黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

比丘尼青蓮の面影を訪ねて・その2(岩松山青蓮寺)

2022-10-12 20:32:13 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

今日、タバサねーちゃんは、みどり市笠懸町吹上地区のひまわり畑に行ってきました。

ミツバチがいます。

妻沼小島のひまわり畑では、ほとんど見かけませんでした。

あたり一面のひまわりです。

イベントチラシでは、「20万本のひまわり」といってます。

楽しゅうございました

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

比丘尼青蓮の記憶を訪ねた記事は、続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ (goo.ne.jp)にあります。

ちょっと遠いカテゴリー(?)になりますけど、ご容赦下さいませ

 

 

9月15日、わが故郷・新田(旧新田郡尾島町)に出かけました。

青蓮寺にも、立ち寄ります。

古いながらも、しっかりした案内板です。

ただ国道354号線は格下げになって、県道142号線です。

地元のはずだけど、まだ行ったことのない所があります

そのうちに行かなくては

 

懐かしい風景です

でも、いちだんと古めかしくなってます。

 

日限地蔵尊霊場ですか

後ろに見えるあの方でしょうか?

合掌

 

懐かしい楼門です

昔、尾島中学校は、この寺のすぐ西にありました

和尚さんも、国語の先生として勤務されていました

仁王様いちだんと劣化が進んでいるようです

 

天井画がある

天女がいる

 

楼門の裏の方が劣化がウチバなようです。

 

さて、本堂に参拝です。

合掌

 

日限地蔵尊の説明もあります。

多くの人が訪れた時期もあったのです。

 

本堂の奥は庫裏かな?

自転車があります

以前来た時も、自転車でした。

奥から老人が出てきます。

「こんにちは

「何かようですか?」

「ここは御朱印でますか?」

「御朱印はやらないんだ。」

「そうですか。あのう、ここに昔K先生という方が居ませんでしたか?」

 

反応はなく、彼は草むしりを始めました。

あのときの先生は、ご存命ならば90過ぎかな?

和尚さんはちょっと若いかな

でも、自転車しか乗らない世代のようだし

 

「お邪魔しました。」

やむなく退却です

 

『念仏往生伝』に記された比丘尼青蓮、彼女は上野国のどこで生まれたか書いてありません。

武蔵国の何処に嫁いだかもわかりません。

でもここは武蔵国に近い上野国新田荘の青蓮寺です。

 

 

『念仏往生伝』 第卅八話 比丘尼青蓮 (びくにしょうれん)の確認です。
□は欠字です。

第卅八  比丘尼青蓮
□者上野住人也。後付夫縁。住武蔵国 。世□之隙。常読誦法花経。既満一千部了。夫夭亡後出家。其後五十九歳。自此以後。依善知識勧。一向称名。至七十三齢。夜見光明如日輪。自南方来照。其頂属疑□処。空有声□云。摂取光明。不簡所処云々。其後堅信心。然□不語外人。七十七歳之夏。五月之比始。語舎弟僧并子息尼。従同八月廿八日。老病□催。至九月七日。所悩平癒。粗得尋常。沐浴潔斎。語知識云。仏既来迎。僧問。仏在何方乎。病人指々空。又戌時四方有光明云々。或□指取数。或合掌□額念仏。至八日□時。自起居。取五色糸唱名号。毎声作礼。即十念十礼也。其後念仏三十返。如眠気止。于時建長三年九月八日。

あらすじです。

やがて比丘尼青蓮となる彼女は、上野国の住人でした。
結婚して武蔵国に住みました。

ひまを見付けては、法花経(法華経)を、声に出して読んでいました。
もうそれは一千部にもなりました。

夫が若くして亡くなり、その後出家しました。

その後59歳で、これから以降は善知識のすすめにより、ひたすら称名(しょうみょう)を続けました。

念仏一筋に生きてきた青蓮さんは、73歳になりました。

73歳のある日、光明が太陽のように、南方からやって来て彼女を照らしました。
その頂に何か付いていて、何だろうと思っていると、空から声がしました。
光明を摂取せよ、所に依って区別するな。(全身で受け取れの意?)
彼女はその後ますます信心に努め、この事は人には語りませんでした。

そして4年後、彼女は77歳になります。

比丘尼青蓮は、77歳の夏、初めてこの事を弟の僧と娘の尼に語りました。

そして8月28日から病気になりました。

そして9月7日です。

病気はほぼ良くなりました。
沐浴潔斎し、善知識(導いてくれる僧)に言いました。
「仏が、已に私を迎えに来ています。」
僧は聞きました。
「仏は、どちらにいらっしゃいますか?」
病人は空を指さしました。
また、戌の時(午後8時頃)四方に光明が来ていると指さし、合掌し念仏を唱えました。

8日の□時、自ら起き出して、五色の糸を取り、仏の名を唱え、唱えるたびに仏に礼をしました。
つまり、死に臨んでの念仏10回と礼10回です。
その後も念仏30回唱えました。
眠るように、彼女の息は止まりました。
時に、建長3年(1251)年9月8日の事でした。

 


