前回(→こちら)の続き。
映画を趣味にしようとしたのはいいが、「全米大ヒット」「『アルマゲドン』より泣きました」みたいな作品にちっとも感動しない友人ヒラカタ君。
それを、「これを楽しめないのは、自分の理解力が足りないのでは」と解釈し、劣等感にさいなまれていた友だが、あるとき突然それが晴れることになる。
そのきっかけが、かの名作『シベリア超特急』であったのだ。
ある夜の出来事。ヒマだし深夜映画でも観るかと、何気なくテレビをつけると、そこで放送していたのが『シベ超』だった。
ヒラカタ君は当時、まだこの作品のすごさを知らなかったので、
「へー、水野先生が映画作らはったんや。あんな有名な人やから、きっとおもしろいもん撮りはったんやろうなあ」
そんな期待をしながら観ていたら、
「なんやそれ!」「んなアホな」「えー、そんなんありえへん!」「ショボ!」「ダッハッハ、水野センセ、それマジで言うてはるの?」
意味不明の脚本、ショボイ特撮、マイク水野の棒読みセリフ。
開始直後から最後の瞬間まで間断なく、全編がつっこみどころの嵐だったのである。
あまりに笑いすぎて腹は痛いは涙は止まらないわで、気持ちにおさまりがつかなくなった友は、深夜にも関わらず電話をかけてきた。
寝入りばなたたき起こされて、ぼけているこちらにかまわず、
「『シベ超』ってすごいなシャロン君。オレ感動した!」
こっちはまだ半分寝ているので、ムニャムニャ「なんのこっちゃ」と返事すると、友が言うには、
「オレ、映画の本質がわかった。今までのオレの映画鑑賞法は間違ってた」
そして、こう続けたのである。
「映画って、ホンマは別に、おもしろいもんやないねんな」。
これだけ聞いても、なにが友をそんなにも揺り動かしたのかわかりにくいだろうからここに説明すると、映画のみならず、小説でも演劇でもお笑いでも、あらゆるエンターテイメントにいえることだが、これらのものには「おもしろくないもの」も存在する。
いや、世に出ている全作品を並べてみたら、むしろ「おもしろくないものの方が圧倒的に多い」のだ。
本なんて1日平均200冊以上のペースで出版されているけど、読むに値するものが同じペースで生産出来るとはとても思えない。スポーツだって「名勝負」と言われる試合を毎週やっているわけでもない。
「すごいヤツラ」というのは、本当に氷山の一角なのだ。
実際のところ、これが初心者がおちいりやすい罠である。
映画のみならず小説でも演劇でもマンガでも、店の「名作」「おすすめ」コーナーなど見るものは、その多くが、好みの差こそあれ長年の風雪に耐えて残ってきた、それだけのクオリティーと普遍性を持った作品なのである。
なので、ついついそれが判断の基準になってしまう。
『2001年宇宙の旅』とか『七人の侍』とくらべて、映画というのは、
「全部、これみたいなレベルのものなんや」と。
ちがう、ちがう、そんなことないねん!
当たり前のことですが、同じ映画でも、ロマンスでも、『ローマの休日』と『ハルフウェイ』を一緒にしたらあかんのです。
そう、かの有名な「すべてのものの80%はクズ」という『スタージョンの法則』のごとく、映画の世界は100にひとつの名作と、20くらいのそこそこの映画、で残りの80が、まあ『死霊の盆踊り』とか『シベリア超特急』で、できてるもんなんですわ!
そのことに、ようやっと気づいたヒラカタ君は、
「そうなんやなあ。世の中には、おもしろくない映画ってのが、山ほどあるんや。そんな当然のことに、なかなか思い至れへんかった」
その通り。友が映画を見て「つまらない」と感じたのは彼のせいではなく、
「そもそも映画というのは、基本的につまらないものだ」
ということを知らなかったからなのである。
もっと細かく言えば、そこからも「いい出来なのはわかるけど、感性が合わない映画」や、「たぶんおもしろいんやろうけど、自分の人生にはそんなに必要のない映画」なんかもあって、それらもふるい落とされることになる。
だから、映画なんて「しょうもなくて当たり前。でも、たまにいいのに出会えたらラッキー」くらいの態度で見るのが正しいのだ。
なんていうと、ずいぶんとネガティブというか、シニカルな発想だと思われる方もおられるかもしれないが、そうではない。
映画とは、いやそれにかぎらず小説でもマンガでもなんでも、すべて膨大なハズレの中から見つけた自分だけの名作が、その人の人生を180度変えてしまうような可能性を秘めている。
どれだけ連続三振を食らっても、そののちに生まれたホームランが、もうすべてを帳消しにしてしまうほどに胸を打ち、人生の美しさを再認識させ、たとえようもない勇気を与えてくれることがある。
だからこそ「80%がクズ」だとしても、芸術とはすばらしいものなのだ。
そういう結論になると、どうしてもこういう問いも発生しよう。
「えー、じゃあ、おもしろい映画って、どうやって探したらいいの?」
これはもう解答はひとつしかなくて、
「目から血が出るくらいにハズレ映画を引くしかない」
ある程度自分の好みや、映画の知識や、信頼できる(もしくは感性の合う)評論家と出会えるまで、ひたすら無駄金を払う。
これしかない。
下手な鉄砲方式だ。「えー、そんなの大変だからイヤー」という人には残念だが、グルメ情報にしても異性を見る目にしてもゲームや電化製品にしても、
「これでもかというくらい、相手にだまされる」
ことでしか、当たりを見抜く目や運は培えないのだ。そのことを、ヒラカタ君は『シベ超』から学んだのである。
それと同時に、ヒラカタ君はもうひとつの映画的真理を学んだそうだ。
