黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

城代なる尊空、膝立て直し(小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その 2)

2025-01-10 13:57:28 | 桐生老談記の世界

晴れたけれど、寒い寒い朝です。

ひめちゃんは、赤柴の超老犬・プーちゃんの前を通ります。

ここ数日プーちゃんは姿を見せません。

今朝はどうかな?

朝日をあびて、遊ぼうぜ

ひめちゃんは、完全シカトです。

ごめんね

 

確かその昔。プーちゃんちのお父さんの名前も、日本犬保存会のメンバーの中にありました。

そして、今年も年会費納入の時期になりました。

なぜか一気に年会費が5000円から8000円に値上げです

もう血統書なんて申請したりしないけれど、ひめが天寿を全うするまでは会員でいようとした、おかあたんの決意が揺らいでいます

 

2020年1月の黒柴家族です。

この正月は、滝沢不動まで行ってます。

ご開帳はありませんでしたけど、滝沢不動まで行ってます

滝沢不動のご開帳は、5月5日です。

 

 

 

小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その 2

城代なる尊空、膝立て直し、「口惜しのはかりごとかな。渋川数代の家を一戦にも及ばず、城を敵に渡すこと、主君の恥辱、家臣の外けん。なんぞ此の合戦は、さる永禄七年の夏謙信公佐野より帰り給う節、萩田が手先に向かって、当家の一旗狼藉の振る舞いなし。萩田が遺恨を晴らさん為、寄せ来たると覚えたり。いくさは小勢多勢にかかわらず、殊に主君の留守なれば、一人励み戦うべし。幸い当所氏神は五大尊明王諸魔王降伏の本尊なり。」敵退舞の法を修し勢巻くむね、鶏足寺に使者を立てければ、時に住僧浄幽法師神殿に向かって勝利の祈りをなす。


あらすじです。

城代の石井尊空は、膝を立て直して言いました。
「口惜しい事をいうな。
歴史ある渋川家が一戦も交えずに敵に城を明け渡したら、それこそ主君の恥、家臣も同様であろう。
そもそも今回の合戦の原因は、さる永禄7年の夏謙信公が佐野からお帰りになるとき、萩田の家来に狼藉をしたからと言うが、、当家の者は何も狼藉はしていない。
萩田は遺恨を晴らすために押し寄せるのだろう。
戦は、軍勢の多少に、関係ない。
今は殊に主君がお留守だから、一人一人がしっかり戦うべきだ。
幸い当所の氏神は五大尊明王諸魔王降伏の本尊である。」
そして、鶏足寺に敵退散の法をするように使者を出します。
住職の浄幽法師は、神殿で勝利を祈ります。



開城に傾きかけていたその場の雰囲気が一変します。
当家の者は狼藉をしていないのに、萩田はどんな遺恨があるのでしょう?
ただ、こんなに時間のゆとりはないでしょう。

小俣城南の鶏足寺には、3年前の春に行ってきました。


鶏足寺の和尚さんが、常広寺の竜骨を見に来て、竜骨伝記を記録しておいてくれたのが、竜骨伝記の復元につながったのです。
常広寺の現住職もご一緒に数人で、ご挨拶にいきました

あの後ろの山が小俣城です

 

 

初稿  2020.03.16  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.13

 

(つづく)

 

 

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小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その1

2025-01-07 20:34:34 | 桐生老談記の世界

2020年1月の黒柴家族です。

獅子丸は実家に帰って半年、実家の生活をエンジョイしています

ひめちゃんは、獅子丸と基本的には一緒にお散歩していたようです。

でも、時折一人散歩で大好きなケンくんちに寄ってます

 

 


小俣合戦の事、付けたり、敵敗軍の事・その1

去る程に、此の事小俣に聞こえければ、城中大いに驚き、早鐘を撞いて軍兵を集めける。

集まる人々は、石井尊空、同安芸守、同丹後守、籾山出雲守、大川土佐守、久保沢豊前守、和泉豊前守、桑子左近、渡り弥五郎、神田平六、松本喜太郎、窪田金八郎、片岡金五郎、山本雅楽之介を先として、宗徒人々十四人、上下百五十人なり。

籾山出雲が曰く、「此の分の城にて殊に無勢と云う、籠城を致し大軍を引き請け、数代の家人を失なわんこと、これ軍師知略の少しき所なり。一向城を開き君の御帰国の後、新田、足利の勢をかり請け、城を取り返す事然るべし。」と申しける時に、


あらすじです。

膳の城から小俣を攻めてくるということが知らされて、小俣城中は大騒ぎになった。
早鐘を撞いて軍兵を集めた。
集まった人々は、石井尊空、同安芸守、同丹後守、籾山出雲守、大川土佐守、久保沢豊前守、和泉豊前守、桑子左近、渡り弥五郎、神田平六、松本喜太郎、窪田金八郎、片岡金五郎、山本雅楽之介の主だった家臣14人、上下合わせて150人であった。
籾山出雲が言った。
「今は折悪しく、戦える人がいない。籠城して大軍と戦い、譜代の家臣を失うとしたら、それは軍師の知略が乏しいという事だ。いったん開城し主君の帰国後に、新田・足利の軍勢の応援を受けて、城を取り返すのが良いでしょう。」といったところ、・・・・・・



膳城から敵が襲来の報に、籾山出雲守は、いったん城を明け渡そうと主張します

膳城から小俣城まで、車だと1時間強かな?

