新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

今まで誰にもに言えなかった「私の夢」!

2024-01-07 12:47:17 | 「わたし事・学」
今まで誰にもに言えなかった「私の夢」!

それは、師範の入れた美味しいコーヒー(都築さん曰く)を、
飲みながら師範と以下のような「茶飲み話」をする事。

いつか、どこかで、師範が生きている内に、師範の実体験が聞きたい!


流石、今回の弥勒さん
このタイミングで登場とはナイス!ですよ。
>「唯一、南郷先生の「夢を動かす」という発言です。
いや~その結論が出たのですよ。

夢とは、人生のこれまでの体験時の脳細胞の活動=感情認識を元にし、
それが、その日・その夜の頭脳・活動・感情・その時々の現実界の情報・過去の体験情報…

う~
そうだ、その晩の頭の活動に即して、過去から現在までの感情と一致する像を描く、

…うまく表現できない!知識的になら、夢とは、頭脳が描く像である。白昼夢・夜の夢。
「夢を動かす」については、私の結論はでています。

自分の意志を滅し
「己を空しゅうする」事、その時・何が起きるか?」

(昨日か一昨日に再読した私の師範御講義メモです)

答え・自分の夢が見られる事…
己を空しゅうするとは、自分で「己と言う」意志を消す。
究極の二重化・他方の否定です!

それは、一人っ子で淋しかった私が現在まで、続けている「独り言」ですね。
そうそう、南郷継正の著書で「独り言」をやっている…
を読んだ時、彼も私と同じだ!恥じる事はない!ちょっと安心。


そう「劣等感の塊コメント」への今日の私のコメントです。
私には、国籍・職業に対しての劣等感は、ありません。
唯一あった劣等感は、「背の低さ」です…。
クラスで一番・背が低かった私は、思春期の頃からですかね…
好きな同級生の女子より「背が低かった」…それが嫌でした。イヤな理由は、隣に並ぶとカッコ悪い!

その後、高校のサッカー部で、背が私くらいなのに、自信満々な同級生に出会って不思議でした。
後に知った、彼はヤクザの親分の息子だった事。
それは、彼の家で麻雀をした時でした。その時の私は、大勝ちしたので、
「私の勝ちを飯山?彼の負けから引いておいて…」その時彼はもう就寝。

そんな彼を見た私でも、心の底(思春期)から劣等感は…解決不能!
ただ…体は小さくても…私には「母譲りの気の強さ」があったようですね♪
小学五六年の頃、私より大きかった(誰かは不明・でも私がクラス一番のチビ)友達とのケンカで、相手を爪で引っ掻いて泣かして先生に叱られました。
また、トイレで結構ガタイのいい同級生と掴み・押し合いの喧嘩になり…
最終的に、お前って「豆タンクだ!」と言わせて・引き分けました。

そう…相手を攻撃する時、相手の弱点を探しますね。
自分の弱点・劣等感が、出生・職業なら、自由びとも同じだと思ったのでしょう。


玄関のマロンが騒いでいます。
散歩に行ってきます。


ここで今日の「見て動かした夢」を書きます。

「初めに、うっすら浮かんだ…石畳道路…歩いていくうちに人が…
そして像が鮮明化……遠く・近く窓が見える、近寄って行ったら開けてある・いている、そこへ飛び込んだ、砂道…歩いていくとレストラン…食べずに二階へ、そこには半開きの非常口、下りたら、そこからまた像が不鮮明…女性が現れた、触ろうと触っ(以前は夢の女性に触れなかった・今回触れた)ても反応なし、人間なのに人形みたい…人形なのに人間みたい、…その後、「リナ」、母の妹の養女の事(養女のリナは伯母の着せ替え人形)、が想起された…起きた時にリナへ電話した…留守電に伝言を~」これが夢の中身です。


