なぜファッションに興味がないのかについての考察 その2

2013年11月21日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続き。

 なぜ私はファッションに興味がないのか。

 その理由が多少わかったのは、中島らもさんのエッセイを読んでいるときであった。

 舞台は関西のテレビ番組に出演していたときのこと。

 そこでらもさんは、タイガーマスクがプリントされたヨレヨレのシャツを着て出たのであるが、それを見た上岡龍太郎さんに、



 「あんたは、自分によっぽど自信があるから、そんな格好でテレビに出られるんや」



 上岡師匠がそうツッコむのは、なんとなくわかる。

 ファッションというのは、自分をよく見せるためのアピールであり、一種の示威行為であるともいえるが、同時にそれはきわめて守備的なアイテムでもある。

 人というのは、「見た目が大事」であり、特に第一印象はその人のその後を決定づける、大きな要素となることもある。

 「人を見た目で判断するな」

 というのは一理ある意見だが、残念ながら人はそんなに他人の内面に興味はないし、たとえあったとしても、理解し合えることなんてめったにない。

 そもそもが「内面を見てくれ」という人に限って、案外内面もたいしたことがない、という意見もある。

 そう考えると、オシャレな服や高価なスーツというのは、

 「しょせん、人なんて外面しか見いへんのや」

 という大人の判断による防御服ともいえるのだ。

 「見た目みたいなしょうもないことで、安く見られたらかなわん」

 「なめんなよ」と。

 だから日本のサラリーマン政治家は、夏に死ぬほど暑くてもスーツを着たがる。

 クールビズでは「外見の軽さ」で判断されることを怖れるから。

 上岡師匠は、そういうことを気にしていなさそうな、らもさんに「よほど自信がある」と言い放ったわけだ。

 「外見のことなど、オレの中身の充実で、なんとでもカバーできるわい」

 なんて思ってる、おまえは自信満々かと。

 これにらもさんは反論した。そうじゃない。

 自分がヨレヨレの服で、人前に出ても平気なのは、理由がこれしかなくて、

 「単にめんどくさいだけ」。

 これにはページをめくりながら、深くうなずくこととなった。

 そうだよなあ。ファッションって、散髪とかと同じで、ものすごく「めんどくさい」ことだよなあ。

 別に、自信とか防御とか、そこまで考えてない。もう、ただただめんどいだけなのだ。

 ファッションを気にする人には、そこがわかってもらえない。

 これが、まずひとつ。

 それともうひとつ、これはファッションの話ではないが、らもさんがお寺で講演という、めずらしいイベントに出演したときに、女子高生にこんなことを訊かれたそうだ。



 「あのな、なんでそんな自由そうにしてられるの」



 いきなり、そんなことをたずねられて、困惑したらもさんだが、彼女は続けて、



 「なんにも執着がないみたいで、自由そうで、うらやましいねん。なんでそうなるの」



 それに対してらもさんは、



 「それはたぶん、自分のことがあんまり好きでないからやろうね(中略)そやから、自分を可哀そうに思ったり、大事にしてあげたりせえへんから」


 
 これに対して女子高生は



 「ふうん。それって、気の毒やね」



 と返答し、らもさんが



 「そうかもしらんけど、その《気の毒》やとも思わへんねん」



 と答えて会話は終わるのだが、このやりとりは、なかなか興味深い。

 たとえば、この一見失礼な女子高生は「うらやましい」の中に、おそらく同程度の嫉妬の感情もある。

 アドバイスをあおぐとともに、《気の毒》とか《可哀想》という

 「無条件で上に立てる単語」

 を使って、相手を傷つけようとしているといった心の動きなどに、それが表れているではないか。

 でだ、そんなことを考えているときに、ふと、ここにこそ、らもさんと私や、その他多くの

 「ファッションに無関心な人」

 これを表すキーワードがある気がしたのだ。


 (次回【→こちら】に続く)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする