新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「偶然」の話

2024-08-28 11:52:04 | 「わたし事・学」
「偶然」の話


「偶然」には、偶然の一致、偶然の出会い、偶然の遭遇…色々とありえるが…

先日、息子が、スマフォを視ながら言った
「今、『君の名は…』を見ているんだ!…知っている?」

私~「それってアニメでしょう?!」

少したって、息子が「凄いビックリ!今日って、『君の名は』の劇場公開日だって…!」

私~「数十年も生きていれば、とんでもなく驚くような偶然の一致はあるモノさ!」

息子…「何かつまらない!そんな風に言ったら楽しくない…」

私は思った~『私の経験的な事実に間違いはない…それでも、息子の言い分にも一理ある。』

そんな思いを抱いたら以下のような体験を想い出し、
そこで…以下のような話をした~

昔…就職して初めて、好意を持った女性と誕生日の話をしていた時、
突然に中学時代に好きだった女子の事・その子の誕生日を思い出し、
「それが目の前の女性と同じだ」と根拠のない確信を抱いて、
「誕生日って10月11日だよね!」と言ったら、「大当たり」だった。

また、家内とは、私の誕生日に付き合い始めて、そして私の誕生日に死別している。

こんな・こんな私の偶然の出会い・偶然の一致が、過去にあったよ!と話した。

初めの私の言葉―
「人生数十年も生きていれば、ビックリするようなとんでもない偶然はあり得るよ!」~
これはこれで、間違いない・「事実的な論理」表現であろう…

しかし、こんな言い方で息子の偶然の一致の驚きを一括りしたのでは…
息子の感情が「つまらない・面白くない」になりえるのは当然であろう。


息子の「驚き・ビックリ…」の感情に共感し得るには、
私も、私自身の、今までの人生での「驚くような偶然を一致」を語るベキであろう。

息子の言葉を論理的に「人生での偶然」と捉え、それを言語化するか?
または、息子の言葉を事実の表現と捉え、自分も同様な体験をを想い出し、
それを言語化するか?


偶然の一致を「当然・当たり前」的な感情で片付けるのではなく…
そんな当然の偶然の一致を「楽しめる感情」で表現・伝える事が、
他人との楽しいひと時の会話になり得るのだろう。

因みに、息子がよく、「その場の雰囲気…「のり」…だね♪♪♪」と言っている。
この「その場の…のり…」は、今の私には、あまりないモノであろう。


確かに、数十年の人生の中での一回の偶然の一致、
確率なら数万分の一であっても、人生経験数が万回であれば、その一回の出会いは普通の事。


ただし…
その偶然の一回が、60歳で偶然か?20歳での偶然か?では、
その驚き具合に大きな相違が…


若い息子の偶然と高齢者の私の偶然では…
その感情・感動の相違は甚だしいモノがありえる。


それは、児童・生徒・学生の「偶然」にも言い得るモノなのだろう。



最後に偶然ではないが…ビックリ事であるが…
それは、人生67年目での初体験!


6月20日に、愛柴犬マロンに右手の親指と中指を爪の上から咬まれた。
その結果、爪の下が真っ赤に内出血し、それが段々どす黒くなった。
私は、そのどす黒い血豆・血の広がり?爪先まで上がってくると思っていたが…
その内、その血の色、がだんだん薄くなり、爪の感覚に変化があり…

なんと数時前に、表面の爪が剥がれ落ちた!下には新しい爪ができていた。
落ちる前の、爪の表面の変色、爪感覚の違和感…で、予想していたが…

小学生の頃に、突風で突然閉まった非常口の扉に数本の指が挟まれ血豆ができた事はあった。
でも、その血豆は、段々上に上がって…爪が剥がれ落ちてはいない…

だから、今回のような、血が自然に消えて、爪が剥がれ落ちる事は初体験である。

偶然の連続が、必然にあり得る。
まぐれ当たりも、習練・修練の結果、必然になり得るモノ~













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「ある・ない」の話

2024-08-25 11:50:51 | 「わたし事・学」
「ある・ない」の話


以前…以下のような事が、何かに書かれていた。
「ある」とは、「ある事」がある。
「ない」とは、「ない事」がある。

上記のような事を、今は以下のように捉えている。

リンゴが、ある。
テーブルの上にリンゴが、ある。
先ほど何もなかったテーブルの上に、今はリンゴが、ある。
先ほど、テーブルの上になかったリンゴの果実が、今はある。


