黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

日光裏街道駒形宿・駒形神社(摺墨の記憶を訪ねて)

2021-03-05 20:02:40 | 日光裏街道

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を東に出て、牧場のヤギさんを訪ねます

赤城山には、雲が重く垂れ込めています。

ヤギさんいるかな?

やはり、ヤギパパと1名のボクだけです

ヤギママと2名の子供達の姿はありません

「エサをあげないで」の貼り紙が、悲しい出来事を物語っています。

又来るよ、バイバイ

変なもの食べないでね。

 

ひめちゃんと獅子丸は、さらに奥のタケイ沼に向かいます。

赤城山の雲は、さっきより少し軽くなったかな?

今朝は、カモさん少なめです。

 

獅子くんの顔、一瞬小次郎パパかと思いました。

親子だから、やっぱり似てるんだね

ひめちゃんと獅子丸は、いつものようにお散歩できました

お互いに、異性とは認識していないのかな?

パパは、しっかり異性と認識しています

 

 

 

史跡・鏡田(かがみだ)の説明板に、「名馬・摺墨(するすみ)の遺体は祝昌寺に葬られ、その一部は駒形神社にもある。」と記されていました。

では、摺墨の記憶を訪ねて、駒形神社と祝昌寺に行ってみましょう。

 

まず、駒形神社です

明るい神社です

 

駒形カルタ?

西暦1648年、東善(ひがしぜん)より数戸引っ越し、駒形新田として町を形成し、日吉山王を氏神とした。

宝永七年になって、戸数も増加し小屋原泉蔵寺(せんぞうじ)より駒形明神をもらい受け、これを氏神とした。

町の形成は江戸時代の初期ですか

約50年後、宝永7年(1710)になって、駒形明神を小屋原の泉蔵寺からもらったのですか

 

牛頭天王獅子頭の説明板です。

駒形町は江戸時代に藩主酒井氏の命令で町づくりがはじまったといわれる。しかし、大勢の人を寄せて町づくりを行うことは決して容易なことではなかった。そこで、駒形住民統合の象徴として、この牛頭天王を祀り住民の団結を図ったといわれる。

「江戸時代に藩主酒井氏の命令で町づくりがはじまった」のですね

なるほど、新しい町づくりは大変ですね

駒形明神をあげちゃった泉蔵寺はどうなったのでしょう?

そのうち行ってみましょう

 

明るい境内です

右の狛犬です。

左の狛犬です。

比較的新しいかな?

 

手水社には、馬です。

駒形神社ならではですね

 

ここにも神社の由緒があります。

境内は馬蹄形をなし源頼朝の愛馬の蹄と伝えるものが御神体の一部にある。勧請年月は元亀元年と伝えられる。「上野国郡村誌」

神仏混淆時代は小屋原町の天台宗泉蔵寺に属していたが、慶安年間(1650)頃東善養寺阿(現前橋市東善町)より数戸この地に移転以来漸次戸数が増加により社殿を改築し別当「山伏修験本明院」を設け駒形の氏神とした。社殿は宝暦七年(1757)に改築したが・・・・・・(後略)・・・・・

落ち着いた色合いですけど、読みにくい

 

華やかな社殿で、2礼2拍1礼で参拝です

 

元気はつらつ、青龍です

 

あら、獅子も青獅子

元気はつらつです

 

マスクをした神馬もいます

 

社殿の裏の廻ると、双体道祖神があります。

近くから移動してきたという説明があります。

仲良く手を取り合ってます

宝永2年(1705)の年号が見えます。

社殿の改築(宝永7年)より古いんですね

 

社殿裏には、たくさんの石殿・石造物です。

 

本殿はさっぱりの感じです。

 

さて、神社前の神主さん宅で、御朱印を頂きます。

 

ふと、駒形神社オリジナルの御朱印帳が気になりました。

「馬の絵ですね

「はい、拝殿の天井絵です。ご神体に馬の蹄があるのです

「そうですか。では、この御朱印帳いただきます

 

 

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日光裏街道・今村城丑寅の守護神(今村神社)

2021-02-28 14:49:47 | 日光裏街道

ひめちゃんと獅子丸は、東の牧場にお散歩です。

ヤギさん、どうしたかな?

