新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

自由から更なる自由への道

2024-12-29 12:17:05 | 自由論
今回は以下の「問い」「答え」から始めよう♪♪♪



問い?「人類に自由はあるか?」
答え!「自分の思い通りにできる<自由はある>!」
でも…「自分の思い通りの結果を必ず得る事ができる(とは限らないから)<自由はない>!」


そもそも、このように「自由を考察」するのに…
自分の思い通りに思考した自由(概念・意味)から考察するのではなく…
辞書での「自由の意味」確認から始めている事自体が「不自由」であろう。


人が、目的もなく、その結果も考えず…
その時々の自分の思い通りに生き続ける自由はある。



でも…その人に個人的な目的が無くても、人類という生命体の存在理由・目的はある。
それは、誕生した生命体の「生き続ける運命・宿命・使命・天命」であろう!

人類には、自殺・自死する自由がある。
それは、他の生命体にはないモノであろう。
そもそも…人類以外の生命体には「自分の思い」はない!
あるのは「その種の本能の働き・命令」!


自死・自殺の自由がある人類が、
生命体として強く思うべき事は~
とにもかくにも、生き続ける事。

生存の為に必要なモノを必死に求め続ける行為・行動…
最大限・最長限に生き続ける為の自由な行為・行動の発揮であろう。


そう~人類は、その命が続く限り、可能な限り最大限に、自由に生き続ける為に、
必死にその為の自由な選択肢を追い求め続けているのだろう。


人には、その時々の自分勝手な その思い通りに 「生きる事ができる自由」はある。
しかし、その自由な行動様式の選択結果が、「生命体としての死という不自由」ともなり得る可能性がある。


ならば…人・人類は、
このような不自由の可能性ある自由の中の不自由削除の為に…
どのような努力を続けきているのだろう。


ここでは、上記のような、自由か不自由・不自由な自由の克服為に…以下のよう考えた

他の人類・生命体の存続の為の自己抹殺という思いからの「自死」の場合。
「自分が死にたい」思いの実行が、も他の生命体の命の存続になり得る場合。…

という思考・思惟…で解決可能なのだろう…


私の「自由の考察」場合は、
自分から辞書を調べた思いから、調べた考察なら「自由」。
他人からの強制で、辞書を調べ、調べたなら「不自由」。


結論から言えば、初めに「自分の思いが(できる自由)」あり、「思い通りの結果ではない(不自由)」がある。
ならば、ある結果を不自由と感じたなら、初めの「自分の思いを変更」すれば「自由」


例えば、ある実験・実践の結果が、思って・求めているモノとは違っていたら…
それは「思い通りの結果が得られず不自由」。
しかし、「失敗は成功の母」という結果と捉えたなら、
「成功の為の過程的な結果」が得られた。

または、自分の思い通りではない(不自由)では、なくても、
それは自分の思い・結果への道の過程・道のり(未自由)、ともなり得る(考えられる・捉えられる)。



人類にとっての、自由も不自由は、全ては「その自分の思い方」次第でろう。
初めに「自分の思い」があり、そこから「自由・不自由」が始まる。



ブログ当初に感じていた
私の「窮屈いっぱいの現代社会」…「不自由」感…は
全て私の「自分の思い」を変える事で、不自由から自由へ変換可能なモノ…
ただ、その結果、その思い変換の結果のストレスで寿命を縮めたなら「不自由」なのだろうが…


ならば…どうする?!
それこそが人類の「学問・哲学・宗教」の存在理由であろう~


コメント (7)
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「人生の終点」の話

2024-12-28 16:42:59 | 自由論
「人生の終点」の話


人生の終点は、全ての人間みな同じ「死亡」である。
誰かが言っていた!
「どうせ…死ぬなら毎日楽しく生きよう!」
「どうせ…いつか死ぬなら、今死んでも同じ!」
「人間、大金を稼いで大金持ちになっても…あの世には持って行けない!」
「人間、貧乏人も億万長者のゴールはみな同じ死だね!