「テーブルの上にリンゴがある」という事実がある。
「先ほど何もなかったテーブルの上に今はリンゴがある」という事実がある。
「先ほど、テーブルの上になかったリンゴの果実が今はある」という事実がある。


「テーブルの上にリンごがない」という事実がある。
「先ほどテーブルの上にあったリンゴがない」という事実がある。


別言するなら~
「リンゴがある!」という認識がある。
「リンゴがない!」という認識がある。

「そのような事実がある!」という認識がある。
「そのような事実はない!」という認識がある。


「ある」は、「あるがまま」にある…状態がある。
「ない」は、「ないがまま」にある…状態がある。
でも…「ないがままに」にない…が状態がない…これは変だ。


そもそも「ある・ない」とは言語。
言語とは、人間の認識の表現。


「ある」とは、あるモノゴトが「ある」と認識しての表現。
当然に「ない」とは、あるモノゴトが「ない」と認識しての表現。

どちらも「認識」はある。
認識がないなら「ある・ない」言語表現は不能。


「ある」は、あるモノゴトのストレートな認識。
「ない」とは、その「モノゴトのある状態」を認識した上で、それが「ない状態の認識」が必要。

そのモノゴトの「ある状態とは何か?」を知らず「ない状態を知る事は不可能」。

全てのモノゴトは、「ある」から始まり「ない」へ変化していく。

初めに、その「モノゴトない状態」あっても、それを「ない」とは認識できない。


初めから、何もないテーブルの上に、突然に「リンごがない!」という認識はあり得ない。
元々、そこにリンゴがある事を知っていたから、「リンゴがない!」という認識があり得る。


「何も知らない」状態とは、「知らない事」さえ知らない状態であり、
「知らない!」という表現は、そこに「何かを知らない」・「知らない何かがある」事。


授業中の先生の言葉~

先生―「みなさん!分かりましか?」
児童―「は~い!分かりました!」


児童の中には、「先生が、国語で色々と、計算式の説明してくれた!」という事は分かっても…
その具体的な意味内容が分からない。
先生が説明してくれた事実は分かっても…眼前の「算数計算はできない!」