ああ、やっぱりヤギパパと1名のボクだけです

ちょっと寂しけれど、写真1枚ね

あれ、カードが入ってませんですって

残念

またね、食べ物には気を付けてね。

「エサをあげないでください」、悲しい掲示です

 

プロローグの写真がないのも寂しいので、最近ひめちゃんちに咲いた椿です

 

今一番きれいです。

残念ながら、品種まちがいで来たので、お名前知れずです。

でも、来てくれてよかったよ

かなりの大輪です。

秋にも咲いてくれました。

最近、少し復活です。

やっと咲きました、玉の浦

地植えのクリスマスローズも咲き始めています。

セミダブルです。

きれいに咲いてくれました

 

 

 

今村城丑寅の方角、つまり鬼門にある14番・今村神社です。

石の鳥居が、3つ有ります。

 

二の鳥居の奥に、仁王門です。

愛宕山とあります。

仁王門右に説明板です。

今村神社旧大鏡院仁王門は、寛政期(1789-1800)に建立されたと推測される、伊勢崎地域の修験寺院唯一の門以降で、市内に現存する建築の中でも比較的古い時期に属するものである。~(中略)~今村神社はかつて愛宕神社といい、明治40年(1907)に、大字内の諸社を合祀し今村神社と改称した。

 

200歳超えの仁王様ですね。

右の仁王様です。

迫力ありますね

左の方は、少し紳士的に見えます。

何ごとも受け止めてくれそうな、大きな手です

こんな手の持ち主に廻り合いたいなあ。

奥に神社の由来がありますけど、よく見えません

ここは天台宗の修験寺院、愛宕山大鏡院で、修験者伊藤家が神社の別当も兼ねていた。

明治5年、修験禁止令以降、氏子の管理になった。

こんなことらしいです

 

社殿で参拝です。

ここにも、由来記があります。

「鎮座地 伊勢崎市稲荷町字往還(あざおうかん)」とあります。

街道沿いということですね。

日光裏街道沿いです

当社は往時愛宕堂(宮)といい、伝承に寄れば延応元年(1239)今から748年前領主那波政茂が領内に飯玉・三嶋・愛宕などの社殿を創建寄進し、愛宕堂は後の今村城の丑寅の守護神として、崇敬したといわれる。その後裔の那波顕宗が天正18年(1590)に出羽国で戦没するまで、那波家代々の守護を受けていたといわれるが、近世初めには天台宗聖護院門跡末(本山流)大鏡院(山伏)が別当として祭祀を継承していた。

今村城の丑寅の守護神の守護神だったのですね

 

コロナ対策ですね。

賽銭箱手前で参拝です

 

脇に廻ると、真っ赤な本殿がみえます

 

本殿は真っ赤赤の世界です。

神社って、赤の世界なんですね

 

拝殿脇は、石造物の山です。

道標もあります。

字往還、日光裏街道沿いですものね

 

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日光裏街道・那波の今村城

2021-02-27 15:49:38 | 日光裏街道

諏訪神社前のりりしい獅子くんです

ひめちゃんと獅子丸は、神社の向こうの高台を歩きます。

真っ白な浅間山です。

仲良く情報収集です。

獅子丸は、ひめちゃんに何も感じていないようです。

小次郎パパは、ひめちゃんに熱烈なラブコールを送っています。

ひめちゃんは、「迷惑だ」と怒ってます。

パパは、ひめちゃんの隣(七海ママのお部屋)から、元のお部屋に戻りました。

ちょっと日当たり悪いけど、もうすぐ春だらら我慢してね。

 

ひめちゃんと獅子くんは、仲良くアブラナに首を突っ込んでます。

 