青蓮は、仏教では大事なアイテムのようです。
けれども、実際に青い蓮の花は、存在しないようです。
インドで10本まとめて、寺院の参拝客に売っている蓮の花(つぼみ)は、どうも違う蓮のようです。
何度か、蓮の花を売っている光景を目にしたはずですけど、写真がありません(´・_・`)
日本のお寺も多くが、蓮池があったり、大きな鉢で蓮を栽培しています。

阿弥陀仏の手から渡した五色の糸を自分の手に握って死んでいくのは、現存『念仏往生伝』では、ここだけです
このシーンは、永井路子の小説『この世をば』に、藤原道長の臨終シーンにも描かれていました

比丘尼青蓮の臨終について詳しく書いてあるのに、彼女の素性については、簡単な記述に留まってます。
もしかしたら、行仙上人の身近に居た人かもしれません





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比丘尼青蓮の面影を訪ねて(延命山地蔵院金剛寺)

2022-10-07 23:20:43 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

タバサねーちゃんは、2008年の7月に生まれました。

一緒に生まれたきょうだいにの血統書名には、みんな海の文字が入っています

タバサねーちゃん、0歳のアーカイブです

 

12月、まだ七海ママと一緒に同じサークルで暮らしていました。

2009年の夏、もうじき1歳です。

ママとののこねーちゃんと、よくミニドッグランで遊びました。

ミニドッグランの中央にあるガゼボにての3名です。

実はガゼボで遊ぶと言うより、ガゼボの下を掘っていました

おかげで、ガゼボは傾いてしまいました

まさにデッキングドッグです

 

ついでに、この頃の小次郎パパです。

パパも若かった。

 

 

 

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比丘尼青蓮の記憶を訪ねた記事は、続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ (goo.ne.jp)にあります。

ちょっと遠いカテゴリー(?)になりますけど、ご容赦下さいませ

 

9月13日、利根川の北側の埼玉県熊谷市 妻沼小島のヒマワリ畑に行きました。

ヒマワリに癒やされて、牛沢橋を渡って県道142号線に出ます。

 

岩松(太田市岩松町)の金剛寺に寄ります。

ここには、妙蓮(みょうれん)の板碑があったというのです

太田市HPには、

この板碑が出土した岩松町の延命山地蔵院金剛寺は、岩松直國の開基と伝えられています。
 比丘尼妙蓮は、岩松直國への譲状(弘安5年・1282)に見られる藤原土用王のことで、岩松氏の祖、岩松時兼の孫であると思われます。沙弥円仏は系譜は不明ですが、妙蓮の夫と推測されています。
 銘文は、達筆な行書で書かれており、円仏・妙蓮夫妻が、生前極楽往生を願って、彼岸の中日に建立したものです。円仏板碑は、高さ147.5cm、幅34cm、妙蓮板碑は、高さ145cm、幅34cmで、2基とも同じ形をしています。石材は緑泥片岩(秩父青石)を使用しており、武蔵型板碑と称されているものです。
 2基の板碑には、蓮華座上の月輪内に阿弥陀如来をあらわす主尊種子の「キリーク」が、また、脇侍種子として、下左方に観音菩薩をあらわす「サ」、右方に勢至菩薩をあらわす「サク」が力強く彫りこまれています。さらに脇侍種子の下には、銘文が刻まれています。種子、蓮華座、銘文等の刻法は、鎌倉時代の特長をよく表しており、形も大きく、石造美術としても優秀であるとともに、史籍の欠を補う貴重な資料です

 

上野国山上の行仙上人の『念仏往生伝』には、比丘尼青蓮(しょうれん)の往生が記されています。

第卅八  比丘尼青蓮
□者上野住人也。後付夫縁。住武蔵国 。世□之隙。常読誦法花経。既満一千部了。夫夭亡後出家。其後五十九歳。自此以後。依善知識勧。一向称名。至七十三齢。夜見光明如日輪。自南方来照。其頂属疑□処。空有声□云。摂取光明。不簡所処云々。其後堅信心。然□不語外人。七十七歳之夏。五月之比始。語舎弟僧并子息尼。従同八月廿八日。老病□催。至九月七日。所悩平癒。粗得尋常。沐浴潔斎。語知識云。仏既来迎。僧問。仏在何方乎。病人指々空。又戌時四方有光明云々。或□指取数。或合掌□額念仏。至八日□時。自起居。取五色糸唱名号。毎声作礼。即十念十礼也。其後念仏三十返。如眠気止。于時建長三年九月八日。

 

ヒロイン比丘尼青蓮は、上野で生まれ、後に嫁いで武蔵国の住人になりました。

上野のどこで生まれたか書いてありません。

武蔵野どこに住んだかも、かいてありません。

青蓮を名乗った彼女は、どこで生まれたのでしょう?