あるモノゴトがある事・状態は、比較的容易に分かっても、
そのモノゴトがない事・状態を分かる事は難しい。

「〇〇は出来る!」の分かるは容易でも、
「??は出来ない!」を分かる事は至難。
やるべき事が「??」では、出来る・出来ないは不明。




その理由は、
そのモノゴト・そのモノがある状態の正しい認識がない限り、
そのモノゴト・そのモノがない状態の正確な認識は不能。


「有知の自覚がない!」限り「無知の自覚なし!」

智慧がある状態の正しい認識があるから、智慧の無い状態の正しい認識が可能。











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~「我思う故に我あり」の話~

2024-08-17 16:22:36 | 「わたし事・学」
~「我思う故に我あり」の話~


以下はネットから引用である。

~~~~転写開始~~~

「我思う、故に我あり」の意味とは?【死ぬほどわかりやすく解説】 (uteimatsu.com)


「我思う、故に我あり」の意味とは?【死ぬほどわかりやすく解説】
  投稿日:2019年12月31日 更新日:2020年5月16日


こんにちは、素人哲学者 ミルマノ(@_mirumano_)です
この記事では「我思う、故に我あり」の意味を
できる限り簡単に解説したいと思います。
「意味はわかっているけど…当たり前のことじゃね?」
って思っている方も是非読んでみてください。
この言葉が生まれた経緯とかも含めて解説します。



「我思う、故に我あり」の意味とは?

「我思う、故に我あり」をそのまま現代の日本語に直訳すると、
「私が思う、ということは私がある」となります。
ここで重要なのが、「思う」と「ある」の意味です。
この名言の「思う」は「疑う」
「ある」は「存在する」という意味になります。
つまり
「私が疑う、ということは私が存在する」
というのが「我思う、故に我あり」の本当の意味になります。
意味はわかったけど、
なんかすっきりしませんよね。
なので、ここから、
この名言が生まれた経緯を紹介したいと思います。





「我思う、故に我あり」が生まれた経緯

これはデカルトという哲学者が生み出した名言です。
デカルトが哲学者として生涯をかけたのが
「真実の発見」です。
哲学者というものは生涯かけて、
「真実」や「真理」見つけたい生き物です。
デカルトもそれを成し遂げた1人なんです。
では、彼はどうやって「真実」に辿りついたのでしょうか?
「疑いきれないものを見つけ出せばそれって真実じゃね?」
なぜなら「真実」というのは、「普遍的」なものだからです。
つまり全部を疑って、疑えないもの→普遍的→真実だと考えたわけです。
デカルトはそこからあらゆるものを疑い始めます。
これがデカルトのアプローチ方法で、「方法的懐疑」と呼ばれています。
「目の前にあるパソコンは真実?」
→「いや、違う。自分が夢を見ていたら、このパソコンの存在はない」
「1+1=2は真実?」
→「いや、神様が俺たちの脳みそを洗脳している可能性もある。
だとすれば、これが真実のように思えるだけかもしれない。」
こんな感じです。
ほんと、この根性はすごいと思わざるを得ません。
ここまでずべてに疑いをかけると何も信じれなくなりますよね。
しかも、「夢だったら…」とか「神様のせいで…」とか
そんなもの引き合いに出したら、全部疑えちゃいますよね。
デカルトは圧倒的不利な状況に陥ります。
しかし、ここで諦めなかったのが、デカルトのすごいところです。
彼は、あることに気づき逆転勝ちします。
「あれ?今疑いまくってるけど、この疑ってる思考自体は、疑えなくね?」
確かに。
目の前のものは夢の中だと考えると全て疑えてしまう。
でも「今夢の中にいるんじゃないか?」
って疑っている思考自体は疑えなくないですか?
つまり「疑っている自分がいる」ということは疑えない普遍的なもの。
そこからでた名言が
「我思う、故に我あり」
です。



「我思う、故に我あり」に対する批判

ここまで「我思う、故に我あり」という名言ができた
経緯を解説してきました。
「デカルトさん真理見つけたやん。すっげ」ってなっていますかね?笑
ですが、この名言もカントという哲学者によって簡単に論破されてしまいます。
「確かに疑っている思考は疑えないよね。デカルトさんすごいよ
でも疑っている人間の存在自体はまだ疑えちゃうよね。デカルトさん甘いよ」
こんな感じです笑
例えば、
「私は自分がイケメンだと思う」
このとき、「思う」こと自体は真実です。
でもだからって実際にイケメンとは限りませんよね。
ただのナルシストの可能性だって(おおいに)あるわけです。
カントはそこに気づいちゃったのです。
疑っている思考は疑えないけど、
だからって存在も疑えわけじゃないよね。
カントすっげ。
真理を見つけたデカルトをこんな簡単に論破するとか。
ってなっちゃいますよね。
ただ、存在そのものは疑えてしまうけど、
その思考自体は疑えないと主張したデカルトの哲学というのは、
当時最高の力を持っていたのも事実です。



「我思う、故に我あり」のまとめ

では、最後に簡単いこの名言のまとめをしておきます。
「我思う故に我あり」
→デカルト:「疑っている自分の存在は疑えない、これこそ真理!!」
→カント「疑っている思考は真理。でも存在は疑えちゃいますよ。」
→デカルト:「そうやな。疑っている思考自体は真理!!真理発見。」
以上になります。
最後までご覧いただきありがとうございました。

~~~転写終了~~~



以下の最後の部分~

>「我思う故に我あり」
>→デカルト:「疑っている自分の存在は疑えない、これこそ真理!!」
>→カント「疑っている思考は真理。でも存在は疑えちゃいますよ。」
>→デカルト:「そうやな。疑っている思考自体は真理!!真理発見。」
>以上になります。


流石は二律背反のカント
思考するモノと存在するモノが別々になってる。
「思考する自分を認識するのは、それを認識している自分が存在している」事…なのに!

