黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

塩原神明の森に各陣をとられけり(桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その 2)

2024-12-09 20:00:00 | 桐生老談記の世界

今日は激寒の予報です

おかあさんは、冬タイヤに交換のため、車屋さんに出かけます。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、おうち犬でお留守番です。

 

2020年1月の黒柴家族です。

七海ママは15歳と7ヶ月、まだまだ元気に末っ子たちと昼散歩していました

一見似ていないような3名ですけど、よく見るとあちこち似ています

 

 

 

 

桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その2

ここにまた新田勢は後陣にて、金谷因幡守を大将にて、薗田、岡田、萩原、関口、中里、大津、野田、岩下、津久井、伏嶋、布目、梶、彦部、小泉、寺田、板橋、矢野、嶋田、峯岸、松下を始め、宗徒の人々十九人、上下百六十騎、先陣に進み、

このほか、浜田匠之介を物頭にて、薮塚、長岡、成塚、菅塩、神戸、鳥山、金井の地侍を匠之介が旗下に付けて、阿左美の原にて勢を揃え、都合四百八十人、桐生勢と同時に打立てけり。

かくて新田勢は奈良坂を超えて、梨木峠の上の原に着き、着陣して桐生勢を待ち合わせける。

さて桐生勢は、塩原神明の森に各陣をとられけり

 

 


あらすじです。

新田勢は金谷因幡守を大将に、薗田、岡田、萩原、関口、中里、大津、野田、岩下、津久井、伏嶋、布目、梶、彦部、小泉、寺田、板橋、矢野、嶋田、峯岸、松下を始めとして、宗徒の人々十九人、上下百六十騎で先陣に進みます。


このほか、浜田匠之介を物頭にして、薮塚、長岡、成塚、菅塩、神戸、鳥山、金井の地侍を、匠之介の旗下に付けて、阿左美の原で軍勢を揃え、都合四百八十人、桐生勢と同時にしっかり準備をしました。


かくて、新田勢は奈良坂を超えて、梨木峠の上の原に着き着陣して、桐生勢と待ち合わせました。
その桐生勢は、塩原神明の森に陣をとりました。



由良勢は桐生と新田(太田)から、黒川衆を攻撃します。
新田勢の総大将は金谷因幡守です。
総勢160騎です。
宗徒とは、宗教関係者、僧侶でしょうか?

浜田匠之介は物頭(ものがしら)、つまりナンバー2です。
薮塚、長岡、成塚、菅塩、神戸、鳥山、金井の地侍を配下に召集します。
やぶづか、ながおか、なりづか、すがしお、とりやま、かない、太田市に現在もあるの地名です。

金井は旧新田町の金井、ジョイフル本田・新田店の辺りです。
神戸は強戸(ごうど)でしょう。

作者は、大田の地名をよく知ってます


金山城の西や北の地侍を動員したのです

阿左美の原で軍勢を揃え、全部で480人、桐生勢と同時にしっかり準備をしました。

東部鉄道桐生線に「阿左美駅」があります。
付近は再開発が行われて、まるで六道の辻のように道路が集まってます
余計なことですけど、阿左美駅の次は新桐生駅です
ここは黒川谷方面の少し南です。



さて、桐生勢は塩原神明の森に陣取ったようですけど、塩原神明とはどこか?

塩原明神の写し間違いなら、塩原神社(みどり市大間々町塩原)ということになりそうですけど

『大間々町誌基礎資料Ⅺ 大間々町の寺社』によれば、塩原神社は明治40年に近隣の7社を合祀して成立した神社であるということです。
そうすると、塩原神明の森は、塩原にある神明社の森であるようです


『大間々町誌基礎資料Ⅺ 大間々町の寺社』(平成9年)に塩原神明社の写真と地図があります。



46が神明社です。
渡良瀬川にも近く、こちらの方が陣を構えるに向いていそうです
黒川衆の番所のある手振山とも、渡良瀬川をはさんで向かい合ってます。

ちなみに、塩原神社は42、里見兄弟の墓は39です。

 

 

初稿  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.09

 

(つづく)

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打ち亡ぼすべしとの御定にて(桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その 1)

2024-12-08 20:32:13 | 桐生老談記の世界

今朝は今冬初めて、車のフロントガラスが凍りました

いよいよ上野国山上(こうずけのくにやまがみ)にも、本格的な冬がやってきたようです

 

5年前(2019年)の12月、ムーハウスのみんなは元気で、しっかりお散歩していました

獅子丸は実家に帰って半年、明るく元気に過ごしています

 

ひめちゃんと獅子丸は岩神沼まで、時にはさらに上の童沢貯水池まで足を伸ばしていました

 