人は何故お金を欲しがるのか?
それは、金があれば欲しいモノを変える豊かな生活が出来るから~?!
欲しいモノが、手に入る事で生活が豊かになる?!
欲しいのモノが手に入らない生活は豊かではない?!


原始人の生活は、豊かではなかった?!
人は何故に「豊かに生きる」事を求めるの?
そもそも…「豊かな生活」とは、どんな生活・どんな日々の過ごし方?

確かに「日々の生活」=空気を吸って、食糧を食べ、運動・休息して生きて行く事は生活事実。
では、「豊かな生活」とは、どんなモノ?
美味しい空気を吸って、美味しい食糧を食べ、楽しい運動をして、いつでもどこでも疲れたら休息して…そんな事実かな?

「美味しい」から豊か?
「楽しい」から、豊か?
「好きな時に休息できる」から豊か?

好きな事・食べたい物・やりたい事をして・やりたくない事をしない生活を求めて…
人は「お金」を求めい稼ぐのだろうか?

確かに「お金の為に働く」人々もいる…
しかし「お金は、働いた結果で、働く事に意味がある!」という人もいる。
野球選手の大谷は、金に為・金を稼ぐに野球選手をしているのだろうか?
否!彼は、彼の人生目標の達成為に野球選手を続けている…
彼は、普通の人々が、普通の生活では、一生かかっても使い切れない程「大金」稼いだ…ようである。
そんな大金持でも…
何回も身体的な怪我・故障…で手術を繰り返しても…
それでも~彼は「野球選手」を続けているのは…何故?



自分の思い達成を望んで、その為にお金を欲する者。
自分の思い描いたの実現の結果、「お金」が入って来る者。
お金なんか…どうでもいいし、持っていないのに…
自分の望んだ豊かな生活が出来ている者。


人は言う~
「お金があれば幸せ!」
「お金が無いけど幸せ!」
「お金があれば幸せが買える!」
「幸せは金が買うモノではなく、自分で創るモノ!」


では…「幸せ」って何?

その人が「幸せ」と感じた時が、その人の「幸せ」。

その「幸せ」に~
「自分の思い通りにできる」・「思い通りの結果が得られる」がある、
と私は思っている。

辞書によると~自由とは「他から制限されたり、邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできる事。」
そう~この「思い通りにできる事」が、自由だと辞書に書かれている。


ただ…
「自分の思い通りにできた!」から、と言って、
「自分の思い描いていた結果」が、得られるとは限らない。

そう~「~する・できた自由」に満足できても、
その「自由の成果」に満足できるとは限らない。

自分の思い通りにできる事が「幸せ」でも…
その自由の成果が「不幸」と言う事も起これ得る…だろう。


ここから始まる・始める自由びとの「自由な物語」かな?


その方向性は、以下を一読してね♪♪♪




http://satoritaihito.seesaa.net/
2024年12月: (旧)悟りを求めて…


2024年12月27日
ここから・今日からの始まり!


この自由びとブログ「悟りを求めて…」の始まりは以下~

開設の挨拶
2011-09-08 22:33:26

開設の挨拶
本「悟りを求めて」は、9月7日に開始予定であった。 そう、「善は急げ」と立ち上げたはいいが…論説が…まだであった。 そう、私は「悟りを求めて」、本ブログを開設する事にした、のである。 何故なら、新たな行動による体験は、今までに無かっただろう感情を呼び起こし、 その感情は今までになかった、新鮮な行動を誘発する!?かもしれない!からである。 そう、その感情、その行動から悟りへの道が拓かれるかも?!であるから…。 さあ~みなさんも、新たな一歩を踏み出..