夢の中で、「この夢・忘れまい」と必死に記憶しようとする私だった。



夢の始まりから終わりです、

「昨晩も1時過ぎのトイレ起き、から眠れず…
途中から「夢トレーニング」色々、途中にメモ書きをと思って一度は起きようとしてスマフォで時刻確認を確認した!のですが…よし五時までは床の中…トイレへいってもう一度トイレの時刻は3時25分…(時刻記憶間違いが…)

で、その後、何度も起きようと思いましたが…『ここで起きたら…夢の続きかが見られない…』と思い…途中で眠り、覚めて(さめて=悟めて、ですね…イヤ!悟りましたよ!)」


~ここから散歩~



そして、散歩から帰って食事をしながら「サンデーモーニング」を見てたら、

「戦争・地震」⇒「人災・天災」ニュース=人間界の激動・自然界の激動

私は、季節の変わり目には、眠れない・少々ハイになる・無落ち込む…
私は、過去に(今日はなんか変だなと思ったら満月の夜だった)
「これは思い込みだったのかも…狼伝説知っていたから…」


で~思いつきました。

自然界の激動・人間界の激動・私の心の悟り化への激変、

これって「自然・社会・精神の弁証法」ですね…
そうなんです!これって驚駭(きょうがい)ですよね…


私は笑って・大声で笑いながらの音のない号泣。
笑い声の号泣でしたよ!

笑い声での号泣!


さて今日の結論が出たので、
さて、以下のコメントを読もうかな♪♪♪


初めにチラッと目に入ったのが、>「唯一、南郷先生の「夢を動かす」という発言です。











・コメントが届いた記事
うん~今日は、何の記念日にしようかな…「またまた悟った記念日」?

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/a468a2c03fe23c57ff06e0563a823246

>・コメントを書いた人
>弥勒

>・コメント
>たくさん書いてありますが、私が思ったことは唯一、南郷先生の「夢を動かす」という発言です

>確か『武道講義』の中で「三浦つとむの弁証法レベルの認識論では夢は如何とも動かせない」みたいなことを書いていた記憶があります。

>私はこれも「知識の問題」、知っているか否かの話しだと思いました。というのは精神科医の行う精神の治療の中に「悪夢を見ないようにする」というのがあり、それが患者にマッサージしたりの筋肉をゆるめて身体を快の状態にするもので、南郷先生的な言い方をしたならば「認識と実体」ということになるのでしょうけれど、夢は認識だから認識をどう動かすではなく、肉体のほうに働きかけて悪夢を良夢?に変えるというような内容でした。

実は、初めて、このくだりを読んだ時、「言葉だけで何で…?」と言う疑問が…


今なら以下のような理解です.固まっている身体を、「話をゆっくり聞きながら(慈悲の心)でのマッサージは、

その慈悲の心(あの弥勒さんですね)と「相互浸透」します。
そこで固まったその頑な心がほぐれていきます。
そして、そのタイミングでの固まった身体へのマッサージ(私も整体)。


の家内は、自分の事より「オーケストラ」活動を優先していました。
彼女は、慈悲の心をもっていた。しかし、私はやさしいだけの自己中です。

そうそう、息子に「自分の優しさを相手に向けた時が慈悲なんだよ」と言ったら…
すると息子は、「それて思い遣り、だね…」
う~ん…私しは迷いました…何故「思いやり」…でもなんとなく納得。

今検索した結果が以下です。


引用↓
「慈悲とは、最後まで相手の心に寄り添っていくということなのです。

そう言えば、家内の死まで見取ってくれた訪問看護師は、その慈悲の心の持ち主だったかも…
この事実はいつか、書いて再確認したいですね、
●思いやりは想像力(で)相手を理解するってどういうことでしょうか。
相手が全く違う意見を言った場合、「自分はこう思うけど、相手は全く違う考え方なんだ。 どうしてその考え方をするのだろう?」