東の牧場にも行っていました。

大きなヤギさんもいました。

その後ヤギ家族が増えて賑やかになりました

 

 

 

『桐生老談記』、新しい章です。
桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事

去る程に、水漸やく落ちて其の日の未の刻(午後三時)ばかりに、松嶋水死の由、新田へ注進申しければ、

国重公甚だ立腹なされ、よしなき災難にて時刻を移すのみならず、味方の名折れしでかしたる事心外なり。この上は忽ちに取りかかり、打ち亡ぼすべしとの御定にて、

当家の軍師なれば、藤生、金谷に大将給えば、両人内談を定めつつ、藤生は桐生に帰り、忽ちに軍勢を相触れ着頭を記されける。

紀伊守を大将にて、荒井、茂木、高橋、外山、荒巻、伊藤、小林、薗田、広瀬、岩下、木村、岩水、安田、柳田、須永、籾山、常見、垣根上、大津、箱島、永井、稲垣、加藤、江原、鹿島、栗原、野田、内田、片山を先として、名有る人々三十一人、上下二百四十八騎、是を先陣にて、桐生峠に懸かり、後陣の勢を待ちたり。

て後陣は、谷右京を物頭にて、広沢、吉沢、境野、久方、下菱、荒戸、本宿の地侍、荒戸鷺沼の辺りにて勢を揃えて押し出す。小倉、仁田山、須永、高津戸の地に侍を相添えて、上下都合七百二十人、天正六年十月四日早旦に我先にて乗り出す。

 


あらすじです。


午後三時頃ようやく松嶋淡路守が水死した報告が新田に届いた。
由良国重公は、非常に立腹され、「とんでもない災難で時間を費やしただけでなく、味方にとって不名誉な事をしでかしてくれたのは心外である。このうえは、ただちに戦を仕掛け黒川衆を打ち亡ぼすべきだ。」と決定された。


藤生、金谷の両名が大将に指名され、両名は相談して、藤生は桐生に帰り、直ちに戦の準備をした。


藤生紀伊守を大将に、荒井、茂木、高橋、外山、荒巻、伊藤、小林、薗田、広瀬、岩下、木村、岩水、安田、柳田、須永、籾山、常見、垣根上、大津、箱島、永井、稲垣、加藤、江原、鹿島、栗原、野田、内田、片山を先として、名有る人々三十一人、上下二百四十八騎を先陣で、桐生峠にさし懸かり、後陣の軍勢を待った。


後陣は、谷右京を物頭(足軽大将)として、広沢、吉沢、境野、久方、下菱、荒戸、本宿の地侍、荒戸鷺沼の辺りで軍勢を揃えて出陣した。
小倉、仁田山、須永、高津戸の地侍も動員して、上下合わせて720人、天正6年10月4日朝早くに我先と出撃した。

 

 


天正6年(1582)10月、上杉謙信の死から半年後です。
由良勢は、終に黒川谷に押し寄せます

たくさんの人の名字が出てきます
たぶん、『桐生老談記』がかかれたころ、桐生にいた人々の名字でしょう

先陣は240騎で桐生峠にさしかかったとありますけど、桐生峠がどこか分かりません
現在、桐生峠という峠は見当たりません

後陣の人達は、荒戸つまり渡良瀬川と桐生川の間の原野、現在の桐生の街中辺りで集合して出陣です
小倉、仁田山、須永、高津戸の地侍も動員とは、高津戸城悲話が嘘のようです
『桐生老談記』では、里見兄弟の高津戸城悲話は天正6年9月18日です

ちょっと時間的に近すぎの様な

 

初稿  2020.01.22  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.08

 

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その頃桐生又兵衞という者あり(松嶋御使者の事、同水死、付けたり、桐生待ち伏せの事・その 2)

2024-12-06 21:09:01 | 桐生老談記の世界

夕方、ひめちゃんは南の方にお散歩です。

よほどの事が無い限り、中学校の信号付近まで行ってきます

20年位前から、売れる土地はここら辺までと言われていたそうです

確かにここより上は、不便になります。

お店もなくなりました

桐生市に合併してから、バス路線も廃止されました

どうなっちゃうんだろう

でも、自転車で上の方に帰る中学雨声は結構います

 

2019年11月のある日の、ひめちゃんと獅子丸です。

この頃は、この道を直進して堀之内を出てました。

岩神沼、時にはさらに上の童沢貯水池&新沼まで行っていました。

この日は、岩神沼までだったようです。

もう初冬の雰囲気です

 

 

 