普通に考えると、武蔵に近い上野、新田荘が思い浮かびます

 

ここは、武蔵に近い武蔵に近い上野の新田荘です

青蓮、妙蓮、何となく繋がりそう

時代的には、念仏往生伝より少し後になります。

でも、念仏往生を願った人の記憶です

 

 

県道沿いの「南無延命子安○○」の文字塔から入ります。

大分前に来た事があります。

その時はたいした感動もありませんでした。

 

左手に御堂があります。

御堂の左に、説明板が見えます。

板碑は新田荘歴史資料館に保存されていると言うことです。

近いうちに行ってみましょう。

 

子安地蔵尊かな?

厨子の中にはどなたかおいでのようです。

合掌

 

隣には、子安地蔵尊のお姿があります。

合掌

 

向こうの建物が、金剛寺の本堂と言うことでしょうか?

金剛の文字がやっと見えます。

合掌

 

なんとなく比丘尼青蓮の記憶に逢えたような気分です

 

(つづく)

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阿保比丘尼の面影を求めて・その4(円仁開基の金鑽大師)

2022-10-03 15:35:28 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、諏訪神社の前を南に下ります。

ひめちゃんは、普段見かけない物体に気づきました

ワンワン、何者じゃ

 

稲刈りがすんで、稲わらのロールが作られたのです

牛さんの御飯かな?

 

タバサねーちゃんは、反応しません

 

夏の名残の花々の向こうに赤城山です。

山上城跡公園の南側を通って帰りました。

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

阿保比丘尼の面影を求めての旅、金鑚神社(かなさなじんじゃ)の隣、金鑚大師にも寄って行きます

 

道沿いには大きな華麗な赤門があります。

ちょっと駐車できないので、駐車場の表示まで進みます。

駐車場からは、黒門から参拝です。

金鑚大師の説明板があります。

 

元三大師と呼ばれるこの寺は、正式には金鑚山一乗院大光普照寺という天台宗別格本山の名刹であり、古くは聖徳太子の開創であり舒明天皇の勅願寺であったと伝える。平安時代の初期、天台宗祖最澄の弟子で、下野国(栃木県)出身の慈覚大師円仁の中興によって本尊に十一面観音が安置され、その別名によって寺号がつけられたのである。

 

阿保氏の文字はありませんね

でも、御嶽城主の文字があります。

阿保氏は御嶽城主の時代もありましたね

慈覚大師円仁の中興なのですか

 

後で御朱印と一緒にいただいたパンフレットによれば、

平安時代初期仁明天皇の御代(833~850)慈覚大師円仁が入山、本尊に十一面観音を安置して天台宗に所属せしめ、金鑚山一乗院大光普照寺と名付けて開基となられた。

 

黒門をくぐると、左に赤門が見えます。

 

りっぱな本堂です。

本堂前に水屋です。

何気なく、上を見上げると、龍がいます

金網で覆われてしまったので、よく見えませんけど、実はかなり凝った水屋なのです

 

 

さて、本堂に向かいます。

 

本堂にも、華麗な彫刻がいっぱいです

双龍もいる華麗な彫刻です

屋根の上にも、これらを守っている獅子かな?

 

達磨さんもいます

1月3日に、だるま市があるそうです。

 

「御朱印は本堂で」の案内があります。

本堂内は撮影禁止でした。

手書きでいただいた御朱印です

一緒にいただいたパンフレットによれば、

なお明治維新の神仏分離令により、当山の奥の院金鑚大明神は武蔵二ノ宮金鑚神社として分立し、多宝塔も神社の所有となった。しかし、当山は厄除け元三大師の寺として法燈栄えて揺るぎなく、遠近の善男善女の信仰を集めている関東屈指の霊場として、また児玉三十三霊場三十三番札所ともなっている。

金鑚神社は、神仏分離令によって切り離したのですね。

阿保氏寄進の多宝塔は、元は金鑚大師の多宝塔だったのです

 

さて、ひめちゃんたちが待ってるから帰りましょう

 

おや、向こうの高台に目立つ建物があります。

たぶん鐘楼とおもいますけど、ちょっと足を延ばします。

途中には、ひっそりと薬師堂、素敵な薬師様がおいででした

その隣は、大きな大きなお地蔵様です

やっぱり鐘楼堂です。

 

さて、自宅をナビに入れて帰ります。

ほぼ国道462号線を北上して帰りました

ちょっぴり、『念仏往生伝』阿保比丘の面影に触れて、大満足の神川紀行でした

 

 

阿保比丘尼の往生譚を確認です。

テキストは「日本思想体系7 往生伝 法華験記」(1974 岩波書店)です。

 

第卅七  武蔵国阿保比丘尼
多年念仏者也。至臨終期自云。浄土蓮花既雨下。又云。我前成瑠璃地。如人間水。又光明来照。諸人聞音楽。

 

(非常にマイナーな古典なので、現代語訳等はありません。漢字を眺めての、超意訳になります。)

阿保比丘には、長い間念仏一筋に生きてきました。

そして、臨終の時に言いました。

「浄土の蓮の花は、雨のように降り注いでいます。私の前はもう青い宝石の世界です。蓮池の水は人のようです。」

光明がやって来て、あたりを照らします。

人々は、音楽を聞きました。

 

光明がやって来て、人々が音楽を聞いたことは、彼女が極楽往生した証明になるようです

 

 

 

 

 

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