最近・「家内の死」後…息子と二人暮らしで、息子の良さ・凄さが分かってきました。
息子が、政治家になって、政治世界に毒されずに、首相に慣れたら、確実に日本は変われますね。
家内が日本籍だから息子も日本籍、彼なら日本でも政治家になり得る。
でも…彼は政治に興味なく、オービックに内定しています。
何度も…とてもフレンドリーな雰囲気、社員さん達も、とても話し易かった、そうです。
よく…息子が「頭がいい!」いうので、「頭がよいの解説」するのですが…

さっきですかね…
「頭が良いの二重性」
一つ、頭の回転が速い
一つ、心の変化・運動が弁証法的

分かりますよね…この矛盾を~
心は自然・社会・精神の弁証法性に従って変化・運動している。
頭は、回転の速い頭は、外界の感覚情報を元に変化・運動している。

「こころ」は即自的・(本能的反応)vs「アタマ」は対自的(問い掛け認識)。

弁証法の体得とは、心の弁証法性を「弁証法化」
こころの弁証法化は、事実的な対象を弁証法的に学ぶ、
その過程で、その各段階の「こころ」を弁証法的言葉で捉える…

例えば、白帯⇒紫帯⇒茶帯⇒黒帯⇒技の使い方の心を~
それらを、弁証法の学びと並行に実践する事で、

空手の生々・生成・発展・衰退・消滅までの、心と言葉が対応可能になり得る。
そこに「武道としての空手」から⇒仏教の悟りへの道の論理が適応…
ただし、ゴールは「生死を賭けた勝負の道」=「死即生」、
「死」とは「仏」になる事、「心を殺して」」即「体「生かす」…

私には、無感情・自分の心を閉ざす事を自分にやらせる事が、玄〇会入門以前から、たぶん幼少時が可能だった。
「いざ鎌倉」と、なったら、全てを自己の生存の為に、全力投球可能なのだろう。

むかし…読んだ漫画の中の、ケンカの達人が、勝てないだろう相手に、突然に持っていた赤鉛筆でさした…
これって、非常に動物的・本能的・「自己の生存が最優先」です






>当時、南郷先生の高弟に精神科医のYさんという人がいて、おそらくそこから知った知見を踏まえての発言だったのだろうと思います。それは保育士だったK保さんの育児の話しでも赤子の身体(実体)を如何に快の状態にするか?ということが赤子が夢の中で泣いているか、笑っているかの違いだということなんでしょう。


そうなんですよ!最近「活元運動」を体得している自分を発見したのです。
始まりは、数年前に、近くの整体院で「背骨ゆらし整体」、
去年あたりから「内臓矯正整体」もセットになって、
それを眠れられない時に時々やっていて…「内臓矯正は一人ではできない」
途中から、背骨だけではなく、同時に両手・両足もブルブル…これがなかなか同時は難しくて…苦戦でしたね。
そんなある日、去年でしたかね…全身が強烈にブルブル体験を~
そして、この数日前に、初めにゆっくり、全身を意図的にブルブル…
すると…ある状態になると…床の中で、全身が強烈に動き始めている自分を発見。
それが、井上先生の、立ちながら、私達に披露してくれた「片手の強烈なブルブル・ブラブラ運動みたいで…
これって、もしかして「全身の活元運動」、その後、再度やってみたら「エクソシスト」そっくり、
でも、「首は後ろ向きにならない?」と思いきや、最近みた番組で「四歳から体操している女性が、背骨をサソリのように反り返っていた映像」を想起…なる保持…首の真後ろ向きは至難でも…う~ん、マニャ猫は、ほぼ後ろに首を向けられる…