そして…その思いは以下~

窮屈いっぱいの現代社会で。
自由に生きて行く為の悟りを求めて…
今この瞬間を共に生きてみませんか!?…

であったが…

そもそも「自由とは?」「悟りとは?」…
そして「自由と悟りり関係は?」…
それらの考察が足りないように今!感じ始めている…


自由について思考する為には「自由を識る事」
言語表現としての「自由」を識る為には、この言語の意味を知る・分かる・理解する事。

このように言語表現としての「自由」を知って分かって理解して…
初めて次に進める~それは現実の自由を考察して、そこから自由を識る事。

自由を求めているのに…その始まりが~
「自由を識る」事から!とは~如何に人間が不自由な存在かの証明であろう…



では「自由・じゆう」の意味とは、
例解新国語辞典[第四版]によると~
「他から制限されたり、邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできる事。」

この「自由」とは、「モノ」ではなく「コト」と言えよう。

その「現実の自由」には、初めに「自分の思い」があり、
次に、その思い通りに「出来る・する言動・行為」がある。


ただ…問題はこの辞書に書かれている「自由の意味」から考察を始める時点で…
既に自分の思いではない「自由の意味確認がある事」=不自由という事になる。
辞書に書かれているような「自由の意味・思い」は私にはなかった。
なのに…自由を求めてのブログ開設とは…
自己の強い思いなき自由は、自由とは言えない
自分に「自由という認識なき」行為・言動を「自由とは言えない」。


この事は、
自由についての自由な思考は不可能!という事。
自由とは、社会的に「自由」と思われる「コト」
自分自身の「思う・思っている自由」は、(辞書に書かれている)社会的な自由とは限らない。



コメント (2)
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アキレスは何故…?

2024-12-20 16:52:15 | …絶対矛盾…
アキレスは何故…?


ゼノンのアキレスは何故にカメに勝てないのか?
それは端的には、「アキレスの目的意識が間違っている」から~

そもそも、この「アキレスとカメの競争」の場合の勝利とは、先に「ゴール」する事。
従って、目指すは「ゴール」であり、ゴールへ一直線走行が正解…

なのに…ゼノンのアキレスは「カメに追い付く事を目標」にして必死に走っている…
そう~「追い越す」でも「追い抜く」でもなく「追い付く」である…
しかも…余りにも必死だった…のか?!
アキレスは自分の歩調・一歩の間・歩幅…の変化に気付けずに必死の走行~。



もっとも…仮に~
「アキレスはゴールを知らない」とか…
「アキレスは近視で、遠くのゴールが見えない!」とか…
「カメはゴールを知っている」とか…
「遠視のカメにはゴールが見える」とか…

そんな理由があるなら…また別の話になるが…
そのような場合ならば、アキレスは、カメを追い越す時に、
カメを抱きかかえ、道案内にして一緒にゴールを目指せばいい~

そして…ゴール寸前にカメを横の抱え、胸からゴールすれば…アキレスの勝利!



師範が御著書で説いている「絶対矛盾」とは~(時代の)哲学は完成とともに…未完になり得るという事。
その理由は、世界・哲学が自然・社会・精神…の変化運動の論理化・理論化・学問化であるから…
それらが、全体的に学問・哲学として完成した時点での、
現実の世界・自然・社会・精神は…もう新たな変化・運動が始まっている。


我々人類は、変化・運動している現実・世界の中で、その変化・運動性の法則化をしている。
それと、同時に人類は、その法則化した法則に基づいて現実・世界を改造・改革している…

それは、人類は人為的に現実・世界を変えながら、その法則性を法則化している。
現実・世界の法則を把握した時点の「現実・世界」と、
その法則化した法則駆使して現実・世界に働き掛けた後の「現実・世界」とでは…少々異なっている

その哲学完成前の過去の「現実・世界」に、更なる人為的(自然的とは)異質の変化・運動が生じている…のだろう。


従って…哲学の完成した時点では、
現実・世界では、既に新たな変化・運動の生々生成が始まっている…のだろう。


人類の哲学・学問は、どんなに頑張っても…現実・世界との一致は不可能!
しかし…そこで弁証法の技化がなされれば、
完成した哲学に弁証法を適用して、「新たな現実・世界の予想・推論」は可能!







