学者が、時事問題について政治的発言をしたり、誰か政治家を批評するのは、その個人の自由だと思う。
政治学者然り。
しかし「政治学」という学問と、「時事評論」という分野は全く異なるフィールドだ。
特に、政治学は、マックス・ヴェーバーが「ヴェルト・フライハイト」を唱えて以来、時の価値判断と一定の距離を保つというか、かなりの緊張関係をもって接することが要求されるようになった。
「政治」学者が、時事評論的な発言をする場合は、その学問的立場や、業績、そして採っている政治学理論などを全て脱ぎ捨てて行うべきだ。
もちろん、そうした人は、その学問的経験則から、時局を論じたり、個人を批判することは免れ得ない。
しかしながら、前述したように、モデルではなく現実の社会を評する前提として、学問的な要素は相容れないばかりではなく、学問による恣意的扇動になる。
学問とは、客観的事実から、普遍的、一般的な理論、法則を導き出すものである。
ただし、社会科学においては、その「客観的事実」に再現性があるかは疑問とするところではあるが・・・
だから時局と政治学という学問には、一定の緊張関係が必要なのだ。
学問的良心とは、そういうものである
そのことが分かっていない、馬鹿な「自称」政治学者が多すぎる。
楢林鷽の啼けるに枝の問ふ 素閑
飼い鷽を愛でし幼き想ひ出や 素閑
鷽なけり村の一日始まりぬ 素閑
種撒くや鷽の一声せかされて 素閑
工房で椀を焼き上げ鷽の声 素閑
草の芽や鷽がもたらす繚乱と 素閑
鷽のこへ旅立ちの日の里の果て 素閑
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