黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

新田に対して甚だ敵立の所なり(久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 2)

2024-12-18 22:34:25 | 桐生老談記の世界

獅子丸が突然の事故で逝ってしまっってから、3年が過ぎました。

ひめちゃんと一緒に10歳の誕生日を迎える寸前でした。

最近、獅子丸と一緒に埋めたぬいぐるみのカバ丸が土中から出現しました。

このカバ丸は、彼が養子に行くとき持って行ったものです。

「サツマイモが大好きだった獅子くんに届けてね」と、ムーハウスガーデンで採れたサツマイモを託しました

 

2020年2月の黒柴家族です。

 

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出る事が多かったようです

 

 

 

久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 2

松嶋式部申されけるは、

「某、懸案を廻らすに、尤も先年より桐生の支配を受け来たりしに、近年新田の領分となりしより、この方桐生への出仕をおこたり、武田に隨身する事、実に新田の武名をかろんずるににたり、その上里見兄弟が徒党して、高津戸に住居を結ぶといえども、終に新田より是を破る。かれこれ当家の振る舞い、新田に対して甚だ敵立の所なり。新田の城主立腹さるるもことわりなり。

 

あらすじというか大意です。

松嶋式部が言いました。
私があれこれ思いますのに、以前は桐生の支配を請けてきたのに、近年桐生が新田領となって以来出仕していません。
武田に隨身することは、新田の武名を軽んずることになります。
そのうえ里見兄弟を援助した件でも、新田は怒ってます。
新田の殿様が立腹するのも、もっともです。



黒川衆は独立性を保ちながら、桐生氏・上杉氏・由良氏・北条氏に従って生き抜いてきました
武田に隨身したとありますけど、実際はどうなのでしょう
武田氏は東上州をどこまで支配したのでしょう

山上城には、武田の丸馬だしの遺構があるそうです
発掘したけれど、埋め戻したとか。
山上城のお隣、膳城は武田勝頼の素肌攻めで落城したといいます。

 

 


初稿  2020.02.20  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 

改稿  2024.12.18

 

(つづく)

 

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久留川の亡ぶる時節到来なり(久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 1)

2024-12-17 15:10:54 | 桐生老談記の世界

寒い朝です。

ひめちゃんは堀之内を西に出て、天神田を歩いてきました。

今日も黄色い帽子の集団(小学生の集団登校)に出くわしましたけど、静かにやり過ごせました

 

2020年2月の黒柴家族です。

小次郎パパも七海ママもまだ元気でした

寒くとも、しっかりお散歩していました

 

この2月は、常広寺のインドツアーに参加してインドに行ってます。

インドの犬は人間の周りで、自由に生活していました。

みんなどうしてるかな

 

 

 

『桐生老談記』 新しい章です。

久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その1

去る程に、久留川の本城には、家人一旗会合して評定初後の所に、高草木合戦の由告げ来たり。

殊に新田、桐生より大軍にて押し来たり。高津戸、塩原のほとりに陣を取る。所々の勢を待ち合わせて、明五日の朝五ツ時、久留川に乱入候由、忽ちに告げ知らせ来たりしかば、

久留川の亡ぶる時節到来なり、たとえば謀事(はかりごと)を万里に廻らしたりといえども、勝つことただ幕の内に入るといえども、かの張良が庭訓を思い思いに尽くされけり。


あらすじです。

そうこうするうちに、黒川の本城(深沢城)では、黒川衆が会合して評定していました。
そんなところに、高草木兵庫之介が合戦したという報告が届きました。
「新田・桐生から大軍が押し寄せてきます。彼らは高津戸・塩原に陣を取りました。あちこちの軍勢を待ち合わせて、明日の朝五ツ時(午前8時)に、黒川に乱入します。」という急ぎの報告があったのです。
「黒川の滅びる時節がやって来たのだなあ。どんなはかりごとを巡らせても、まあときたまちょっと勝利したとしてもと、張良のようにあれやこれやと策略を考えるのでした。



幕の内とは、幕と幕の間で幕が下りている時です。
そんなに長くはないでしょう。
ちょっとは、由良勢に勝つかも知れないということです

朝五ツ時(午前8時)とは、ゆっくりです

「黒川の滅びる時節がやって来たのだなあ」、そんなことはありません。
実際、彼らはその後の存在し続けます

張良は、漢王朝の成立に貢献のあった優れた軍師です。

江戸時代には、庶民も知っていたのです

 

 

初稿  2020.02.04  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.17

 

(つづく)

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新田の使者三人塩原へ通りけるを(桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その 4)

2024-12-13 21:09:49 | 桐生老談記の世界

最近ひめちゃんはよく体をなめてます

かゆいのかな?