松嶋御使者の事、同水死、付けたり、桐生待ち伏せの事・その 2

水はげしく、岩石しのぎをけずって流れ上がりかねたる岸なれば、松嶋無双名人しかも名馬に乗りたれども大勢にすがられ、水に溺れ、やたけの心の力も尽きて、上下十六人ともに、これぞ三途の川、瀬ぶみして同じ波間に沈み行く。最後の程ぞ無念なり。

然るに松嶋が本道を行かず、小道に懸かりかように水死いたすこと、その故を尋ねけると、その頃桐生又兵衞という者あり。かの淡路守へ申し談ずべきことありて、七八騎にて控えしが、松嶋水死と聞くよりも、早速場を退きけり。松嶋此の待ち伏せを恐れたるにあらず。ただ使者の妨げになる事を思い、さて小道に懸かりけり。

その後、松嶋が一門、淡路守水死の敵なりとて、桐生又兵衞を折々ねらいける断りなり。去れば松嶋水死の事、その日の辰の刻に早打ち立て、新田へ訴えんとしたれども、澄む水心に任せねば、桐生の城代へかくと注進申されけり。



あらすじです。


渡良瀬川は激しい流れで、松嶋が水練の名人でそのうえ名馬に乗っているといっても、大勢にすがられて水に溺れて、武士の意地も尽きて、主従16人もろともに波間に溺れ死んでしまいました。
松嶋が、本道を行かずに、小道を行って水死したのには訳があります。
そのころ桐生又兵衛という者がいました。
松嶋淡路守に言うことがあって、7、8 騎で待ってました。
松嶋の水死を聞くと、早速離れました。
松嶋は、この待ち伏せを恐れたのではありません。
使者の役目の妨げになると思って小道に避けたのです。
その後松嶋の一門は、又兵衛を松嶋淡路守の敵だとしてねらったのももっともです。
松嶋水死の事は、その日に午前8時前後、早馬で新田にしらせようとしたけれども、水が引きません。
しかたなく、桐生の城代に知らせたのです。

 



陰暦10月に、渡良瀬川が大増水したのです
梅雨時や雪解け水でもなさそうです。
台風の季節も去ってます。
黒川を責める前に、黒川衆の言い分を聞こうとして派遣された松嶋淡路守は、水死します
彼は、本来の道を避けたのです。
桐生又兵衛の待ち伏せを避けたのです



桐生又兵衛については、一件だけ資料があります。
ただ、同一人物かどうかわかりません

桐生にも青蓮寺というお寺があります。


由良成重が、新田からもっていったという時宗の寺です

ここに頸継地蔵(くびつぎじぞう)というお地蔵様があります。

継地蔵の御朱印です




桐生又兵衛という人が、落人狩りの網を逃れて無事に首がつながったという故事にちなんで、頸継地蔵というようになったということです

 

 

初稿  2020.01.08  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.06

 

 



(  松嶋御使者の事、同水死、付けたり、桐生待ち伏せの事    終  )

 

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さかまく水に討ち入りたり(松嶋御使者の事、同水死、付けたり、桐生待ち伏せの事・その 1)

2024-12-04 20:09:45 | 桐生老談記の世界

今日は人間の家族がみんなお出かけでした。

暖かくなりそうな予報だったので、ひめちゃんとタバサねーちゃんはお外のお部屋でお留守番です。

人間家族は、薄暗くなるまで帰ってきませんでした

ひめちゃんたちは、ちょっとみなしご気分で寂しかったかな。

 

2019年11月の黒柴家族です。

下旬になると、霜の降りる朝もありました。

でも、昼間は末っ子たちは、七海ママのちい散歩(そこらまでの散歩)に付き合ってました

獅子くん、ママと暮らせて良かったね

 

 

 

『桐生老談記』、新しい章です。
松嶋御使者の事、同水死、付けたり、桐生待ち伏せの事・その 1

去る程に、松嶋淡路守大切の使者を承り、十月二日早旦に宿所を立ちける時、夜明け雨降り、渡良瀬川洪水に及びけり

然るに松嶋心懸かりの事ありて、本道を延引して穴原佐下橋というより押し渡らんとせし所に、岸をひたせる洪水にて、越すべきようなし。

この川にさいぎられ大事の使者の時刻をたがえる事、家の名失いけん、是非越えんと思い、定めて日頃水練の達者なれば、此の分の洪水恐るにたらずとて、友の者にも下知していう、「弱気者は馬の尾に取り付き、鐙(あぶみ)にすがって続けや続け」と声をかけ、さかまく水に討ち入りたり。