カントに、とっては、疑っている思考は真理でも、
その疑っている思考をしている「我の存在」は真理でなく疑えてしまう。

これは、実体と機能を別々の存在に分離してしまっている。
これは、認識的な実在と物体的な実在を分離してしまっている。



~「認識の二重性」の話~

認識とは対象の反映であり五感情像。

人類以外の動物は、時々の対象の反映・認識・情報から、その種族特有の本能の判断に基づいて必要な行動している。
それに対して人類は、その対象の反映認識に対して、その個人的・問い掛け的な認識に基づいて判断し行動している。

人類には、
一つ、外界・現実の反映された五感情報的な対象の反映認識。
一つ、自己の内界の問いかけ的な体験・経験的な問い掛け的認識。

この内界の問い掛け的な認識は、生後から外界の反映から癖・習慣・習得的な量質転化の結果。


さて~
「我思う故に我あり」の中での
「疑っている自分」は、自分・内界の「問い掛け的認識」と言える。


>「目の前にあるパソコンは真実?」
>→「いや、違う。自分が夢を見ていたら、このパソコンの存在はない」
>「1+1=2は真実?」
>→「いや、神様が俺たちの脳みそを洗脳している可能性もある。
>だとすれば、{これが真実のように思えるだけかもしれない。」
>こんな感じです。


上記のように~
「対象からの反映像・認識(これはパソコンだ!)」を、
「これ夢だ!パソコンはない!」と否定し続けている認識。

外界の対象から反映像を、内界の問い掛け像で、事実ではない!と否定の連続。

これは、パソコン!だと、確信・確定している我。
でも本当は、パソコンではない!と否定している我。


そんな「外界認識と内界認識」の二つの認識の確執から生じた「全ては疑いうる」なのだろう。

言うなれば、「パソコンだ!と思う」と「いや違う!と思う」の二律背反。
強く「そうだ!と思う我」と「強く違う!と思う我」の二重の我。
それは、「外界の反映像」と「内界の問い掛け像」の不一致。

この証明の為に、「パソコンとは?」、「夢とは?」の確定。

>「目の前にあるパソコンは真実?」
>→「いや、違う。自分が夢を見ていたら、このパソコンの存在はない」


目の前にあるパソコンは事実か?
「夢を見ているなら、それは夢の中のパソコン!」
「現実の私の前にパソコンの存在はなくても、夢の中の私の前にはパソコンは存在いている」


>「1+1=2は真実?」
>→「いや、神様が俺たちの脳みそを洗脳している可能性もある。
>だとすれば、{これが真実のように思えるだけかもしれない。」
>こんな感じです。

「1」も「2」も神の創ったモノではなく、数字という人類の創造物。
「1+1=2」も人類が決めた結果であり事実。

自分が、その「1+1=2」を事実と信じ限りは事実。
信じないなら、それは、ただの数字・記号羅列に過ぎない。


「我思う故に我あり」の別解~
「我、絶対精神の実在と思う故に、絶対精神的な我あり…





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「頭脳活動」の話

2024-08-11 12:52:26 | 「わたし事・学」
「頭脳活動」の話


頭脳は、人間が生きている限り、活動し続けているモノ。
その活動には、「意識的と無意識的活動」と「自覚的と無自覚的」とが考えられる。


今、意識的に「犬」と言う言葉で、イヌについての頭脳活動を開始したなら~

過去の愛犬ゴールデン・レトリバーのマファと現在の愛犬柴犬のマロン…
また、幼少期の愛犬ダックスフンドのレイディ…他に小学生の頃に下校中に噛まれた野良犬…
そう「犬」というキーワードかかは、過去に私が関わった犬達の事が想起され、それらとの想い出が浮上してくる。


では、ここで現在の「愛柴犬のマロン」と言うキーワードなら~
数回も強烈に噛まれた想い出と、今も残っている右掌の傷と痛み少々…
数回も噛まれたマロンだが…ゴールデンのマファには、二回噛まれた想い出が…

それは、当時の父の愛兼シェパードのハッピーとマファを、
下半身の為の鍛錬の一環として、下駄を履いて「二匹一緒に散歩へ」とリードに繋いだら…
二匹が喧嘩にあり、それを止めようと間に入って出した私の手をマファが噛んだ。

もう一回は14歳と数か月の頃になって…とうとう歩行不能になり、
寝た切りのマファを外へ出して少しでも歩かせようして担いだ時に、
傷口が痛んだようで、ひと噛みされた。

当時のマファは、板の間に直接寝たきりにして、床ズレで太ももあたりに傷だらけ…
今、考える…下に何か柔らかいモノの敷いたり、時々体を動かして上げていれば…

ここで分かるのは、「犬」という「具象的言語」から頭脳活動を開始したなら、私の認識している「犬」の想い出・知識の想起。
それを「具体的な」柴愛犬のマロンからなら…
愛犬マロンの想い出と同じ愛犬のマファの想い出+シェパードのハッピーの想起。
このハッピーは、私がペットショップ経営の友人から父に頼まれて買ったので私には、とても慣れていた。。


