黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

内蔵を開き財宝を取り出し家中に残らず配分して(膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事・その2)

2025-02-06 21:00:49 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは昨夜一晩中、体をなめたりかいたりしていました

これはまた皮膚炎が始まったかな

秋に皮膚炎で苦しんでいたタバサねーちゃんは、なんとか大丈夫のようです。

ひめちゃんとタバサねーちゃんの違いは、食物です。

タバサねーちゃんは、配られた食事とお散歩時のツブツブ(ドッグフード)だけです。

ひめちゃんは、現在ほぼ完全に自由な室内犬です。

基本的にはタバサねーちゃんと同じ食生活のはずですけど、人間の食べ物を与える老人がいるようです

要求する犬も悪いけど、人間の食べ物を与える人間はもっと悪い

あげないように気を付けてもらいましょう。

きつく注意しました。

七海ママもアレルギーに苦しんでいた時期がありました。

検査の結果いくつかのアレルギー物質が出ました。

その一つが小麦です。

たぶん、ひめちゃんも小麦アレルギーです。

パンやお菓子はだめです。

今日は無人スタンドで、新鮮なブロッコリーが手に入りました

ひめちゃんたちの夕食にも付きました

 

 

元記事の頃、2021年11月、朝散歩で、ひめちゃん&獅子丸&タバサねーちゃんは、膳城まで足を伸ばしました。

獅子丸くんもブロッコリーが大好きだったね

 

 

 

膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事・その2 

これにより弾正、内蔵を開き財宝を取り出し家中に残らず配分して

「いかに方々、何方へなりとも仕え候て重ねて若君御旗揚げ給う節は、駆けり集まり御先途に立ち給え」と、ねんごろに申し談ず。

其の時若君を上座に直し、御盃を参らせければ、春松殿取り上げ、諸家中にくだされ御暇給えば、皆々袖をしぼりつつ、中にもこの程に付き置かれたる、おちや(守役)、めのと(乳の人)は名残を悲しみて伏しまろび、なげきけりこそ、ことわりなり。

かくて巳の下刻ばかりに、北の方と若君、鶴谷、斉藤、野村を召し連れ、数代の住居を後にみて三州にぞ落ち給う。

思えばあさましき有様なり。

 



あらすじです。


(弾正の「若君はひとまず三河に退くのがよい」という提案に、みんな納得したので)
弾正は内内蔵から財宝を取り出して、のこらず家中に分配しました。
そして、「みんな何処へでも仕官なされ。そして若君がお家再興の旗をあげるときは、一生懸命戦ってほしい。」と、心を込めて申し渡しました。
そして若君・春松殿を上座に据え、家中で別れの盃をかわしました。
みんな泣いたけれども、守役と乳母は、特に悲しがったのは、もっともなことでした。
こうして巳の下刻(午前11時すぎ)に、北の方と若君は、鶴谷、斉藤、野村を召し連れ、膳氏数代の住居を後にして、三州に落ち給ていかれました。
まことに嘆かわしいことでした。

 



膳城には、財宝があったんですね
分けてしまったんですね
後日のために埋蔵金にしておこうなんて、考えなかったのです
「とりあえずどっかの家中になって、若君が旗揚げするときは、馳せ参じてほしい。」、そんなこといわれても困りますね

戦国時代の敗者の家臣は、牢人といわれ、どちらかというと、嫌われたようです
そんなに簡単に再就職は無理です

「若君がお家再興の旗揚げ時は馳せ参じ」たら、再就職していても、仕事をなげださなければなりません。
それは、無理でしょう

若君とその母が、三河目指して落ちていきました。
お供していったのは、鶴谷、斉藤、野村でした。
普通は、乳母や守役は付いていきます。

三河と膳さんは、何の関係もありません
さて、弱りました

 

 

初稿  2020.04.11  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.02.06

 

 

( 膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事  終 )

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ひとまず城を開き三河に退き(膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事・その1)

2025-02-02 20:17:21 | 桐生老談記の世界

今日2月2日は、数日前から雪予報でしたけど、雨の一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、貧乏カッパでお散歩です。

