「偶然」の話
「偶然」には、偶然の一致、偶然の出会い、偶然の遭遇…色々とありえるが…
先日、息子が、スマフォを視ながら言った
「今、『君の名は…』を見ているんだ!…知っている?」
私~「それってアニメでしょう?!」
少したって、息子が「凄いビックリ!今日って、『君の名は』の劇場公開日だって…!」
私~「数十年も生きていれば、とんでもなく驚くような偶然の一致はあるモノさ!」
息子…「何かつまらない!そんな風に言ったら楽しくない…」
私は思った~『私の経験的な事実に間違いはない…それでも、息子の言い分にも一理ある。』
そんな思いを抱いたら以下のような体験を想い出し、
そこで…以下のような話をした~
昔…就職して初めて、好意を持った女性と誕生日の話をしていた時、
突然に中学時代に好きだった女子の事・その子の誕生日を思い出し、
「それが目の前の女性と同じだ」と根拠のない確信を抱いて、
「誕生日って10月11日だよね!」と言ったら、「大当たり」だった。
また、家内とは、私の誕生日に付き合い始めて、そして私の誕生日に死別している。
こんな・こんな私の偶然の出会い・偶然の一致が、過去にあったよ!と話した。
初めの私の言葉―
「人生数十年も生きていれば、ビックリするようなとんでもない偶然はあり得るよ!」~
これはこれで、間違いない・「事実的な論理」表現であろう…
しかし、こんな言い方で息子の偶然の一致の驚きを一括りしたのでは…
息子の感情が「つまらない・面白くない」になりえるのは当然であろう。
息子の「驚き・ビックリ…」の感情に共感し得るには、
私も、私自身の、今までの人生での「驚くような偶然を一致」を語るベキであろう。
息子の言葉を論理的に「人生での偶然」と捉え、それを言語化するか?
または、息子の言葉を事実の表現と捉え、自分も同様な体験をを想い出し、
それを言語化するか?
偶然の一致を「当然・当たり前」的な感情で片付けるのではなく…
そんな当然の偶然の一致を「楽しめる感情」で表現・伝える事が、
他人との楽しいひと時の会話になり得るのだろう。
因みに、息子がよく、「その場の雰囲気…「のり」…だね♪♪♪」と言っている。
この「その場の…のり…」は、今の私には、あまりないモノであろう。
確かに、数十年の人生の中での一回の偶然の一致、
確率なら数万分の一であっても、人生経験数が万回であれば、その一回の出会いは普通の事。
ただし…
その偶然の一回が、60歳で偶然か?20歳での偶然か?では、
その驚き具合に大きな相違が…
若い息子の偶然と高齢者の私の偶然では…
その感情・感動の相違は甚だしいモノがありえる。
それは、児童・生徒・学生の「偶然」にも言い得るモノなのだろう。
最後に偶然ではないが…ビックリ事であるが…
それは、人生67年目での初体験!
6月20日に、愛柴犬マロンに右手の親指と中指を爪の上から咬まれた。
その結果、爪の下が真っ赤に内出血し、それが段々どす黒くなった。
私は、そのどす黒い血豆・血の広がり?爪先まで上がってくると思っていたが…
その内、その血の色、がだんだん薄くなり、爪の感覚に変化があり…
なんと数時前に、表面の爪が剥がれ落ちた!下には新しい爪ができていた。
落ちる前の、爪の表面の変色、爪感覚の違和感…で、予想していたが…
小学生の頃に、突風で突然閉まった非常口の扉に数本の指が挟まれ血豆ができた事はあった。
でも、その血豆は、段々上に上がって…爪が剥がれ落ちてはいない…
だから、今回のような、血が自然に消えて、爪が剥がれ落ちる事は初体験である。
偶然の連続が、必然にあり得る。
まぐれ当たりも、習練・修練の結果、必然になり得るモノ~
「偶然」には、偶然の一致、偶然の出会い、偶然の遭遇…色々とありえるが…
先日、息子が、スマフォを視ながら言った
「今、『君の名は…』を見ているんだ!…知っている?」
私~「それってアニメでしょう?!」
少したって、息子が「凄いビックリ!今日って、『君の名は』の劇場公開日だって…!」
私~「数十年も生きていれば、とんでもなく驚くような偶然の一致はあるモノさ!」
息子…「何かつまらない!そんな風に言ったら楽しくない…」
私は思った~『私の経験的な事実に間違いはない…それでも、息子の言い分にも一理ある。』
そんな思いを抱いたら以下のような体験を想い出し、
そこで…以下のような話をした~
昔…就職して初めて、好意を持った女性と誕生日の話をしていた時、
突然に中学時代に好きだった女子の事・その子の誕生日を思い出し、
「それが目の前の女性と同じだ」と根拠のない確信を抱いて、
「誕生日って10月11日だよね!」と言ったら、「大当たり」だった。
また、家内とは、私の誕生日に付き合い始めて、そして私の誕生日に死別している。
こんな・こんな私の偶然の出会い・偶然の一致が、過去にあったよ!と話した。
初めの私の言葉―
「人生数十年も生きていれば、ビックリするようなとんでもない偶然はあり得るよ!」~
これはこれで、間違いない・「事実的な論理」表現であろう…
しかし、こんな言い方で息子の偶然の一致の驚きを一括りしたのでは…
息子の感情が「つまらない・面白くない」になりえるのは当然であろう。
息子の「驚き・ビックリ…」の感情に共感し得るには、
私も、私自身の、今までの人生での「驚くような偶然を一致」を語るベキであろう。
息子の言葉を論理的に「人生での偶然」と捉え、それを言語化するか?
または、息子の言葉を事実の表現と捉え、自分も同様な体験をを想い出し、
それを言語化するか?
偶然の一致を「当然・当たり前」的な感情で片付けるのではなく…
そんな当然の偶然の一致を「楽しめる感情」で表現・伝える事が、
他人との楽しいひと時の会話になり得るのだろう。
因みに、息子がよく、「その場の雰囲気…「のり」…だね♪♪♪」と言っている。
この「その場の…のり…」は、今の私には、あまりないモノであろう。
確かに、数十年の人生の中での一回の偶然の一致、
確率なら数万分の一であっても、人生経験数が万回であれば、その一回の出会いは普通の事。
ただし…
その偶然の一回が、60歳で偶然か?20歳での偶然か?では、
その驚き具合に大きな相違が…
若い息子の偶然と高齢者の私の偶然では…
その感情・感動の相違は甚だしいモノがありえる。
それは、児童・生徒・学生の「偶然」にも言い得るモノなのだろう。
最後に偶然ではないが…ビックリ事であるが…
それは、人生67年目での初体験!
6月20日に、愛柴犬マロンに右手の親指と中指を爪の上から咬まれた。
その結果、爪の下が真っ赤に内出血し、それが段々どす黒くなった。
私は、そのどす黒い血豆・血の広がり?爪先まで上がってくると思っていたが…
その内、その血の色、がだんだん薄くなり、爪の感覚に変化があり…
なんと数時前に、表面の爪が剥がれ落ちた!下には新しい爪ができていた。
落ちる前の、爪の表面の変色、爪感覚の違和感…で、予想していたが…
小学生の頃に、突風で突然閉まった非常口の扉に数本の指が挟まれ血豆ができた事はあった。
でも、その血豆は、段々上に上がって…爪が剥がれ落ちてはいない…
だから、今回のような、血が自然に消えて、爪が剥がれ落ちる事は初体験である。
偶然の連続が、必然にあり得る。
まぐれ当たりも、習練・修練の結果、必然になり得るモノ~