南郷師範曰く、頭脳活動は、言語ではなく、認識映像を用いてなされている。
それが、上記の具体的な私の「具象的な犬」と「具体的な愛柴犬マロン」から始めた頭脳活動の例である。



頭脳活動は認識映像から~
その認識は、言語を媒介として想起が可能。
言語以外なら…同一的な「感情」からの想起も可能。

そうそう「感情」からの例として~

以下の「トラウマとフラッシュバック」のようモノが考えられる

「トラウマとフラッシュバックは、どちらも過去の辛い経験に関連する症状で、トラウマは心の傷、フラッシュバックは鮮明な記憶として蘇る現象です。

トラウマとは、過去の辛いできごとが心に大きな傷を残し、後の人生にさまざまな影響を及ぼす場合に指します。トラウマ性の記憶は強い情緒や身体感覚的な印象から構成されており、過覚醒状態になったときや、トラウマ体験を思い出されるような刺激を受けたときに、そうした情緒や感覚がよみがえることがあります。」


日常生活で、強烈ではなくても、若干過去と似たような状況から、
過去のフラッシュバック映像認識の想起と共に強烈な負の感情の発生。

これは、当人の意志とは無関係なモノなのだろう。
古傷や治りかけた傷口が痛むレベルなのだろう。

さて、では、キーワードでは、「ペット」なら、拾った愛雑種のトラ猫マニャの想起…
マニゃとは、一度、真剣レベルの闘いをしている。
理由は不明で、私が近づいたら、「ジャー」と牙をむいて、
噛もう・引っ掻こうと…必死の形相で…私の負けずに蹴ってやったら、足を噛まれ引っ掻かれた…
ただ…その後は、もう、そのような事はなくなったが…


ペットといえば、小学生の頃に息子が「マッハムームー」というハムスターの面倒を見ていた。
それが、正月に家内の実家福島へ一緒に連れて行った時、次の朝マッハムームーは永眠していた。
その事を、電話口で大泣きしている息子から聞かされた。

最近、私が通っている整体院の院長から、
「ハムスターは、寒くて仮死状態になる事もある」
「死んだと思えてもドライヤーで温めると復活する事もある」と~聞かされた。


以上が、抽象的「ペット」、具象的な「犬」、具体的な「マロン」…
という言語を媒介としての認識想起による頭脳活動の具体例である。


無意識的であっても、自己の無意識を自覚可能時もありえる。
それは、今・この瞬間は「無意識的な動作」であっても、
次の瞬間に結果を見て「無意識だと自覚」したなら…

自分は、「無意識的な動作」をしてしまったという「自覚あり」と言えよう。

無意識的な動作・行為とは、
そこに自覚可能な強さの「意志」はないが…
普段から習慣になっている動作・行為なので…
結果的に、その行為の瞬間は自覚・意識はあっても…次の主観に忘却している。

そう~その行為・動作は「意志」という認識のレベルが低いレベルで可能なモノだから、なのだろう。


最後に「哲学」といキーワードからの想起は?

この場合に、哲学=人生論、哲学=死生論…  哲学=学問、哲学+弁証法+認識論=学問…
「哲学」という言語の概念によって、想起されえるモノは、大きく・小さく・的外れ…的な想起なのだろう…
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~「認識と頭脳活動」の話~

2024-08-09 10:18:01 | 「わたし事・学」
~「認識と頭脳活動」の話~



一つの頭脳の活動は、常に一つ?!
私の身体活動は、常に一つだけの私の身体を使った活動。
身体は一つでも、色々と変化させて様々な動きの運動が可能。
色々と変化させるのは「頭脳活動」で、その指令で様々な動き・動作・運動が可能。


頭脳活動は一つだけど、その活動の仕方は色々・様々?!
その分け方に「具体的な頭脳活動」・「具象的な頭脳活動」・「抽象的な頭脳活動」…
前には、「頭脳活動は一つ」でも、「言語表現は、具体的・具象的・抽象的の三つ」…と思い書いたが…


最近再読している師範の「全集」の中での以下のよう言葉から、今朝、思いついた・思い至った。

その言葉とは、「人間は、自己の頭脳を、認識の一部or全部…を使って、活動させている。」

これは…どのような事だろうか?
認識は対象の反映・映像・五感情像…

それは、言うなれば、極薄の一枚一枚が写真的な認識像の運動的・連続的な映像。
この運動とは、フィルム投影機から、その一枚一枚の連続的な回転のようなモノ。

ただ、投影機のフィルムの順序・順番は、反映直後の認識では、対象の時系列的な現実変化・運動の順序・順番だが…
その認識を記憶した後は、時系列に縛られる事無く記憶者の想起の問題であろう。



対象の現実・事実的な変化・運動の順序・順番は、その眼前の対象の時系列的な五感覚情報に従ったモノ。
ただ…具体的な変化・運動は、五感情的に感覚・記憶可能だが…
対象が、具象的なモノ・抽象的なモノ…となると…???