2月に雨なんてあったっけ

ひめちゃんは、もうじき13才になります

 

2020年4月の黒柴家族です。

ひめちゃんは、小次郎パパともよくお散歩していました。

獅子丸も実家に帰って10ヶ月、パパとの関係は微妙でしたけど、実家の生活に埋没していました

末っ子達は、七海ママの昼散歩に付き添ってました

 

 

 


ひとまず城を開き三河に退き膳の一旗評定の事、付けたり、諸宝配分の事・その1



去る程に、膳の城には一旗集まり評定なり。

譜代若武者小俣の城にて討ち死にして、残る者には役に立つものなし。老若男女ばかりなり。

斉藤右近此れ等初めて三十旗にすぎず。

時弾正諸勢に向かって、「口惜しきの事なり。主君宗次殿すいきょうに由なき人の徒党して、命を失い家を亡ぼし妻子を捨て、誠にたぐいなき不覚なり。かかる時節到いたし、当年七才なる春松殿を、一郡の主に取り立てまいらせんとおもいしに、懸かるしだらなれば我ら御供申して、家康公甲州御入部の節、御目見えとげんと思いしに今滅亡に至る事、皆是主君宗次殿のなされるわざなり。知行の地侍を集め、一合戦致すともばかばかしき事あるまじ、譜代の家人を失わば、若君後日に御運開き給うに頼りなし。ひとまず城を開き三河に退き、家康公に職くして時の至を待つべし」と、理を尽くしてもうしければ、人々同心なり。



あらすじというか、大意です


(小俣城攻撃で敗退した頃)膳城には家中が集まって相談しました。
譜代や若武者がみんな小俣城で討ち死して、役立たない者ばかり残っていました。
残っているのは、斉藤右近をはじめとして30騎ほどでした。
時弾正が、みんなに向かって言いました。
「我らの主君・膳宗次が、気まぐれでとんでもない人に加担して、そのあげくに死んでしまい、誠に油断がすぎたことだった。膳家が滅びるのは、我らの主君・膳宗次のせいである。残っている者で戦してもうまくいかないだろう。ひとまず開城して、若君・春松殿をともなって三河に退こう。家康公のもとで、時の至るのを待つのがよい。」
と、理路整然というので、みんな納得しました。



どうも、理路整然どころか、理路不明です
どういう意味か分からない表現が多いです
何が言いたいのか、そう考えて意味を取ります
主君・膳宗次が悪いのだと断言しています
その前に、諫言するべきでした。
それに、なんと家康を頼って落ちていこうですって
膳氏と家康は何の関係もありません。


他の老談記では、上杉謙信を頼ってます。
膳宗次は、上杉勢が渋川義勝の留守を狙って、小俣城を攻撃する時に道案内をして暗闇沢(くらみざわ)で討ち死にしています。

物語として、オリジナルなものを創作したかったのかもしれません
でも、余りに不自然すぎるのは、どうかな


膳氏・膳城については、『粕川村誌』にも、詳しくありません
ほとんど分からないようです。
この膳城の土地は、膳氏の子孫という人が、戦後畑になるのを防いで買い上げ、村に寄付したものだそうです
その売買の過程とかは、実に詳しくでています
ちょっと違和感を覚えます

 

初稿  2020.04.08  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.02.02

 

 

(つづく)

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勇みすすんで膳の城に向かいけり(渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事 ・その2)

2025-01-30 20:01:43 | 桐生老談記の世界

寒い寒い雪風のような風の一日です

おかあさんは、ガーデンの伸びすぎた枝切りです。

クリスマスローズは、まだ花芽をつけていません。

ひめちゃんはお出かけかないませんでした

近いうちに、どこかへお出かけしようね

 

2020年4月の黒柴家族です。

七海ママも末っ子達と、そこらまでのちい散歩を楽しんでいました。

獅子丸はアブラナが大好きで、道ばたの生のアブラナにも食いついていました

しっかりそれを学習したひめちゃんは、お散歩の途中、最近伸び出したアブラナをつまみ食いしています

 

