黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

阿保比丘尼の面影を求めて・その4(円仁開基の金鑽大師)

2022-10-03 15:35:28 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、諏訪神社の前を南に下ります。

ひめちゃんは、普段見かけない物体に気づきました

ワンワン、何者じゃ

 

稲刈りがすんで、稲わらのロールが作られたのです

牛さんの御飯かな?

 

タバサねーちゃんは、反応しません

 

夏の名残の花々の向こうに赤城山です。

山上城跡公園の南側を通って帰りました。

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

阿保比丘尼の面影を求めての旅、金鑚神社(かなさなじんじゃ)の隣、金鑚大師にも寄って行きます

 

道沿いには大きな華麗な赤門があります。

ちょっと駐車できないので、駐車場の表示まで進みます。

駐車場からは、黒門から参拝です。

金鑚大師の説明板があります。

 

元三大師と呼ばれるこの寺は、正式には金鑚山一乗院大光普照寺という天台宗別格本山の名刹であり、古くは聖徳太子の開創であり舒明天皇の勅願寺であったと伝える。平安時代の初期、天台宗祖最澄の弟子で、下野国(栃木県)出身の慈覚大師円仁の中興によって本尊に十一面観音が安置され、その別名によって寺号がつけられたのである。

 

阿保氏の文字はありませんね

でも、御嶽城主の文字があります。

阿保氏は御嶽城主の時代もありましたね

慈覚大師円仁の中興なのですか

 

後で御朱印と一緒にいただいたパンフレットによれば、

平安時代初期仁明天皇の御代(833~850)慈覚大師円仁が入山、本尊に十一面観音を安置して天台宗に所属せしめ、金鑚山一乗院大光普照寺と名付けて開基となられた。

 

黒門をくぐると、左に赤門が見えます。

 

りっぱな本堂です。

本堂前に水屋です。

何気なく、上を見上げると、龍がいます

金網で覆われてしまったので、よく見えませんけど、実はかなり凝った水屋なのです

 

 

さて、本堂に向かいます。

 

本堂にも、華麗な彫刻がいっぱいです

双龍もいる華麗な彫刻です

屋根の上にも、これらを守っている獅子かな?

 

達磨さんもいます

1月3日に、だるま市があるそうです。

 

「御朱印は本堂で」の案内があります。

本堂内は撮影禁止でした。

手書きでいただいた御朱印です

一緒にいただいたパンフレットによれば、

なお明治維新の神仏分離令により、当山の奥の院金鑚大明神は武蔵二ノ宮金鑚神社として分立し、多宝塔も神社の所有となった。しかし、当山は厄除け元三大師の寺として法燈栄えて揺るぎなく、遠近の善男善女の信仰を集めている関東屈指の霊場として、また児玉三十三霊場三十三番札所ともなっている。

金鑚神社は、神仏分離令によって切り離したのですね。

阿保氏寄進の多宝塔は、元は金鑚大師の多宝塔だったのです

 

さて、ひめちゃんたちが待ってるから帰りましょう

 

おや、向こうの高台に目立つ建物があります。

たぶん鐘楼とおもいますけど、ちょっと足を延ばします。

途中には、ひっそりと薬師堂、素敵な薬師様がおいででした

その隣は、大きな大きなお地蔵様です

やっぱり鐘楼堂です。

 

さて、自宅をナビに入れて帰ります。

ほぼ国道462号線を北上して帰りました

ちょっぴり、『念仏往生伝』阿保比丘の面影に触れて、大満足の神川紀行でした

 

 

阿保比丘尼の往生譚を確認です。

テキストは「日本思想体系7 往生伝 法華験記」(1974 岩波書店)です。

 

第卅七  武蔵国阿保比丘尼
多年念仏者也。至臨終期自云。浄土蓮花既雨下。又云。我前成瑠璃地。如人間水。又光明来照。諸人聞音楽。

 

(非常にマイナーな古典なので、現代語訳等はありません。漢字を眺めての、超意訳になります。)

阿保比丘には、長い間念仏一筋に生きてきました。

そして、臨終の時に言いました。

「浄土の蓮の花は、雨のように降り注いでいます。私の前はもう青い宝石の世界です。蓮池の水は人のようです。」

光明がやって来て、あたりを照らします。

人々は、音楽を聞きました。

 

光明がやって来て、人々が音楽を聞いたことは、彼女が極楽往生した証明になるようです

 

 

 

 

 

コメント
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