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<運動と休息>・<疲れと回復>の話

2024-12-13 14:24:44 | 「わたし事・学」


<運動と休息>・<疲れと回復>の話
「運動と疲れ」・「労働と疲労」の話


師範が曰く~
動物の運動継続の結果は「疲れ」。
人間の労働継続の結果は、「疲労」。


両者の違いは~
「本能的運動」をする動物。
「目的・認識・意識的な運動・行動・行為」をする人間。

動物の疲れは、あ本能的な運動を長く継続した結果…
人間の疲労は、思惟・思考…考え続けての労働を長く続けた結果…

まあ~この辺は適当に~


問題は~
「いのちの歴史の物語」の中の進化の過程での
「単細胞体」の「運動と休息」とは?


そう~疲れるのは運動を長く継続したから、
でも…「走って」いて疲れたら「歩けば」少し元気になる・回復する…
それは、何故…「異なった運動に変えたから…?」


では…そもそも~
「運動とは?」・「疲れとは?」という「疑問を抱いた!」

その時、二天さんの「いのちの歴史の物語」的に思惟する…を想い出し…
では、進化の過程での「単細胞体段階」の生命体の「運動とは?」と問い掛けた~


神経も肉もも筋肉も…ない、あるの「細胞液と細胞膜」…
そんな、単細胞体の「運動・原動力は~どこから来るの?」
その時の「疲れの回復力・方法は?」


運動は、昼間の太陽光エネルギーに熱せられた岩石の高低温度変化による「細胞液の温度上昇・下降」結果の膨張運動。
休息は、夜に月光エネルギーによる比較的に低く安定した岩石温度変化による「細胞液の状態」


温度変化による運動・回復と言えよう~


そうだから…人間は睡眠中は、体温が下がる。
運動中は、体温が上がる…体温が上がる事で運動が活性化する。
だから、「ウォーミングアップ」で、ゆっくり体温を上げる。


細胞液の温度調整が直接自分では、できない「単細胞体」
でも…目的意識的に殆どの運動が可能な人間は、運動によって自己の体温の変化・調整が可能…

そう考えると…睡眠中に動くと「体温が上がる」だから「疲労回復を邪魔になる」。
もぞもぞ…運動は、冷えすぎた体温を少し上げる事が可能。

特に、年寄は、睡眠中体温が冷えすぎて眠れない事がある。
子供は、体温が熱すぎて、眠れない事がある。


「運動・休息の源基形態」が~
「太陽光・月光・エネルギーの岩石の温度変化」とは、私的には大発見!!!

「いのちの歴史も物語」様様様を思い出させてくれた二天様様様~ですかね♪♪♪


そうそう…単細胞体は、直接太陽光での細胞液の温度上昇はてきない…
岩石の表面温度の上昇があって…初めて「細胞液の温度は上昇可能」








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昨日の話

2024-12-13 13:25:30 | 「わたし事・学」

昨日の話



昨日は家内の誕生日、昨日で還暦を迎えていた筈の家内の誕生日…
そんな昨日に、以下の記事と同じような事を思っていた私だった事に、
今朝のパソコンへの「goo blog」知らせに気付き見たら発見できた。

ただ…昨日は、以下の記事のような「不思議感」はなく、
私的意識の無い・私のいない世界、真っ暗な私世界があるだろう。
そんな世界がずっと続いていくのだろう…
それが不思議ではなく当たり前に思えた。
過去の私が消え、今の私の存在がある。
小さい頃の息子は消え、今の一人前の社会人の息子が存在している。

過去の皇帝は、一人で行くのが寂しくて…家来を皆殺しで道連れ…
時代は変わり、人ではなく泥人形を道連れに「逝った」のだろう…
家内はひとりで逝き、私もきっとひとり逝くのだろう…

否…私は、私の世界を道連れに、私の世界と共に、旅立って逝くのだろう…

でも…その前に、この世界でやれる事・やりたい事・やるべき事…
そんな事々を可能な限り、悔いの残らないように、やり遂げるべきであろう…
でも…しかし…私・自由びとは、何をやりたい!やり遂げたい!のだろう???