 

 

勇みすすんで膳の城に向かいけり(渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事 ・その2)

石井安芸守を大将として、大川、久保田、桑子、久保沢、別府、籾山、片山、松本、広瀬、竹沢、寺内、吉良、栗谷、荒井、根岸、湯沢、大原、須藤、小林、猪俣、小泉を先にして、宗徒人々二十三人、都合百八十人余騎ばかり、十三日の、辰の刻(午前八時)ばかりに、蓮沼の辺りにて勢揃い、勇みすすんで膳の城に向かいけり

あらすじです。

(小俣勢は)石井安芸守を大将として、大川、久保田、桑子、久保沢、別府、籾山、片山、松本、広瀬、竹沢、寺内、吉良、栗谷、荒井、根岸、湯沢、大原、須藤、小林、猪俣、小泉を先頭に、主立った人々23人、総勢180余騎で、13日の辰の刻(午前8時)ごろに、蓮沼のほとりに勢揃いして、勇んで膳の城に向かいました。



小俣城主の渋川義勝が帰ってきたのが4月23日、そしてすぐに戦の指示を出しました。
13日とは、いつの13日でしょう?

ちょっとつじつまが合いません
作者は、日にちの確認を忘れてしまったのでしょうか

蓮沼は、どこだか分かりません
小俣城の近くらしいですけど。

総大将の石井安芸守は、城代の石井尊空ではありませんね。

それにしても、戦の日にちも、いつの13日か分からないのに、戦い参加者の名字は、なんとはっきりしているのでしょう

辰の刻(午前8時頃)の集合って、ちょっと遅いような感じを受けます
でも、当時は一日2食の時代で、朝ご飯は8時頃ということなので、まあ朝ご飯をしっかり食べてからということでしょう

何処を通って、小俣から膳に行くか?
桐生川と渡良瀬川を渡らなければなりません。

それなりに時間はかかるでしょう。
でも、膳に行くには山上を通るはずです。

ところが、山上・山上城については一言も触れられずに、物語は展開します
不思議な事です

 

 

初稿  2020.04.04  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.30

 


( 渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事  終 )

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定めて萩田備後守は女渕の城に籠もり居べし(渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事、その1)

2025-01-27 20:39:04 | 桐生老談記の世界

夕方のひめちゃんのお散歩は、堀之内を南に下り、中学校の信号付近を廻って帰ることが多いです。

最近は、行き会う犬たちが少なくなりました

お出かけ大好きドッグの本領発揮中のひめちゃんは、中学生がたむろしている所も、平気で通れるようになりました

 

2021年4月の黒柴家族です。

小次郎パパもまだ元気でした

 

 


定めて萩田備後守は女渕の城に籠もり居べし(渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事、その1)


去る程に、渋川相模守義勝、小俣に帰城なられ、

今度、留守の合戦、味方勝利あるによって、御悦び無間、義勝の仰せには誠に無勢にて大敵早時に追い破る事、大勤とやいうべし、高名の上のほまれなり、定めて萩田備後守は女渕の城に籠もり居べし、此の上は女渕の城主荒井図書方へ内通して、何卒備後を引き出し、なんとかはかりごとをめぐらし、其の手立てを催し、先ず当家早速出陣して、膳の城を攻めるならば、備後も膳の後詰めに出づべし、恨みの矢を討って、うらみを晴らすべき、時刻を移さずに勢揃え仕まつるべくありければ、

承り候と、既に軍兵を揃えけり。

 



あらすじです。


渋川相模守義勝は、小俣に帰城しました。
そして、今回の合戦に勝利したことを大喜びして、言いました。
「少ない軍勢で大軍を打ち破ったことはすばらしい働きであり、このうえない名誉である。萩田備後守は女渕(おなぶち)の城に籠もっているにちがいない。こうなったら、女渕の城主荒井図書に内通して、萩田備後守を引っ張り出すようにしよう。まず当家が早速出陣して膳の城をせめれば、萩田備後守も膳城への救援に出陣するだろう。恨みの矢を討って恨みを晴らそう。さっそく軍勢を揃えよ。」と。
「承知しました。」とすぐに膳城攻撃の軍勢が揃えられました。