「エクソシスト」は、心中の悪魔が出て来た。

そうそう…本当は、tadaに聞いてもらおうと思っていたけど…
「集中」について、以前から感じていたのですが…最近・幻聴・見間違えが多発していて…
夜のマロン散歩で、テープを巻いて後ろに色々あったポールを見て、
「誰か立って、こっちを見ている?」
「まさか…こんな夜中に…でも親子で立っているみたい」
「近くに言って再確認したら、ただのポール」、
あと…マロンのキャン!キャン!」鳴き声の幻聴が…
理由は分かっています。
それは、以前に夕方の散歩or餌が、欲しくて(不快の除去)したくて、
「キャン・キャン」泣いているマロンに、ちょっと忙しくて何もしなかったら
「柴犬マロンは自分の尻尾先を2、3㎝食いちぎってしまった…

さあ~その後が、大変!私はマロンを散歩へ連れ出し…
マロンを引っ張りそれに必死についてくるマロン…後は忘れた…
家内が帰宅して動物病院へ即行!
後で、家内から「どうして…直ぐ病院へいかなかったの?」
私「思いつかなかった!」

今の私なら、こう言います。散歩させて、マロンのストレスの原因の除去…
その強烈過ぎる悲しいマロンの体験を思うと…キャン・キャンを何とか…
なので、今のマロン尻尾は、毛が生えてダンゴ状…その理由は、病院でまた噛むから数センチ残して尻尾の切断!
でも、それでもお尻の穴をなめられるマロンは、その尻尾にも届く…
そこで、最大限のマロンストレスの削減の散歩…マロンの話はまた次


赤子への快適な現実的刺激は、その「こころ」を快にする。
そう言えは、アメリカに産湯・体あらい…ないという事が、書かれていて「何で?」と思いました。
自分のこころの快が分かる人間は、他人のこころの快が分かる。
分からないアメリカ人は、相手が分かるよう全てを言葉にする。



>三浦つとむの弁証法レベルの認識論とやらでは肉体への働きかけによる感情の不快から快への変化が考慮に入れられていないから夢はどうすることも出来ない、というお話しなのだと思いますよ。

>でも、まあ、専門分野の小難しい知識など不要な自由びと氏には関係ないですけどね。


そんな事は、とっくに、南郷継正から学びとりましたよ!
でも…再度の確認ができて「し・あ・わ・せ」♪♪♪ですよ。
この弥勒さんも、私の南郷継正、でしたね…









ナイーブ(naive)は、フランス語で「童心的」「うぶ」「世間知らず」「お人よし」「無警戒」「ばか正直」を意味します。

日本では、飾りけがなく素直であるさま、純粋で傷つきやすいさま、単純で未熟なさまを意味します。また、近年の日本では「sensitive」に近い意味で使われることもあります。

繊細(せんさい)には、次のような意味があります。

物の形が細くて小さいこと、ほっそりとしていて優美な様子

感情などがこまやかであること

繊細は、外見的な意味で用いられる場合は「外見がか細く美しいさま」を表します。しかし、一般的に繊細という言葉は、内面的なことを表す意味を指して使われることが多いようです。

繊細な人とは、ひといちばい感じる力が強い人です。音や光、相手の感情など、まわりの人が気付かない小さなことにもよく気付くため、疲れやすかったり、ストレスを感じやすかったりします。

主にメンタルヘルスの分野において、対人関係がうまく保てないほど感受性の高い人、とても敏感で傷つきやすい人などを指す表現として「繊細すぎる」という表現があります。いわゆる「HSP」(Highly Sensitive Person)を日本語で言い表す語として知られています。

「繊細すぎる(せんさいすぎる)」の意味や使い方 わかり ... - Weblio辞書



仏教では「優しさ」を「慈悲」と言います。慈悲は「慈」と「悲」を組み合わせた言葉で、「慈」は「人を幸せにすること」、「悲」は「苦しみを取り除くこと」を意味します。

優しさは、その人が生まれ持った感情や育った環境に依存するもので、相手がいなくても成立します。一方、慈悲は、仏や菩薩が人々や生命あるものの苦しみや苦悩を除き、楽や幸福を与える心です。慈悲深い人は、自分が苦労することをいとわず、他人のために尽くす行動をとります。



コメント (6)
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