昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

俳論・句論

2017-08-12 10:47:12 | 俳句

ご承知のようにこの『昼のガスパール・オカブ日記』では、毎エントリーごとに俳句を詠みこんでいる。
しかし本エントリーのタイトルにも関わらず、オカブが作る俳句(駄句?)には、背景となる俳句作法の方法論がない。
ネットで俳句の歴史や過去・現在の俳人の繋がり、「流派」的なものについてはなんとか一通り読んだものの、それが俳句を作るのにどのように反映されるのかはとんと分からない。
オカブはもちろん俳人に師事したこともなければ、私淑した俳人もいない。
ただただ無手勝流を貫くだけである。
しかし、ホームページの『昼のガスパール』のオカブ日記で2007年の秋から作句を続けて、それなりに心がけていることはできてきた。
まずは、淡々とした叙景、叙事に徹し、感情過多にならないことである。叙景と言っても、自然の景はそれなりの風趣や感情をすでに伴っているので、さらにそれに輪をかけて詠嘆することもないだろうと思う。
従って、切れ字もできれば使わないようにしている。切れ字を使うとどうしても詠嘆調になる。できるだけ淡々と詠みたい。
そして季語は何よりも大切にしたいと思っている。俳句の五七五のうち季語が八割がたのことを語るとオカブは思っている。だから季語は慎重に選ぶし、他の言葉との取り合わせには最も気を遣う。季語は単にその季節の風物という以上に、叙述性が高いので、季語一つで、すでに多くのことを語っている。例えば、先に詠んだ「原爆忌」という季語は、単に単語という以上に、悲劇、平和、生命、戦争、政治、その他様々な事象に関する叙述をその漢字三文字に込めている非常に叙述性の高い季語である。従って、この季語を使って句を詠んだときは、できるだけ季語の述べるところを、他の詠唱で引き継ぐ形にすることを心掛けた。俳句は季節感の詠唱と言ってもよい。その季節感を象徴・表現するのが季語でありすでに季語一語で嘆詠ができている。多くを語らず、単語の与えるイメージを前面に出して詠もうと考えている。
さらには、オカブは題材として坦々とした日常を取り上げたいと思っている。中村汀女は余りにも身近な題材を詠んだので「台所の俳人」と呼ばれたそうだが、まさに身近な目の当たりの題材を取り上げてこそ俳句の神髄だと思う。ちなみに中村汀女は「台所の俳人」どころか、男も及ばない堂々稜々とした作風の作家だとオカブは思っている。
この日記で最初のうちは、エントリーの内容に沿った題材を俳句でも取り上げようと心掛けていたのだが、最近は気にしていない。
あとは、あまりストーリー性のあるもの、絢爛豪華なものを作らないようにと心がけている。
また、あまり自我を出さず、没個性の、詩で語るならば「高踏派」の境地で詠みたいと思う。
差しあたって、儲からない仕事の後追いの作業くらいしかやることがないので、駄句を作りながらそこそこ俳句の道に精進していこうと思う。

秋めくや遠き虫の音庭の草   素閑





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