「恨みの矢を討って、うらみを晴らすべき」、気になる表現です
戦国武将は、恨みで行動したりはしなかったはずです
彼らにとっての最大の関心は、領地の確保・獲得だったはずです

『桐生老談記』作者・高橋守行(1716-1766)は、江戸時代の農民で、上野国山田郡今泉村の名主だったといいます。
彼らの価値観の反映なのでしょう

萩田備後守はなぜ女渕城に籠もるのでしょう?
女渕城の城代・荒井図書は足利長尾氏の家臣で、その足利長尾氏には、由良国重の弟・顕長が養子に入ってます
女渕城と膳城は、さほどの距離はありませんけれど、関係もよく分かりません
小俣から引き上げると、膳城を横目に見て、女渕城に行く事になります

それよりも不思議な事は、膳城と目と鼻の先にある山上城が全く出てこないことです
天正2年閏(うるう)11月、羽生衆千余人は、羽生城を破却し利根川を渡り山上にやって来て、膳城・山上城・葛塚城に別れて住んだといいます。
膳城・山上城・葛塚城がひとかたまりです


女渕城は現在でも、遺構がよく残ってます

白柴タバサちゃんの女渕城登城記2021(初めての逆廻り)



女渕には女渕衆という武士団もあったといいます。
どうも、膳城とは別の流れのように思えます

 

 

 

初稿  2020.04.02  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.27

 

 

(つづく)

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馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり(新田より小俣へ加勢の事・その2)

2025-01-25 21:08:59 | 桐生老談記の世界

今朝、ひめちゃんは天神田を歩いて、久しぶりにケンくんちのそばを通りました。

ちょうどケンくんのママさんが出てきて、「覚えてる?」

ひめちゃんは、もちろん忘れるはずがありません

大好きだったケンくんのママさんだもの

いっぱいナデナデしてもらいました

 

2019年11月のある日、ひめちゃんはケンくんちに寄りました。

直接は逢えなかったけれど、まあ満足だったかな

 

 

 

馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり(新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事・その2)

 

其の口上に、「この度不慮に大事を引き請けし所、敵即時に敗北せしむる事、一旗の大勤以て宜しきなり。殊に城主御留守といえ、家の面目世に聞こえるという。国重その類家として、大慶これに過ぎず」と思し召しける旨、仰せ越されける。

一旗謹んで承り、誠に上意有り難き旨、早速御返答仕まつり、使者は新田へ帰りけり。

去れば其日、早旦に小俣より小田原へ早打ちを以て参着する所、藤沢の辺りにて、義勝公に行き会いたれば、国城の騒動の由言上致しければ、大きに義勝公驚き給い、馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり。



あらすじです。


由良国重の書状には、「思いがけず敵の来襲に遭遇したけれど、即座に敵を打ち破ったことは、まことに喜ばしいことである。
殊に城主が留守とはいえ、家中の面目躍如である。国重にとっても、大変うれしいことだ。」


小俣家中は、謹んで受け取り、早速返答しましたので、使者は新田へ帰りました。


また、その日(天正11年4月21日)、小俣から小田原に使者を早馬で送りました。
ところがなんと、その使者は藤沢付近で、義勝公にあったのです
国元での出来事を言うと、義勝公は驚いて馬を早めて23日には、小俣城にお帰りになりました

 



この小俣合戦で討ち死にした膳備中守の居城は、膳城(旧勢多郡粕川村)でした。


2021年11月19日、朝散歩でみんなで行きました。

ひめちゃんの膳城初登城記

本丸址にある説明板です。




「膳城は、天正8年(1580)武田勝頼の素肌攻めのあと、廃城になったと伝えられる」とあります。


『桐生老談記』 の今は、天正11年(1583)4月です
天正11年、膳城はもうすでに廃城になっているのです

 

 

 

初稿  2020.03.30  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.25



( 新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事   終 )

 

 

 

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