さて、そろそろUターンしようか。

ひめちゃんが、どうしてももっと先に行くと譲りません。

じゃあ、薬師の道を通って帰ろう

 

おはようございます

みなさんご無事のようです

もうじき菜の花に囲まれた菜の花薬師になるかな

テントウムシもいます

しっかり薬坪を持った造形がしっかりしている薬師様です

一番右は、なんとなく凝灰岩の阿弥陀様のような感じです

 

少し行くと、また石仏群です。

こちらは、ちょっとゴミ捨て場の一角という感じです。

こちらにも、しっかり薬坪をもった薬師様がいます

 

これだけ、石造物があるという事は、ただの農道じゃないよね

せめて、「○○の石仏群」のポールでもたってればねえ。

ちょっぴり哀愁の漂う道だね。

 

 

 

何もないと聞いていますけど、今村城(いまむらじょう)登城です

日光裏街道から、ちょっと外れますけど、13番のところです。

韮川(にらがわ)沿いですね。

 

やはり何もありません。

西には真っ白な浅間山と、青い榛名山です。

 

榛名山の北側には、上越の山々が見えます。

戦国時代、あの山越えて、上杉勢は上野にやって来たのですね。

 

城跡の説明板を確認です。

戦国時代に、佐位那波の両郡を領有した那波氏の居城の一つで、城郭は韮川の蛇行地点の北西に、東西南北約四○○メートルの範囲に縄張りされたものです。(中略)天正期に一時、上杉勢の金山城攻撃の拠点となりました。

 

縄張り図を確認です。

(『群馬県の中世城館跡』)

今いるのは、本丸の南の端(先端)あたりです。

川は広瀬川となってます

まあ、韮川はやがて広瀬川と合流しますけど。

 

韮川に行ってみましょう

小さなお堂があります。

こんにちは、合掌

 

韮川の蛇行地点です。

上流の眺めです。

下流の眺めです。

七海ママの生家の犬舎号(人間だと名字のようなもの)は、○○名和荘です。

広い意味で、ここも七海ママの故郷です

 

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日光裏街道・駒形宿(茂兵衛地蔵と鏡田)

2021-02-26 19:56:51 | 日光裏街道

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

落ち着いたきょうだいのお散歩です。

岩神沼には、いつもの黒いカモさんです。

カモさんの軌跡以外は、動きのない静かな景色です。

 

高縄の摩崖仏の裏を通って帰ります。

摩崖仏には梅が満開です

参道は通せんぼされているから、裏から合掌

 

ひめちゃんちに、日本犬保存会の会報が届きました。

表紙は、かわいい黒柴の赤ちゃんです

まるで「赤ちゃん獅子くん」みたいだよ

もう血統書を申請したりしないし、コンクールなんて出ないけど、ひめちゃんが天寿を全うするまで、会員でいましょう。

年会費を振り込みに行ってきました

 

以前の会報の表紙は、毎回「剛志天神山古墳出土の犬埴輪」でした

(旧佐波郡境町)剛志天神山古墳はすでになく、犬埴輪は東京国立博物館に保存されているそうです。

ご対面は難しそうです。

でも、この春、群馬県立歴史博物館の企画展に、東京国立博物館所蔵の埴輪も里帰りするそうです。

チラシに、剛志天神山古墳出土の鶏が載ってます

もしかしたら、犬埴輪も里帰りするかな?

是非行きたいものです

 

 

 

 

日光裏街道・大胡道(街道を歩く・日光への脇往還)の、駒形宿(前橋市駒形町)付近です。

 

22番・駒形長寿観音堂と茂兵衛地蔵を訪ねます。

 

真っ赤な駒形茂兵衛地蔵尊のお堂です。

中には、力士姿の駒形茂兵衛像です。

いくら検索しても、「一本刀土俵入(いっぽがたなどひょういり)」の主人公ということしかわかりません。

ここ駒形の出身だったんですね。

合掌

 

かわいい狛犬です

 

さて、駒形長寿観音堂は何処だろう?

