前回(こちら)の続き。
大山康晴名人(王将・王位)に中原誠十段・棋聖が挑んだ、1972年の第31期名人戦。
開幕局を制したのは「若き太陽」中原だった。
本人も「会心の一局」という完勝劇で、対戦成績や(中原から見て27勝18敗、タイトル戦は5勝2敗)24歳と49歳という年齢差を考えれば、
「新名人誕生」
で決まりと言いたいところだが、そうは問屋が卸さないのが「昭和の名人戦」のおそろしさ。
なんと戦前の予想では圧倒的に「大山防衛」に傾いており、実際、百戦錬磨の大名人が、ここから底力を徐々に発揮しはじめるのだ。
明けて第2局。大山のツノ銀中飛車に中原は棒銀。
「自然流」中原の攻めを「受けの大山」が迎え撃つ、という棋風通りの展開で激しいつばぜり合いとなったが、終盤で△54歩と打ったのが、『現代に生きる大山振り飛車』という本の中で、藤井猛九段や中川大輔八段もうなった一着。
意味としては、中央を制圧している銀にプレッシャーをかけて、攻めを催促しているわけだが、これはムチャクチャに怖い手である。
銀を取られたら攻めが切れてしまうから、ここから先手は、死に物狂いの猛攻を仕掛けてくるのは目に見えている。
後手は玉が露出している一方で、先手は攻め駒が豊富だし、玉はどれだけ駒を渡しても詰まない鉄壁ときている。
この形から力まかせにガリガリ来られてしまうと、まず銀を取り切ることは不可能で、そうなれば、このいそがしい場面での△54歩は、まったくの一手パスになってしまう可能性が高いのだ。
それだったら、△36角とか攻防手っぽいのを指したいのが人情だが、そこを堂々と「やってこい」と。
この度胸が、並ではない。
いや、それは的外れな感想か。
その後の大山の指し手を見れば、これは決して「度胸」などという、あやふやなものに立脚したものではないのだから。
「寄せあり」と見た中原は、▲86桂と王手。
△73玉に▲74銀と追って、△72玉に▲73銀打と強引にかぶせていく。
△同桂、▲同銀成、△同玉、▲85桂、△72玉に▲73飛と打って、この場面。
ほとんど一本道で進んだ、この局面。中原は勝ちを確信していた。
いや、挑戦者だけではない。検討していた関西の二大エース内藤國雄八段と有吉道夫八段(今で言えば斎藤慎太郎や菅井竜也みたいな存在か)もまた「先手勝ち」と断定していた。
さもあろう。△62に逃げても△82にかわしても、▲74桂から自然に追っていけば、▲33のと金も好位置で、角の質駒もあり、どうしても後手玉は逃げ切れないのだから。
ところがこの場面は、ハッキリと大山が読み勝っていた。
将棋の常識には本来ないはずの、すごい受け方があったのだ。
「玉は下段に落とせ」
という格言にしたがえば、ふつうは一番あり得ない逃げ方であり、▲83飛成をゆるしては、その時点でお終いと、思いこんでしまうものだ。
そこを、あえて逆張りの方向へ逃げて、しのいでしまう。
これこそが、「受けの大山」の真骨頂である。
完全に読み負けていた中原は、愕然としたことだろう。
以下、▲83飛成、△82歩、▲73桂不成、△71玉、▲61桂成、△同銀、▲72歩、△同銀、▲53竜、△61銀打まで進めば、大山玉にまったく寄りがないことは明白だ。
結果もさることながら、「上を行かれた」負かされ方は、さすが楽観派の中原もこたえたようで、
「あの玉が寄らないなんて、信じられない」
ショックを引きずってしまうこととなる(棋譜はこちら)。
続く第3局で、そのダメージがモロに表出してしまった。
大山の四間飛車に、中原は引角にする工夫から、ふたたび棒銀で仕掛けていくが、ここで信じられな大ポカをやってしまう。
図は後手が△72飛と、金取りに寄ったところ。
まだ駒がぶつかったばかりで、これからの将棋に見えるが、実は次の手で試合終了なのである。
▲85金と捨てるのが、一撃必殺の強烈なアッパーカット。
△同銀は▲33角成から▲72飛成と飛車を素抜いておしまい。
先に△77飛成として、▲同飛に△85銀なら一瞬金得だが、やはり▲72飛成と成りこまれてしまう。
2枚飛車はきびしいし、駒得など桂香を取られてすぐ解消されるし、どちらにしても△85に取り残された銀がヒドすぎる。
なんと中原は、この手をウッカリしたのだ。
たしかにこの金捨ては妙手ではあるが、純粋に盤面だけ見れば、そんなに難しいものではない。
いい手があるとわかっていれば、私レベルでも発見できるだろう。
「次の一手 初段コース」くらいの難易度で、これが見えなかったなど、通常ではありえないではないか。
この手を見た中原は、2時間におよぶ大長考の末、なんと△73銀と引いた。
これまたすごい手で、自分の間違いを完全に認めた、土下座中の土下座。
苦渋の辛抱を通り超えた、ありえない大屈服で、プロなら死んでも指さないという、屈辱きわまりない命乞いである。
さらには、▲74歩の追撃にも△62銀(!)。
一歩取られた上に、その金が▲74の歩と連動して大イバリ。
銀の撤退は何手損したかわからないくらいだし、飛車も押さえ込まれてヒドイ。
それでも指したのは、中原もまた名人にかける想いが並ではないことを示しているが、局面自体はすでに大差で、以下、先手が勝ち(棋譜はこちら)。
これで、大山が白星先行。
中原からすれば緒戦の快勝から一転、イヤな負け方が続いて、頭上に暗雲が立ちこめつつあったのを感じていたことだろう。
(続く)