わりと近いのです。


馬でも、そのくらいかな?

でも、馬は休ませなければいけないのでもう少しかかるでしょう。


江戸末期、小俣城のすぐ南にある鶏足寺の和尚さんは、膳城のすぐ東の常広寺にやって来ました
常広寺にある竜骨を見に来たのです


そして、竜骨の由来を書いた「竜骨伝記」書き写したのです
鶏足寺文書の中に、ちゃんと残しておいてくれたのです

 

 

初稿  2020.03.14  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.07

 

(つづく)

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野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 2

2025-01-04 20:20:23 | 桐生老談記の世界

明けましてお目出度うございます

本年もよろしくお願いします

 

2020年1月の黒柴家族です

 

 

 

 

則ち萩田備後守私用ありて上州膳の城に来たり。

この席に小俣の遺恨晴らすべき由を、膳城主備中守宗次に語り蹴れば、宗次血気の若者なれば、萩田備後守に勧めて曰く、幸いこの度は相模守小田原へ参上いたし、若侍はみな御共なれば、老若男女の類いばかりにて、悉く無勢なり。忽ちに取りかかり候べし。某も一方承まわらんと云いければ、備後おおいに喜び、手勢八十騎に膳の家人百三十騎、都合二百騎にて、頃は天正十一年四月二十日早旦に、膳の城を打ち立ち、小俣に押し寄せける。さて、笠懸野北の橋にて勢を合わせ、備中守は大手、備後守は搦手にこそ向かいたり。



あらすじです。
萩田備後守は、私用があって、上州膳の城に来ました。
備後守は小俣の遺恨を晴らしたいと、膳の城主・備中守宗次に語った。
宗次は、血気さかんな若者だったので、「今がチャンスです。渋川相模守は小田原に行っていて、残っているのは役に立たない老人や女子どもです。早速やってしまいましょう。私も助太刀します。」と、勧めました。
備後守はおおいに喜んで、手勢八十騎に膳の家人百三十騎、合計二百騎で、天正11年4月20日朝早くに、膳の城を出発して、小俣に向かった。
そして笠懸野の北の橋で軍勢を分けて、備中守は大手、備後守は搦手にそ向かいました。


萩田備後守は、上杉の武将でした。
私用で、佐野から膳まで80騎も連れて行くなどという事は、考えられません
小俣の遺恨は永禄7年(1564)、今は天正11年(1583)、20年も前の出来事です
小俣の遺恨の内容は語られていません
それも家来同士の争いのようです。
主人が20年も恨み続けるって、いったい何があったのでしょう。


膳備中守宗次は、いとも簡単に「やっちゃいましょう。城主が小田原に行っていて留守だから。」なんて言ってます
戦国の領主としては、いかがなものでしょうか?

先代因幡守の時も、妹夫婦の仇討ちとして桐生氏と戦い敗れています。
先代膳因幡守が、諏訪の森に集結し馬煙を立てて出撃したのは、天文13年(1544)7月15日朝でした。

山上城の北、蕨沢川の向こうに諏訪神社があります。


諏訪の森がどこだかはっきりわかりませんけれど、まあこの近所と考えて良いでしょう

助太刀の膳備中守さんが大手、主役の萩田備後守が搦手とは、主客転倒です

 

 

初稿  2020.03.12  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.04

 



( 野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事   終 )

 

 

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小田原へ出仕せられけるに(野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 1)

2024-12-30 20:46:49 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、この冬は昼間も室内犬をしています。

なんとしても、お外のサークルに帰りません

タバサねーちゃんは16歳半で、この冬は室内犬です。

まあ、ひめちゃんだけお外というわけにもいかず、完全室内犬です

さらにファンヒーターの前に陣取ります

そういえば、小次郎パパもちょっと危険でした。

ひめちゃんはもっと危険、ひめの丸焼きができてしまいそうです

子供達が小さい頃は、ストーブガードがありました。

何処にやったっけ?