(続く→こちら)
映画を趣味にしようとしたのはいいが、「全米大ヒット」「『アルマゲドン』より泣きました」みたいな作品にちっとも感動しない友人ヒラカタ君。
それを、「これを楽しめないのは、自分の理解力が足りないのでは」と解釈し、劣等感にさいなまれていた友だが、あるとき突然それが晴れることになる。
そのきっかけが、かの名作『シベリア超特急』であったのだ。
ある夜の出来事。ヒマだし深夜映画でも観るかと、何気なくテレビをつけると、そこで放送していたのが『シベ超』だった。
ヒラカタ君は当時、まだこの作品のすごさを知らなかったので、
「へー、水野先生が映画作らはったんや。あんな有名な人やから、きっとおもしろいもん撮りはったんやろうなあ」
そんな期待をしながら観ていたら、
「なんやそれ!」「んなアホな」「えー、そんなんありえへん!」「ショボ!」「ダッハッハ、水野センセ、それマジで言うてはるの?」
意味不明の脚本、ショボイ特撮、マイク水野の棒読みセリフ。
開始直後から最後の瞬間まで間断なく、全編がつっこみどころの嵐だったのである。
あまりに笑いすぎて腹は痛いは涙は止まらないわで、気持ちにおさまりがつかなくなった友は、深夜にも関わらず電話をかけてきた。
寝入りばなたたき起こされて、ぼけているこちらにかまわず、
「『シベ超』ってすごいなシャロン君。オレ感動した!」
こっちはまだ半分寝ているので、ムニャムニャ「なんのこっちゃ」と返事すると、友が言うには、
「オレ、映画の本質がわかった。今までのオレの映画鑑賞法は間違ってた」
そして、こう続けたのである。
「映画って、ホンマは別に、おもしろいもんやないねんな」。
これだけ聞いても、なにが友をそんなにも揺り動かしたのかわかりにくいだろうからここに説明すると、映画のみならず、小説でも演劇でもお笑いでも、あらゆるエンターテイメントにいえることだが、これらのものには「おもしろくないもの」も存在する。
いや、世に出ている全作品を並べてみたら、むしろ「おもしろくないものの方が圧倒的に多い」のだ。
本なんて1日平均200冊以上のペースで出版されているけど、読むに値するものが同じペースで生産出来るとはとても思えない。スポーツだって「名勝負」と言われる試合を毎週やっているわけでもない。
「すごいヤツラ」というのは、本当に氷山の一角なのだ。
実際のところ、これが初心者がおちいりやすい罠である。
映画のみならず小説でも演劇でもマンガでも、店の「名作」「おすすめ」コーナーなど見るものは、その多くが、好みの差こそあれ長年の風雪に耐えて残ってきた、それだけのクオリティーと普遍性を持った作品なのである。
なので、ついついそれが判断の基準になってしまう。
『2001年宇宙の旅』とか『七人の侍』とくらべて、映画というのは、
「全部、これみたいなレベルのものなんや」と。
ちがう、ちがう、そんなことないねん!
当たり前のことですが、同じ映画でも、ロマンスでも、『ローマの休日』と『ハルフウェイ』を一緒にしたらあかんのです。
そう、かの有名な「すべてのものの80%はクズ」という『スタージョンの法則』のごとく、映画の世界は100にひとつの名作と、20くらいのそこそこの映画、で残りの80が、まあ『死霊の盆踊り』とか『シベリア超特急』で、できてるもんなんですわ!
そのことに、ようやっと気づいたヒラカタ君は、
「そうなんやなあ。世の中には、おもしろくない映画ってのが、山ほどあるんや。そんな当然のことに、なかなか思い至れへんかった」
その通り。友が映画を見て「つまらない」と感じたのは彼のせいではなく、
「そもそも映画というのは、基本的につまらないものだ」
ということを知らなかったからなのである。
もっと細かく言えば、そこからも「いい出来なのはわかるけど、感性が合わない映画」や、「たぶんおもしろいんやろうけど、自分の人生にはそんなに必要のない映画」なんかもあって、それらもふるい落とされることになる。
だから、映画なんて「しょうもなくて当たり前。でも、たまにいいのに出会えたらラッキー」くらいの態度で見るのが正しいのだ。
なんていうと、ずいぶんとネガティブというか、シニカルな発想だと思われる方もおられるかもしれないが、そうではない。
映画とは、いやそれにかぎらず小説でもマンガでもなんでも、すべて膨大なハズレの中から見つけた自分だけの名作が、その人の人生を180度変えてしまうような可能性を秘めている。
どれだけ連続三振を食らっても、そののちに生まれたホームランが、もうすべてを帳消しにしてしまうほどに胸を打ち、人生の美しさを再認識させ、たとえようもない勇気を与えてくれることがある。
だからこそ「80%がクズ」だとしても、芸術とはすばらしいものなのだ。
そういう結論になると、どうしてもこういう問いも発生しよう。
「えー、じゃあ、おもしろい映画って、どうやって探したらいいの?」
これはもう解答はひとつしかなくて、
「目から血が出るくらいにハズレ映画を引くしかない」
ある程度自分の好みや、映画の知識や、信頼できる(もしくは感性の合う)評論家と出会えるまで、ひたすら無駄金を払う。
これしかない。
下手な鉄砲方式だ。「えー、そんなの大変だからイヤー」という人には残念だが、グルメ情報にしても異性を見る目にしてもゲームや電化製品にしても、
「これでもかというくらい、相手にだまされる」
ことでしか、当たりを見抜く目や運は培えないのだ。そのことを、ヒラカタ君は『シベ超』から学んだのである。
それと同時に、ヒラカタ君はもうひとつの映画的真理を学んだそうだ。
(続く→こちら)