 

南にお堂があります。

子育て地蔵とあります。

古い石仏が少しあります。

お堂の中には、ベビー用品を一杯身につけたお地蔵様?

よくわかりません。

長寿観音堂はないようです。

 

霊園の一角のようです

まあ、とにかく合掌

 

 

南に下ります。

道ばたの空き地になにやら看板が

「伝説 鏡田」ですって

源頼朝が牧狩りの帰りにここを通ったんですか

自分の雄姿を映し見たので、鏡田なんですね。

その時名馬・摺墨(するすみ)に乗っていたんですか

摺墨はここらで突然死したんですか

摺墨の遺体は祝昌寺埋葬され、駒形神社にも一部が保管されているんですね

一部が保管されているって、どういう意味かな

これは、祝昌寺と駒形神社、ぜひ行ってみなければなりません

 

振り返って、右端中央の赤い建物が、駒形茂兵衛地蔵堂です

 

とりあえず伊勢崎方面に下り、今村城 と今村神社とを目指します

祝昌寺と駒形神社は、また後日行きます

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日光裏街道・正法院(南勢多郡の廃寺・阿弥陀寺)

2021-02-22 20:34:18 | 日光裏街道

暖かい朝でした

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出てお散歩です。

蕨沢川に懸かる2番目の橋、「たくみはし」です。

橋のたもとの石仏、今朝はなんとなく像が浮かんでます。

よくよくみると、文字だけなのですけど。

不思議な石仏です。

 

橋を渡って、渡って、諏訪神社の西の細道を下ります。

一瞬「小次郎パパか」と思う写真です

親子だから当たり前かも知れないけど。

 

この道は、危険な道です

冬なのに、田んぼの周りには電気柵が廻らされています

まさか電気は流れてないでしょうけど。

 

諏訪神社の前を通って帰ります。

鳥居の前で、仲良く情報収集です。

獅子くんは、ひめちゃんに恋の季節を感じていないみたいです

 

 

 

富田の三柱神社の後、日光裏街道(大胡道)32番・正法院へ向かいます。

というか、すぐ前です。

山門脇の駐車場に停車です。

 

実は、ここには阿弥陀寺という廃寺があったのです

「南勢多郡の廃寺」(平成23 内田憲治 群馬県勢多仏教会)には

阿弥陀寺(西雲山円蔵院―天台宗世良田長楽寺末)

富田町東原甲776番地に存在したが明治初年無住になった。阿弥陀寺の南約400メートルの字宮下757番地に天台宗持地山正法院延命寺が存在したが、天明元年(1781)と天保13年(1842)の火災により堂宇を焼失、本堂が再建されないまま明治維新に至った。そこで当時無住であった阿弥陀寺と正法院を合併移転することが協議され、明治10年(1877)12月に正法院が阿弥陀寺に移転し阿弥陀寺は廃寺になった。後に上武道路建設に伴う発掘調査により正法院は室町時代頃の創建と考えられ、桁行9間、梁行6間の本堂と周囲に環濠を廻らす寺院であることが判明した。

 

山門を入って、阿弥陀寺の記憶をちょっと探索です

持地山の文字が見えます。

正法院の山号ですね。

 

かなりクラシック石造物だけど

榛名山がきれいに見えます

 

本堂の前には、しだれ桜でしょうか?

阿弥陀寺の記憶はありませんね。

 

おや、古い石造物が集められています

後ろに荒砥史談会のポールが倒れています

ちょっと動かしてみたいけれど、我慢。

この石造物は、たぶん阿弥陀寺の記憶でしょう

合掌

 

駐車場の南にも、堂宇があります

秘仏のようです。

 

おや、横の堂宇に金ぴかの仏像です。

杖を持って坊主頭だから、お地蔵様?

 

古い石造物もあります。

小さいけれど、赤城塔(宝塔)です。

こちらも、赤城塔(宝塔)?

 

正法院がもともとあった場所は、もっと南のようです。

そうすると、これらも阿弥陀寺の記憶ですね

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