おかあさんが、動物病院にタバサねーちゃんの目薬をもらいに行くのに同行、ついでに受診です

皮膚炎になりかかっているということで、かゆみ止めの注射をしてお薬が1週間分でました。

 

深沢城の写真を探していると、2020年4月の元気な黒柴家族です

みんな一緒に楽しかったね

 

 

 

桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その 4


申の下刻ばかりに神梅の寄居に人を走らせ、谷々の役所に相触れ大いに騒ぎ、動転して皆々本城に集まりける。

かくて高草木は寄瀬山の麓に出て、敵の陣を伺いけるところに、新田の使者三人塩原へ通りけるを、兵庫は寄せ手の先陣と思い、手勢に下知して使者を真甲に取り巻き責めける。

使者は当地不案内、殊に無勢にして、さんざんに打ち負けるも、日暮れに及んで、つまりつまりに追い落とされ、三人とも討たれけり。

去る程に不慮の討ち死にと、聞く人これを惜しまれけり。

 



あらすじです。


午後5時頃、由良勢が攻めてきたとの報告がもたらされ、黒川谷の人々は動転して本城に集まった。
高草木兵庫は、寄瀬山の麓に出て敵の陣を伺っていたところに、新田の使者三人が塩原へやって来た。
兵庫は、彼らを寄せ手の先陣と思い、手勢に下知して使者を取り巻いて責めたてた。
使者は当地不案内で、殊に無勢にして、さんざんに打ちのめされ、日暮れになると最後には、三人とも討たれてしまった。
これは思いがけない討ち死にであると、この話を聞く人は残念がった。

 


神梅の寄居とは、どこか?
神梅城が深沢城だから、深沢城のことと考えるのが自然かな
みんなが集まった本城も深沢城でしょう



ここはみどり市ではなく、桐生市黒保根町なります。
深沢城なのに、歴史を無視しした合併で、ちょっとわかりにくくなってます

高草木兵庫が、新田勢からの桐生勢への使者を捕らえたのが、寄瀬山の麓です。
桐生勢は、塩原の神明の森に陣取ってました。
寄瀬山は塩原の近くだと思いますけど、場所が確認できません

使者は当地不案内、こんな設定はあり得ないでしょう
地理感覚が無かったら、使者は務まりません
全員とは言いませんけど、最低1人は道を知っていなければ、ましてこんな大事なときに
ちょっと無理な設定のように感じます
三人とも討たれてしまったのも変です
せっかくだからいろいろ聞き出すべきです

 

 

初稿  2020.02.01  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.13

 

 


( 桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事 終 )

 

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手振り山の空深沢山の峯に(桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その 3)

2024-12-12 22:28:35 | 桐生老談記の世界

今朝の赤城山には、雪雲が架かっているようです。

冷たい真冬の空気の一日でした。

ひめちゃんもタバサねーちゃんの、しっかりおうち犬(室内犬)で過ごしました。

 

2019年12月の黒柴家族です。

ひめちゃんと獅子丸は、よく山上城にも行ってました

城跡公園(三の丸)には上がらずに、二の丸と三の丸の間を通って帰ることが多かったようです。

 

帯郭のモミジは、少し盛りを過ぎていました。

隣の常広い寺の銀杏も黄金色になってました。

なぜか、もう2本ともありません。

 

 

 

桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その3

かくて新田勢は桐生勢と内談の為、石原与右衛門、木村次三郎、伊藤伊勢之介、この三人の兵を添えて、其の日の申の刻(午後四時から五時)に塩原に遣しけり。

さるほどに山中には、新田・桐生より寄せ来たる由、所々の寄居に触れ渡りしかば、高草木兵庫之介伊織、草木、さや戸の地に侍を五十人ばかり随えて後、五蘭田の寄居に籠もり、

手振り山の空深沢山の峯に、遠見の番所を構え、谷々に役番所を立ち添え、夜昼の用心おこたる事なく、両家の大軍の由を深沢山の番所へ知らせけり。

 


あらすじです。

新田勢は桐生勢と内談のため、石原与右衛門、木村次三郎、伊藤伊勢之介の3人を、その日の夕方塩原に派遣しました。
一方、黒川谷では新田・桐生から軍勢がやってくると、あちこちの砦に知らせました。
高草木兵庫之介伊織は、草木・小夜戸の地で侍を五十人ばかり随えてその後、五蘭田の寄居に籠もって、手振り山・深沢山に、遠見の番所を構えて、谷々にも役番所を置いて、夜昼夜油断なく、新田・桐生の大軍のことを深沢山の番所へ知らせていました。



