前回(→こちら)の続き。
なぜ私はファッションに興味がないのか。
その理由が多少わかったのは、中島らもさんのエッセイを読んでいるときであった。
舞台は関西のテレビ番組に出演していたときのこと。
そこでらもさんは、タイガーマスクがプリントされたヨレヨレのシャツを着て出たのであるが、それを見た上岡龍太郎さんに、
「あんたは、自分によっぽど自信があるから、そんな格好でテレビに出られるんや」
上岡師匠がそうツッコむのは、なんとなくわかる。
ファッションというのは、自分をよく見せるためのアピールであり、一種の示威行為であるともいえるが、同時にそれはきわめて守備的なアイテムでもある。
人というのは、「見た目が大事」であり、特に第一印象はその人のその後を決定づける、大きな要素となることもある。
「人を見た目で判断するな」
というのは一理ある意見だが、残念ながら人はそんなに他人の内面に興味はないし、たとえあったとしても、理解し合えることなんてめったにない。
そもそもが「内面を見てくれ」という人に限って、案外内面もたいしたことがない、という意見もある。
そう考えると、オシャレな服や高価なスーツというのは、
「しょせん、人なんて外面しか見いへんのや」
という大人の判断による防御服ともいえるのだ。
「見た目みたいなしょうもないことで、安く見られたらかなわん」
「なめんなよ」と。
だから日本のサラリーマンや政治家は、夏に死ぬほど暑くてもスーツを着たがる。
クールビズでは「外見の軽さ」で判断されることを怖れるから。
上岡師匠は、そういうことを気にしていなさそうな、らもさんに「よほど自信がある」と言い放ったわけだ。
「外見のことなど、オレの中身の充実で、なんとでもカバーできるわい」
なんて思ってる、おまえは自信満々かと。
これにらもさんは反論した。そうじゃない。
自分がヨレヨレの服で、人前に出ても平気なのは、理由がこれしかなくて、
「単にめんどくさいだけ」。
これにはページをめくりながら、深くうなずくこととなった。
そうだよなあ。ファッションって、散髪とかと同じで、ものすごく「めんどくさい」ことだよなあ。
別に、自信とか防御とか、そこまで考えてない。もう、ただただめんどいだけなのだ。
ファッションを気にする人には、そこがわかってもらえない。
これが、まずひとつ。
それともうひとつ、これはファッションの話ではないが、らもさんがお寺で講演という、めずらしいイベントに出演したときに、女子高生にこんなことを訊かれたそうだ。
「あのな、なんでそんな自由そうにしてられるの」
いきなり、そんなことをたずねられて、困惑したらもさんだが、彼女は続けて、
「なんにも執着がないみたいで、自由そうで、うらやましいねん。なんでそうなるの」
それに対してらもさんは、
「それはたぶん、自分のことがあんまり好きでないからやろうね(中略)そやから、自分を可哀そうに思ったり、大事にしてあげたりせえへんから」
これに対して女子高生は
「ふうん。それって、気の毒やね」
と返答し、らもさんが
「そうかもしらんけど、その《気の毒》やとも思わへんねん」
と答えて会話は終わるのだが、このやりとりは、なかなか興味深い。
たとえば、この一見失礼な女子高生は「うらやましい」の中に、おそらく同程度の嫉妬の感情もある。
アドバイスをあおぐとともに、《気の毒》とか《可哀想》という
「無条件で上に立てる単語」
を使って、相手を傷つけようとしているといった心の動きなどに、それが表れているではないか。
でだ、そんなことを考えているときに、ふと、ここにこそ、らもさんと私や、その他多くの
「ファッションに無関心な人」
これを表すキーワードがある気がしたのだ。
(次回【→こちら】に続く)