岡田斗司夫『東大オタキングゼミ』によるディズニーランドのこんな楽しみ方

2013年11月09日 | 海外旅行

 ディズニーランドに行ってみたい。

 などと、最近思うようになった。

 というと、おいおいお前がディズニーというガラか。

 ちっとも似合わない上に、以前パリのユーロ・ディズニーに行ったとき

 

 「全然おもろないやん」

 

 などと冷め切ったことを言っていたではないかとつっこまれそうだが、それは岡田斗司夫さんの

 『東大オタキングゼミ

 という本を読んだからである。

 これは岡田さんが東京大学で講師をされていたころの講義録をまとめたもの。

 ゲーム映画インターネットなどについて東大生と質疑応答などをまじえながら語るというもの。

 そこで「テーマパーク」という章があり、ディズニーランドを例にとって世界の遊園地などが、どういうコンセプトを持って作られているかなどを解説しているのだが、これがめっぽうおもしろい

 ディズニーランドが大好きな女の子になんかに

 

 「あんなん、どこがええの?」

 

 なんて、ガサツにたずねたりすると、たいていが、

 

 「理屈じゃないのよ、すべてが夢の国でうっとりするのよね」



 なんて答えが返ってくる。

 夢の国かー。

 まあ、そういわれたらそうかなあと、なんとなく納得したような気にはなるが、岡田さんによるとポイントはそこじゃないと。

 この本を読むと、ディズニーランドという世界は、そういった安易ドリームではなく徹頭徹尾「理屈」によって造りあげられているのが、よくわかる。

 いかに観客を「楽しく錯覚」させるかに血道を上げているということが、テーマパークのキモなのだ。

 例をあげれば、ディズニーランドでは、建物が1階は実物の8分の7の縮尺、2階5分の3の縮尺という比率で建てられているという。

 これは遠近法を強調した造りになっており、本当は2階分の高さしかないんだけど、ちゃんと3階あるように見えるのだ。

 なぜそう作ってあるかというと、建物の高さを低く(ただしそう感じさせないように)設定することによって、が高く感じ、空間も広がるのでお客さんには開放感が感じられる。

 そうすると当然、気分がいい。圧迫感がないわけだ。

 京都がぶらぶら歩きに耐えられる観光都市なのは、豊かな名所もさることながら、阿呆みたいに高いビルが林立していないというのも大きいが、それと同じだ。

 など何気ないところにも、すべて工夫がある。

 入口広くせまくして実際よりも長さを感じさせたり、直線で行けるところはわざとクネクネにして単調にならないようにすると同時に

 

 

 「やっぱ中は広いなあ」

 

 と距離感を出す。

 さらには

 

 「回り道させられた」

 

 と思わせないように、などを置いてそこを回りこませることによって道程にアクセントをつける。

 それができないときは、真ん中を少し高くして、錯覚により、向こうを見にくくすることによって奥行きを出す。

 気の狂うような量のカラーマニュアルを駆使して、によってのスケール感や観客の心地よさを演出する。

 ご苦労なことに、ディズニーランドでは場所によってミッキー全部違うのだそうな。

 入場口をわざとせまくして混雑感を出し

 

 「やっと入れた!」

 

 という快感を味わってもらう。

 1日7,8割しか歩けない大きさにして

 

 「もう一回来よう!」

 

 と思わせる。

 などなど、ざっと並べるだけでも、からまで、すべてが計算されて作り込まれている。

 そこいらの夢の国とは、かけてる手間知恵もちがうのだ。世界のディズニーをなめんなよ

 ついでにいえば、ディズニーシー臨場感を出すための、看板サビなどは、なんとゴジラを作った東宝特撮班による「ウェザリング」(汚し)だ。

 あれは、ただ汚いのではない。美術プロがサビを描くことによって、水辺の汐見のあるを感じさせる演出。

 そう、ディズニーランドというのは、いわば巨大な超絶精巧ジオラマなのだ。

 そんなことを説明されると、これはもう是が非でも行きたくなるではないか。

 私は映画でもスポーツでも絵画でもなんでもいいが、それが

 

 「なぜすばらしいのか」

 

 このからくりがわかった方が、ずっと物事を楽しめるタイプである。



 「そんな理屈っぽいこと言ってなにが楽しいの、もっと素直に、あるがままに楽しさを受けとめなよ」



 という人もいるけど、好きなものは「より知りたい」と思うのは自然の摂理であり、それはたとえば恋愛などだって同じではないか。

 私からすれば、好きなものを「あるがまま」しか接しようとしない方が、もったいない気がする。

 子供のころ絵画にまったく興味になかった私が美術の先生に、



 「この絵は、どんな意味があるんですか」



 と問うと先生は



 「そんな意味なんかより、ただ見て、素直になにかを感じればいいのよ」



 とおっしゃっていたが、今思うとこれって教育の怠慢なような。

 大人になって美術の本を読んだら、風景画でも人物画でも宗教画でも、そこに描かれたものを理解するには、様々な材料が必要となる。

 その時代の常識時代背景人物像や国の歴史聖書の知識、ギリシャバビロニアなど神話の数々。

 また描き手も、

 

 「そこを読み取れよ」

 「わからんやつは、ここで置いていくぞ」というメッセージも投げかけているのだ。それを「見たまま素直に」

 

 なんて、なんという手抜き、もしくは間の抜けた答えか。

 そんなもん、人間をがいいかどうかだけで評価するようなもんで、ちっともおもしろくないぞ!

 ちゃんと、「なぜ、すばらしく感じるのか」を教えてよ!

 もちろん、ガキ相手にそんなことしてられんだろうし、意味もわからないから、やっても無駄かもしれない。

 でも、たとえ理解はできなくても、少しはその知への「きっかけ」くらいはつかめるかむしれない、簡単な説明くらいは、あってもバチは当たらないんじゃない?

 「感じたまま」なんて、おためごかしに丸投げされてもなあ。

 こうして、岡田さんの本に触発された私としては、ディズニー好きがやたらと強調するアトラクションがどうとか、隠れミッキーとか。

 そういうんは全然どうでもいいけど、ディズニーが心血そそいで築き上げた「玄人の技」を教えられると、これはいっちょ行かないかんと思うのである。

 でも、デートとかでいちいちこういう理屈っぽい話をすると、絶対嫌がられるんだろうなあ。



コメント
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