私の愛柴犬⇔マロンの具体的な日々の変化・運動は感覚可能。
では、具象的な柴犬の変化・運動?
それは、専門家が書いた著書の中の「柴犬の特性」から学ぶ。

ならば、犬という哺乳類の特性は?、
それも、また書籍からであろう。


ここで、具体的なマロンの運動は、五感情報として入手・記憶可能、それを私的に言語表現可能。
しかし、柴犬としての特性は、書かれた文字情報では、五感覚的な記憶が不能。
ましたや…犬としての哺乳類的な特性は?
哺乳類の特性は書籍から入手可能でも、哺乳類犬マロンの特性は?

犬=哺乳類ではなく、あくまで犬の中に哺乳類的特性がある!

例えば、「私は人間そのモノ」ではなく、「人間の特性を保持した私」。
それは、私の中に、人間的な特性・動物的な特性、双方が当時に存在している。
人間は、認識的実在。
動物は、本能的実在。


私は、人間的・認識的に生活している。
私は、動物的・本能的に生きている(側面もある)。


上記のように、
具体的な頭脳活動の場合、愛犬マロンを思い(具体像)、マロンの日々の具体的な変化・運動の認識活動。
具象的な頭脳活動の場合、柴犬の特性「ツンデレ」なら、マロンの場合は機嫌が悪いと「頭を撫でようとする私を本気で噛む!」像の想起。
抽象的な頭脳活動の場合は、書籍に書かれている特性・記述をマロンに重ねてみる。

そう、頭脳活動は一つでも、自己の駆使している認識の論理レベルによって、
具体的or具象的or抽象的…と変化・運動させる事が可能なのだろう。


ここで話を変えるが~

新一年生の国語では、平仮名の書き方をプリントで学習している。
息子の場合は、幼稚園でプリント練習していたが…

そのプリントに、少し大きめに手本平仮名が書かれていて…
児童は、その手本を上からなぞって書き方練習をしている。


その練習容は、
一つ、チャンと確りゆっくりと、平仮名の線から外れずなぞる(正しい形の一つ一つの過程体感像)。
一つ、確りチャンとなぞりながら、平仮名の形を覚える(完成体・姿形の記憶像)。


この四年間の新一年生をみていた…

初めから、手本線に関係なく、どんどん書き進める児童(自信まんまん)。
なるべく外れないように、サッサと書いていく児童(ある程度の自信あり)。
ゆっくり最大限の注意をして書き、外れたら消して書きなおす児童(不安あり)。

まったく書けないのに、自分勝手に書き進める児童。
まったく書けないから、ゆっくり真剣丁寧に書いているが、外れてばかり、
書けない外れるそれでも書き直さない。
書けない外れる書き直している…なのに、なかなか上手にならない…



「平仮名・文字の手本のなぞり」とは、空手なら突き・蹴り形の一つ一つの過程的な変化・運動なぞり。
「平仮名・文字の形を覚える」とは、空手なら、突き・蹴りの初めから最後までの正確ななぞり運動の体得。



表記された文字・平仮名の全体像は、完成体である、「ひらがな」そのモノ。
その途中の変化・運動は、結果の形が「ひらがな」だと感覚可能なら正解。

しかし、空手の突き・蹴りの完成体とは、
その突き蹴りの初めから最後までの全ての完成をもって「完成体」となる。


それは、、空手の突き・蹴りとは、文字の例えなら文字で書かれた「ごい」。
「ごい」は、「ご」と「い」が正しく書けて、初めて「語彙(ごい)」とい意味をなす。
これを「ご」・「く」と書いたなら×××!


さてさて…以上が、
一つの頭脳の「具体的レベル」・具象レベル」・抽象レベル」の三つ活動なのだが…





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