前回(こちら)の続き。
大山康晴名人(王将・王位)に中原誠十段・棋聖が挑んだ、1972年の第31期名人戦は第3局まで終わって2勝1敗と大山がリード。
初戦は中原が快勝するも、
「番勝負は2戦目が大事」
という大山が、その言葉通り得意のしのぎの技を見せて第2局をものにすると、第3局はそれを引きずったか、中原が名人戦史上に残る大ポカを披露してしまい「一手バッタリ」の中押し負け。
挑戦者には嫌な流れだが、第4局でも調子は戻らず、またも序盤で見落としが出てしまう。
△75飛と打たれた局面だが、これが王手桂取りになっている。
この飛車打ちの前の手が▲85桂で、銀が逃げれば▲63歩成だから、銀桂交換になると目論んでいたところ、このシンプルな切り返しを中原はウッカリした。
これまた第3局に続く初心者のようなミスだが、中原にとって幸いだったのは、△85飛と取った形が案外働かなかったことと、ここで返し技をひねり出せたこと。
△75飛以下、▲76歩、△85飛に▲44角と飛び出すも、△45歩と角を責められて息苦しく見える。
▲55角上しかないが、△同銀にそこで▲55同角ではなく、逆モーションで▲11角成としたのが、うまい手だった。
以下、△64銀に▲21馬と桂馬を取って、△42飛に▲77桂、△84飛、▲86香と飛車を殺して先手が指せる。
そこから大山もねばりを見せるが、チャンスを生かせず中原が逃げ切った。
危ないところをしのいで、これで2勝2敗のタイに戻ったが、あんな簡単な手が見えないようでは、やはりまだ中原は本調子とは言えなそう。
続く第5局で、中原は第2局、3局に続き、またも棒銀を採用する。
一度も勝ててない戦法に、あえてこだわるあたり、中原も意地になっているが、振り飛車らしいカウンターが冴え、大山が圧勝する。
これで3勝2敗と、名人が防衛にリーチ。
スコアのみならず、将棋の内容でも大山のペースで進行しており、報道でもまだ5局しか終わってないのに、
「名人戦はいよいよ大詰めをむかえた」
といったような書き方をしていたそうだから、だれもが、このまま波乱なく終わると感じていたようなのだ。
では、追いつめられた中原は、このときどういう心境だったのか。
『将棋世界』誌が中原に行なったインタビュー記事「我が将棋人生」によると、このシリーズはハッキリ「勝てないと観念した」と語っている。
続けて、
「棒銀が全然通じない」
「受けが強くて、どうしようもない」
「今年はあきらめろと、自分に言い聞かせました」
ネガティブな言葉がこれでもかと並んで、大勢と同じく、すでにあきらめムードだったのだ。
他では圧倒していたはずの対大山戦だが、ことこれが名人戦となると話がまったく変わってくるのだから、昭和の棋士にとって、このタイトルがいかに特別だったかわかろうというものだ。
そしてここで、もうひとつ有名な話があり、中原は第6局以降、逆に自分が振り飛車をやろうと決意する。
振り飛車もやらないことはないが、基本的に当時の中原は矢倉を中心とした居飛車本格派で、いくら負けを覚悟したからといって、大舞台でなれない戦法を選ぶことは勇気が必要だろう。
中原からすれば、そのリスクをしょってでも、あえて大山に自身の得意戦法である振り飛車をぶつけてみたかった。
その心は、もちろん次の対戦にそなえてのことだが、ここで伝説ともいえる中原のコメントがあり、
「次期のA級ではかならず1位になれる。だから逆に振り飛車を教えてもらおう」
このエピソードを著書などで何度も紹介していた河口俊彦八段によると、これはこの名人戦から10年以上たったころ、銀座のクラブで中原の口から出たものだそう。
河口八段自身、初めて聞く話で、個人的な飲みの席で(棋士も2人だけでなく複数いた場だった)ポツリともらしたことだから、かなりリアルな話ではある。
ちなみに河口八段は、事実よりも「物語性」「推測」「願望」を重視する書き手で、自身も『将棋世界』の木村義雄十四世名人のことを描いた連載でハッキリ、
「事実に基づいた評伝は、読んでいてあまりおもしろくない」
ということで、自分はそうでない風に書くという「おもしろ優先宣言」をしていたほど。
だから、ファクトに関しては相当いい加減というか、まあ「小説」として読むくらいがちょうどいい(そして、それがめっぽう「おもしろい」)んだけど、この件に関しては中原自身も、
「当時は、それくらい自信を持っていました」
みたいな内容のことをインタビューで認めていたので、どうやら本当のことのようだ。
すでにいくつものタイトルを獲得し、A級で全勝して挑戦権を得ているのだから決して過信ではないが、それにしても、すごい迫力だ。
後年、これを聞いた藤井猛九段は、
「今の羽生さんも心の中ではそう思ってるんじゃないかな」
そんな感想を述べたが、あの羽生善治九段だって初の名人獲得から4期目で防衛に失敗すると、その後5年は挑戦者になれなかった。
これにより、「永世名人」の座を森内俊之九段に先んじられることになってしまったわけだが、その森内九段もまた、名人獲得には25歳での初挑戦から6年かかっている。
どんな強者でも「かならず」なんて、決して言い切れるものではないのだ。
この自信と図太さ、そして一度死んだ開き直りから、決まったと思われたシリーズはまたも揺れ動くこととなる。
そしてその原因は、今度は盤石の態勢を敷いていたはずの大山の乱れだというのだから、勝負の流れというのは本当に読めないものである。
(続く)