ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を北に出ます。
早々と用をすませた二人は、ご褒美の催促です
岩神沼に寄って帰ります。
逆さ赤城がきれいに映ってます
沼面は静かで誰もいません。
ひめちゃんちに、遅咲きのジャーマンアイリスが咲き始めました
複雑な色合いで豪華な方々です
来月、郷右衛門忌(常広寺開基本橋院殿の命日)で、行仙上人の話をミニ講演会でします。
昨年6月訪問していますけど、また行仙上人の弟子の記憶のある虎薬師を訪問しておきましょう
5月5日、行仙上人が居たかも知れない雷電山(桐生市新里町)の脇を通って、県道291号線に出ます。
ひたすら南下、「あずまはし」で早川を渡ります
少し下ると、薬師如来堂(田部井の虎薬師)です。
堂宇の前の石造物、一番奥にこの薬師堂の由来があります。
縁もゆかりもないこの薬師堂ですけど、昨年不思議な事が起こりました。
ストリートビューで旧東村(佐波郡)を見ていたら、なんと一番奥の由来記が映り、なんとなんと「新里村窪井」「行仙上人」「弟子妙禅」の文字が目に飛び込んできました
早速、訪問となりました
そして、また今回訪問となりました
今年は、がんばって全文活字にしてみました。
虎薬師縁起
本尊ハ大匡王佛ト言ひ十にノ請願ヲ発して衆生ノ疾患ヲ救ヒ来世ノ安堵ト明日ノ安生ヲ満足セシム灼ナ如来デアル此ノ堂宇発祥ノ由来ハ新里村窪井ニ日本三聖ト言ハレタ念仏僧行仙ガ隠棲シ其ノ門下二百聖ノ輩出ヲ見テ此ノ村ニ其ノ一人妙禅が嵯峨ノ寮ニ居タ田部井氏ガ滅亡シテ其ノ持仏堂デアッタ此ノ堂宇ガ庶民信仰ノ道場トナリ其ノ後平岩氏ノ治領トナリ寛文九年早川デ東西ニ分カレル。新屋敷ニヨリ村ノ南北端ニ上下ノ寮ノ設置ヲ見タ嵯峨ノ寮ノ住僧慶玄ガ移リ住ンダ西福寺モ平塚道上観音カラ現在地ニ移リ寛文十念十月落慶供養ガ執行サレタ山門前ニ設置サレタ六地尊ハ慶玄門下ノ念仏衆デアル人々ノ寄進デアル亦コノ村デ使用サレテイル葬儀用ノ什器ノ鐘ト双盤ハ薬師堂ノモノデアル例祭ハ春秋ノ彼岸中日信徒ガ参集シテ天道念仏ト言ハレ無病息災五穀豊穣ヲ祈ツタ亦タ更新待チト言ハレタ道教ニヨル庚申信仰ガコノ寮デ行ハレタ境内ニアル塔ハ六十年トスル庚申ノ年十一月ニ立テラレタモノデアル道教デハ六十日暦を使用シ太陽ヲ天帝ト見タテ庚申ノ夜此ノ堂ニ集つて信仰シタ亦村ノ会合ニモ利用サレ旅僧ヤ念仏行者ノ宿泊所デモアッタ昭和十七年法令ニ依リ西福寺ノ境外堂宇トナリ名義上ハ西福寺ノモノトナッタガ独特ナ民間信仰ノ堂場デアッタ昭和三十年無住トナッタ堂宇ノ腐朽甚ダシク取毀・・・本尊ハ西福寺ニ移シタガ明治以来住僧モ無ク相次イデコノ堂宇ニ住シテ堂宇護持ニ当タッテ来タ有縁ノ人々ノ発願発起ニ依リ亦区内外ノ有志ノ信者ノ参賛同ヲ得テ西野田弥八市ガ代表者トナッテ此のノ堂宇ノ建立ヲ見ルニ至ツタ此ノ堂宇ノ再現ハ民間信仰ノデアリ村ノ重要文化財デモアル
この薬師堂発祥由来は新里村窪井に居た行仙上人の弟子・妙禅がいた寮であったとあります
弟子の名前も、初めてです。
弟子が200人もいたともあります。
その後時代が下っても、庶民のための信仰の道場として存在し続けたのですね
庵主のいる堂宇だったのですね。
昭和30年に無住となって朽ち果てるまで、存在し続けたのです。
昭和55年に、復元となったのですね。
さて薬師様に参拝です。
こんにちは、お久しぶりです
合掌
お祭は、今年も行われているかな?
ご本尊様の姿が拝めるのは素晴らしいことです
さようなら、また来ます
道の角に、【ここは「ワンちゃんのトイレではありません】ですって
去年はあったっけ
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