬頭観音です。

 

 

せっかちおじさんは、タバサちゃんと、もう南の方を探索です。

どこからか、1人でお散歩している子がやって来ました

タバちゃんが、大分興味を持っています

雄犬かな?

高齢犬らしく、静かに去って行きました

 

手前の2基には百番の文字が見えます

百番供養塔ですね。

自分が百ヶ所の霊場巡りをした功徳を、みんなにも分けようとした人がいたのです

 

 

その上方には、灯籠と如意輪観音(?)です。

灯籠には、「寛政七年 高泉村」の文字が読み取れます。

 

先の地図では、如意輪観音としていますけど、かなり個性的です。

宝冠の上に化仏がある如意輪観音ってあったっけ?

二十二夜とも二十三夜とも確認できません。

 

 

ここらへんは、とにかくひっつき草との戦いです

タバちゃんは、比較的上手に避けています

 

この上は、ちょっと大変

多分あの左上の石祠が、地図によると文政8年の石祠でしょう。

最近はほとんど手入れがなされていないようです

ひっつき草の猛攻撃に、おじさん退却です

タバサちゃんは、上手に避けて元気に探検できました

 

 

休み所のということで、かつては小さなお堂やら茶店やらがあったのでしょう

 

 

 

はす向かいに、大きな宝篋印塔があります。

地図では85番です。

この日は寄らずに帰りましたけど、12月に寄ってます

記録に残しましょう。

向こうに見えるのが日光裏街道(県道333号線)です。

萬人供養塔の文字があります。

明治33年建立の文字が読み取れます

明治33年はちょうど西暦1900年ですね。

高泉村に何かあったのかな?

 

先の地図には、寛政十一年大日様ともあります。

この方でしょうね

寛政十一年は確認できませんでした。

 

 

さて、交差点に戻って帰りましょう。

左折して、84番の「文化元年 庚申塔軒道しるべ」を確認して南に下ります。

地図の文化財の解説では、

高泉の庚申塔兼道しるべ、文化元年(1804)建立。台石に「右おうご まいはし」とあり、日光方面からの旅人に教えた道しるべであった。

 

日光方面からも、たくさんの旅人がやって来ていたのです

さっきの休み所の利用者も、たくさんいたことでしょう

 

この庚申塔軒道しるべは、日光方面からの旅人も多かったことの大切な記憶です

タバちゃんたちは、この交差点を南に下って帰りました

 

 

初出  2021.01.15

改稿  2023.12.08

 

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日光裏街道総集編33(関村の八幡宮)

2023-12-03 20:47:48 | 日光裏街道総集編

寒い一日でした。

もうじき、小次郎パパが16歳半で逝ってから1年、獅子丸が突然の事故で逝ってから2年になりす

元の記事に、元気な獅子くんがいます

2020年の4月の獅子くんです

この頃は、まだ、七海ママもそこらまでのちい散歩はできました

獅子くん、実家の生活を謳歌してます

 

 

 

79番龍興寺の北西方向に、神社があります。

関(せき、桐生市新里町関)の八幡宮です。

(2020年)4月5日、大間々の長沢薬師からの帰り、国道353号線に出て、前から気になっていた新里北部の関八幡宮(せきはちまんぐう)に寄りました

 

奥深い所にありそうです。

一の鳥居の額は「八幡大神」です。

 

二の鳥居です。

額は、「正一位稲荷大明神」です。

 

三の鳥居です。

邪魔なおじさんがいますけど、桜と鳥居のコラボいいですね

 

右奥に灯籠が見えます。
その奥に階段です

でも、手すりが付いているのは、ありがたい

 

手すりを伝って、やっと登りきります。

社殿の左側は狭くて、何もありません。

右側(東)から、社殿を望みます。

本殿、清浄な雰囲気です

 

石造物が集められています。

灯籠には、文化10年(1813)とあります。

奥深い所なので、神社が守られているのかなという感じがします

 

階段を降りて、灯籠の年号が眼に入ります。

寛政2年(1790)です。

 

ここは、旧新里村関です。

関には、あの瀧沢不動尊への道に丁抗を設置した龍興寺もあります

瀧沢不動尊への道の丁抗を設置したのは、天明8年(1788)です。

関には摩崖仏もあります

 

関村はどんな村だったのでしょう?

資料を整理していたら、『上野国郡村誌』勢多郡のコピーが出てきました

勢多郡関村は、江戸時代以前は、「古昔不詳」とあります。

江戸時代には領主は度々変わっています。

 

「社」として、

八幡社 村社東西十三間南北十五間三尺反別廿五歩村ノ丑ノ方ニアリ誉田別命ヲ祀ル祭日ハ八月十五日境内杉老樹アリ

ほかに、天神社と稲荷社があります。

 

そうすると、後に八幡社に天神社と稲荷社とか集められたのでしょう。

だから、鳥居が3つなのでしょう。

でもどうして、軍神である誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)を祀る八幡宮がここにあるのでしょう?

関に武将がいたという話も聞きませんし

 

「物産」として、

米麦大豆粟稗蕎麦薪炭繭糸等ナリ各種自用ノ外山田郡大間々町ニ鬻ク

とあります。

自家用の他に、大間々町にも売っていたのです

山を下りた向こうの大間々と、深い関わりを持っていたのです

 

 

初出  2020.04.22  勢多郡関村の八幡宮  カテゴリー群馬県・旧勢多郡

改稿  2023.12.03

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