塩原神明の森は、塩原にある神明社の森という意味のようです。

前回にも紹介しましたが、『大間々町誌基礎資料Ⅺ 大間々町の寺社』(平成9年)に神明社の写真と地図があります。



46が神明社です。
渡良瀬川にも近く、こちらの方が42の塩原神社より、陣を構えるに向いていそうです
黒川衆の番所のある手振山とも、渡良瀬川をはさんで向かい合ってます

「上州手振りうどん」というおいしい乾麺があります。

この手振り山からの命名なのですね



2020年1月27日、塩原神明社を確認してきました。

塩原神明の森

あの、茅葺きの趣ある社殿は崩れ落ちていました

 

 

初稿  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.12

 

 

(つづく)

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塩原神明の森に各陣をとられけり(桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その 2)

2024-12-09 20:00:00 | 桐生老談記の世界

今日は激寒の予報です

おかあさんは、冬タイヤに交換のため、車屋さんに出かけます。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、おうち犬でお留守番です。

 

2020年1月の黒柴家族です。

七海ママは15歳と7ヶ月、まだまだ元気に末っ子たちと昼散歩していました

一見似ていないような3名ですけど、よく見るとあちこち似ています

 

 

 

 

桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その2

ここにまた新田勢は後陣にて、金谷因幡守を大将にて、薗田、岡田、萩原、関口、中里、大津、野田、岩下、津久井、伏嶋、布目、梶、彦部、小泉、寺田、板橋、矢野、嶋田、峯岸、松下を始め、宗徒の人々十九人、上下百六十騎、先陣に進み、

このほか、浜田匠之介を物頭にて、薮塚、長岡、成塚、菅塩、神戸、鳥山、金井の地侍を匠之介が旗下に付けて、阿左美の原にて勢を揃え、都合四百八十人、桐生勢と同時に打立てけり。

かくて新田勢は奈良坂を超えて、梨木峠の上の原に着き、着陣して桐生勢を待ち合わせける。

さて桐生勢は、塩原神明の森に各陣をとられけり

 

 


あらすじです。

新田勢は金谷因幡守を大将に、薗田、岡田、萩原、関口、中里、大津、野田、岩下、津久井、伏嶋、布目、梶、彦部、小泉、寺田、板橋、矢野、嶋田、峯岸、松下を始めとして、宗徒の人々十九人、上下百六十騎で先陣に進みます。


このほか、浜田匠之介を物頭にして、薮塚、長岡、成塚、菅塩、神戸、鳥山、金井の地侍を、匠之介の旗下に付けて、阿左美の原で軍勢を揃え、都合四百八十人、桐生勢と同時にしっかり準備をしました。


かくて、新田勢は奈良坂を超えて、梨木峠の上の原に着き着陣して、桐生勢と待ち合わせました。
その桐生勢は、塩原神明の森に陣をとりました。



由良勢は桐生と新田(太田)から、黒川衆を攻撃します。
新田勢の総大将は金谷因幡守です。
総勢160騎です。
宗徒とは、宗教関係者、僧侶でしょうか?

浜田匠之介は物頭(ものがしら)、つまりナンバー2です。
薮塚、長岡、成塚、菅塩、神戸、鳥山、金井の地侍を配下に召集します。
やぶづか、ながおか、なりづか、すがしお、とりやま、かない、太田市に現在もあるの地名です。

金井は旧新田町の金井、ジョイフル本田・新田店の辺りです。
神戸は強戸(ごうど)でしょう。

作者は、大田の地名をよく知ってます


金山城の西や北の地侍を動員したのです

阿左美の原で軍勢を揃え、全部で480人、桐生勢と同時にしっかり準備をしました。

東部鉄道桐生線に「阿左美駅」があります。
付近は再開発が行われて、まるで六道の辻のように道路が集まってます
余計なことですけど、阿左美駅の次は新桐生駅です
ここは黒川谷方面の少し南です。



さて、桐生勢は塩原神明の森に陣取ったようですけど、塩原神明とはどこか?

塩原明神の写し間違いなら、塩原神社(みどり市大間々町塩原)ということになりそうですけど

『大間々町誌基礎資料Ⅺ 大間々町の寺社』によれば、塩原神社は明治40年に近隣の7社を合祀して成立した神社であるということです。
そうすると、塩原神明の森は、塩原にある神明社の森であるようです


『大間々町誌基礎資料Ⅺ 大間々町の寺社』(平成9年)に塩原神明社の写真と地図があります。



46が神明社です。
渡良瀬川にも近く、こちらの方が陣を構えるに向いていそうです
黒川衆の番所のある手振山とも、渡良瀬川をはさんで向かい合ってます。

ちなみに、塩原神社は42、里見兄弟の墓は39です。

 

 

初稿  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.09

 

(つづく)

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