総じてこの川の深山の雲をわきたぎって落とすこと、さながら三羽の矢の如し。



あらすじです。

そうしているうちに、松嶋淡路守は大切な使者の役を仰せつかって、10月2日早朝に宿所をたちました。

折しも夜明け前に雨が降って、渡良瀬川は洪水になりました。
松嶋は、何かこころに引っかかることがあって、本道を外れて、穴原佐下橋から、渡良瀬川を渡ろうとしました。
渡良瀬川は増水していてとても渡れそうにありません。
でも、松嶋はここで渡らなければ、家名に傷が付くから、絶対越えようと思いました。
日頃から、泳ぎは得意だったので、このくらいの洪水は恐れるに足らずとして、お供の者にも言いました。
「自信のない者は、馬のシッポや鐙に捕まって、我に続けや続け」と声をかけて、逆巻く水に乗り込んだのです。
この時の渡良瀬川の流れは、三本の矢の様に早かったのです。



陰暦10月2日は11月初旬とすると、渡良瀬川が大洪水になるだろうか
台風の季節は過ぎていそうだし、雪解け水という事でもなさそうだし
設定の時期として、不自然です

「穴原佐下橋(あなはらさげはし)から、渡良瀬川を渡ろうとしました。」とあるけど、穴原佐下橋ってどこだ


いろいろ検索すると、あの馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)のあるのが、穴原薬師堂でした

付近に穴原の渡し場跡がります

やっと辿り着いた穴原の舟渡し場跡

 

初稿  2020.01.15  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.04

 

 

(つづく)

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ひとまづ御使者を以て彼らが心底聞こしめしそうらえ(国重公立腹して久留川責め軍評定の事・その 3)

2024-12-03 18:33:03 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは堀之内を北に出て、高縄の磨崖仏裏から回り込みました。

高縄の磨崖仏は、上野国山上の浄土信仰の大切な記憶だと思いますけど、参道に障害物が置かれています。

久しぶりに、やっと寄りました。

靴を履いていないひめちゃんの足を気をつけながら。

新里の人は忘れてしまったのかな

更に哀しきかな、桐生市指定重要文化財・高縄の摩崖仏

上野国山上は、すごいパワースポットだったと言うことを

 

2021年12月の黒柴家族です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんで、よく岩神沼に行っていたようです。

岩神様は高縄の磨崖仏のことですね

楽しかったね

 

 

 

国重公立腹して久留川責め軍評定の事・その 3 

 

国重公聞こしめして、「武田の威勢に恐れて、彼らにわがままいたされしこと心外なり。その上この方里見兄弟をも加担等々致すこと、これ以て不届き至極なり。軍勢を催し、追い散らし申すべし。」と仰せられけるに、

大沢下総承りて曰く。「彼らが心底も聞き届けず、理不尽に押し寄せ申さること、世上の聞こえあざけりもはづかしく事どもなり。これ当家の武威の不足のところなり。ひとまづ御使者を以て、彼らが心底聞こしめしそうらえ。」ともうしければ、

一座の人々同心して、松嶋淡路守は隣郷といい、勇知才覚者なれば御使者と定められけり。

 


あらすじです。

(黒川衆が武田に接近している事を聞いて)国重公は
「武田の威勢を恐れて、彼ら黒川衆に我が侭をされたことは腹立たしく残念である。
その上里見兄弟にも加担したことは、不届き至極である。
軍勢を派遣して追い散らしてしまおう。」とおっしゃった。
それを聞いて、大沢下総守は言いました。
「彼らの本心も聞かないで、理不尽に押し寄せると、世間でとやかくいわれます。
これでは当家(由良家)の武家としての威光に傷がつきます。
ひとまず使者を派遣して、彼ら(黒川衆)の本心を聞いて見るべきです。」と言った。
一座の人々は、そうだそうだとなりました。
そして松嶋淡路守は、隣の郷の領主で勇気も才覚もあるので、御使者に決まりました。

 



松嶋淡路守は、隣の郷の領主と言ってます。
でも、実はりっぱな黒川衆です
桐生氏を早くに見限り、由良氏に接近していたともいいます。
小中(こなか)城主だったとも言われているようです
そして、小中城はわたらせ渓谷鉄道・小中駅の西方の高台にあったそうです

え、そのあたりは行ったことあります
鳥海神社・大蒼院を含む一帯が小中城です


鳥海神社です。



鳥海神社から見下ろした大蒼院です。

大蒼院は、山上の常広寺の実質的開山・常広院殿(明巌鑑察大和尚)が天文年間に開いたお寺です。

常広院殿(明巌鑑察大和尚)は、黒川衆とどんなつながりがあったのでしょう

そして、どうして山上にやってきたのでしょう?

松嶋淡路守は小中城主だったんですか

 

初稿  2020.01.12

改稿  2024.12.03


( 国重公立腹して久留川責め軍評定の事  終 )

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