「この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!」
2023-12-11 15:49:27 | ♬~我が悟りへの道程~♬
この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!


昨日書いていたなら「この不思議感は何なのだろうか?」
でも…今日書いているので「あの不思議感は何だったのだろう?」になるが…


この・あの不思議感とは、私の感情であり、それは「ある事」の妄想・幻想・夢想から生じた感情。

妄想とは、現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事。
幻想とは、現実に存在しないものや起こり得ない現象などを心に思い描く事。
無想とは、現実からかけはなれた場面を思い描く事。


感情は頭脳活動であり、そこには認識・像が伴なうモノ。
今回の「突然・再び」・「再びの突然」の想起から生じた「この・あの不思議感」の認識像とは?

私は、何年前からであろうか…その原因・理由も不明だか゛…
この・あの「想い」が、突然に生じてくる。
日頃は全く意識に上らない「あの・この認識」の正体とは?


初めて思った?考えた?時には、
特に今回のような「不思議感」はなかった。

その妄想・幻想・夢想とは~

私の死後の、この世界の様子である。
私はいない!でも、この世界はある。

私の、今この瞬間のような思い・考え・認識…がない!消えている筈…
それでも、そこに私がいる。

この私がいる・私の認識があるのに、そこに私はいない!

そこに私はいない筈なのに、私の認識がその世界を想像できるのに…
その世界に私はいない!

何もない筈!私がいない!でも世界はある。



以前、映画「僕だけがいない街」を観たが…私のこの認識は、それ以前から時々起こった。
それは、ある時・ある瞬間に突然に生じてくる~

この「私の存在していない世界」での私の認識が、非常に「ふ・し・ぎ」!
特に、今回は、その不思議感が以前に増して強烈であった!

それも、昨日までの話であり、今日には薄らいでいるが…
これは、「感情の量質変化」であろうか…

当初めは、強烈な感情でも…その継続・時間がある程度伸びると、
その感情に慣れてしまい…当初の強烈さが減少していく。
この事は、「家内の死」に対する私の「強烈な悲しみ」感情にも言えている…



そう~数日前の私は理由もないのに何故か「ウキウキ」♪♪♪
でも、一昨日の私は「シズシズ」で何故か少々の落ち込み…
それでも、今の私は、訳も分からずに「ウキウキ」。


その理由は、今の私には薄ぼんやりと、みえてきている…
それは、私が、私自身の感情・変化を捉えようとしているから…
感情は、生活している瞬間・瞬間に変化している筈なのに…
それなのに…多くの人は、そんな自分の些細な感情変化を殆ど気にする事はない…のだろう。
私の潜在的感情は、何気ない出来事・他人の態度に過敏に呼応されている、ようだから…



今ここに生きている私が、私の死後の私の存在しない世界を想像する事は矛盾であろう。
そんな想像を妄想・幻想・夢想レベルで、やり続けた結果が、あの・この「ふ・し・ぎ」感であろう。


ありえない想像なのに、幻想・夢想なのに、私は、それを妄想だと認識し続けてきた結果であろう…
それとも、想像し続けた結果の量質転化化の結果が、想像・幻想・夢想が、
妄想(現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事)に量質転化したのだろうか…


まあ~こんな他愛のない妄想なら、私・他人へ害を及ぼす事のない話だから…問題ないだろうが…


この今の私・今のような認識が、永遠にない世界は、想像不能の筈なのに…
その想像を繰り返し・妄想を繰り返している私は、ある無意味精神異常者なのかも…


ただ…この妄想に囚われて日々を妄想的に生活したら、真の精神異常者だろう…
幸いに…私は非常に忘れっぽい者なので…
数日経つと妄想内容は覚えていても、その感情は忘れてしまう。
ただ「ふ・し・ぎ」だった言葉は覚えているだろうが…
この不思議感は、忘れているのだろう…


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