飛石から西に向かって50mほどで大きな寺院が見えてきます。瑞光寺です。
黄色っぽい鐘楼門が目にとまるのですぐに分かります。
瑞光寺は、由利地方に寺が三か寺しかなかった一つで、本地区では最も古い寺です。
瑞光寺とゆかりのある「万箇捋軍の墓」は、寺の後ろの山端にあります。
奈良時代にの聖武天皇(在位724から749)の時にここに瑞光寺院が置かれたそうです。
その頃、隋から朝廷に「万筒将軍」を使節として日本に向かわせました。奇硯(決して乾かない硯)と美玉とを朝廷に献上させるためですところが途中、暴風雨にあい、由理の「有耶無耶の関」あたりに漂着してしましました。
その時、将軍がもってきた貢ぎ物(献上品)から光が発せられ、また紫雲(紫のけむり)もたなびいて、その雲がみな瑞光寺にとどまるので、将軍は瑞光寺に導かれたそうです。
しかし、将軍は長い旅によるつかれと急病のために、あえなく瑞光寺院で亡くなってしまいました。その死にあたり、ときの瑞光寺住職の呉竹翁を呼んで、この貢物をすみやかに朝廷に納めてほしいと、言い残し息をひきとったということです。呉竹翁はこの遺言によって献上品をもって都にのぼり、淡海公(藤原不比等)に事情を話して朝廷に献上するよう取り計らいをおねがいしました。淡海公は大いに喜んで貢物を光明皇后に奉献しました。皇后も大変喜びこの品を興福寺にお納めになったと言います。
このことで呉竹翁は淡海公から厚いおもてなしをうけたのち、帰国して、ただちにこのこと墓前に報告し、万箇将軍塚を立てたのです。これが現在境内にある万個将軍の墓あると言われています。
瑞光寺の山号は、このときの紫雲のたなびきにより、紫雲山と言っていましたが、近世にいたって紫を心に通わして慈雲山と名前を変えて今に至っています。享保18年(1733)5月17日、同寺で将軍の千年忌を行っています。
また、大同年中(806〜810)空海上人がここに杖を引き、万個将軍塚のそばに仮建を屋ててしばらく足をとどめたといわれ、また嘉祥年中(848〜851)には、慈覚大師もおとずれ逗留すること千日余とあり、大師の作といわれる「地蔵と布袋」の木造が寺宝として寺に秘蔵されていたそうです。
しかし、その後、戦火に遭い「寺宝等」は消失してしまいます。
その後天文年中より元和初年まで瑞光寺は、蒲田舘主淵名氏の祈願所となりました。この寺の初めの宗旨は真言といい、天台ともいわれたそうですが、その後加賀大乗寺に属し、名僧として名の高かった明峯素哲和尚を招いて、瑞光寺の開山としたそうです。その年号は明応元年(1492)と、寺の記録にあるそうです。
蒲田館は、鮎川をはさんだ向かいがわの小高い丘の上にあります。
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