本日、ホームセンターでストーブガードを購入してきました。

動物は火を恐れるというはずだけど

 

2019年9月の黒柴家族です

獅子丸は実家に帰って3ヶ月です

七海ママ・小次郎パパも、まだ健在でした

 

 


野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 1


去る程に、その頃小俣の城主は足利式部大輔義国公より三十二代の末胤、渋川相模守義勝公と申しけるは、近年北条の旗下になり、武命に随う故、頃は天正十一年癸未(みずのとひつじ、1583年)四月六日、小田原へ出仕せられけるに

さる永禄七年(1564年)の夏、越後の上杉謙信関東に下向、佐野に入り給えば、

桐生城主加勢の為に家老萩田備後守、桐生に遣わす時、

大前村松田川という所にて、小俣の家人萩田が手の者に対して狼藉の振る舞い、

萩田当座に遺恨をはらすべき所に、大事の加勢の門出なれば、後日に遺恨を達すべくむね、則ち小俣家人大沢伊八という者に断り捨て帰りけり。


あらすじです。

その頃の小俣の城主は足利式部大輔義国の32代の末裔、渋川相模守義勝であった。
近年北条の旗下になり、武命に随って、天正11年癸未(1583年)4月6日、小田原へ出仕した。
さる永禄7年(1564年)の夏、越後の上杉謙信関東に下向し、佐野に入って、桐生城主加勢の為に家老萩田備後守を桐生に遣わした。
その時大前村松田川という所で、小俣の家来が萩田の家来に対して乱暴な振る舞いがあった。
萩田はすぐに遺恨をはらすべき所だったが、、大事の加勢の門出であったので、「後日に遺恨をはらす」と、小俣の家来・大沢伊八という者に言い置いて帰った。

 



膳備中守が討ち死にする、小俣合戦の発端です。
小俣領主渋川相模守義勝は、天正11年(1583年)4月6日、小田原へ出仕しました。
その留守を狙って、攻撃が始まるのですけれど、地元の菱(群馬県桐生市菱町)カルタと日付が違います



元亀3年(1572)です
11年も違います

 



あの右手の山が、かつて小俣城があったところです。
今はゴルフ場になっていて入れません

ゴルフ場の現在のオーナーは、あのシャトレーゼだそうです。

 

ことの発端は、さる永禄7年(1564年)の夏、約20年前の出来事です

 

初稿  2020.03.10

改稿  2024.12.30

 

 

(つづく)

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松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事

2024-12-28 19:52:44 | 桐生老談記の世界

寒い寒い朝です

ひめちゃんは1人散歩で岩神沼まで行ってきました。

沼には薄氷は張っています

凍っていない芦原の付近には、カモさん達の姿がありました

でも、足音が聞こえたのでしょうか

あっという間にみんな飛び去っていきました。

 

2020年7月は、沼田城や沼田榛名神社など沼田方面に行ったようです

その頃の黒柴家族です。

ひめちゃんは小次郎パパとお散歩しています

タバサねーちゃんも元気に獅子丸とお散歩しています

 

 



松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事

去る程に、松嶋式部少輔此の事を、真田弾正方へ早速に申し談ぜん為、同六日に発足して沼田にへ帰着して、先年の例を以て桐生の旗下になるべき由、理(ことわり)を尽くして申し渡しければ、

真田答えていう。去る永禄九年(丙寅、1566)に桐生城主当家にかしづきしより、この方今新田の支配たりというとも、桐生の武役は今当家に勤め来たり。去るによって、向後各々桐生の旗下というとも、なんぞ当家に別心あるべからず。

ねんごろに申されけるによって、式部は暇乞い久留川に帰り、上下喜悦の思いをなし、子孫繁栄したり。



あらすじです。


(黒川衆は人質をだして新田に和睦しました。)
松嶋式部少輔は、沼田の真田弾正へ、さっそくそのことを報告にいきました。
黒川衆は桐生の領主が由良氏になっても今まで通りに桐生の参下でいる理由を説明しました。
真田弾正は、「永禄九年に桐生城主桐生氏が真田の配下になってから、黒川衆はずーっと真田に武役を務めてきた。桐生では新田に従うといっても、真田に逆らうつもりなどあるはずがない。」と理解してくれました。
式部はお別れを言って黒川に帰りました。
黒川衆はみんな大喜びで子孫は繁栄したということです。



 

こんなことは、ありえないでしょう
黒川衆は、由良と真田、両方に従っていて、真田が理解を示すなんて
それに、真田氏の沼田攻略は、天正8年(1580)です
今は天正6年(1578)10月6日です
つい先頃まで、黒川衆は上杉謙信後押しのある里見兄弟を支援していたのです。

どうも作者は、武田びいき、真田びいきのところがあります
なんとかつながろうとして、支離滅裂になっている感あります

松嶋さんも何人もでてきて、混乱しそうです

 

沼田へのルートは、黒川鄕(旧勢多郡黒保根村)からだと、赤城山の北を巡る県道62号線(沼田大間々線)でしょう。

深沢城の少し先、下田沢で国道122号線に別れを告げて左折すると一本道のようです。

かつて途中まで行きましたけど、不安になって引き返しました

 

2020年7月、赤城山の南から西を行く、国道353号線&国道17号線メインのルートで沼田城に初登城しました

天空の城・沼田城跡

 

 

初稿  2020.03.08  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.28

 


( 松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事 終 )


追伸
これから小俣合戦のことで、また膳さんが登場します



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