人の指す将棋のおもしろさは「悪手」や「フルえ」にこそある。
前回(→こちら)は森下卓九段が、名人戦でやってしまった大ポカを紹介したが、今回は
「史上最年少タイトル獲得」
の記録を持つ屋敷伸之九段。
といっても、本日のは正確には屋敷のそれではなく、対戦相手だった塚田泰明九段がやってしまったもの。
とはいえ、これがまた舞台設定的に「歴史を動かした」感が半端ではなく、今回はその主役を屋敷とさせていただいた。
屋敷伸之といえば、16歳のときに、三段リーグを1期抜けして四段プロデビュー。
16歳で四段というのは、それだけでも将来のA級候補だが、なんせ時代は
羽生善治、佐藤康光、森内俊之、村山聖、先崎学
といった面々が、次々プロ入りして大活躍していたころ。
スター過多の時代にあって、当初屋敷はまだ「有望な若手の一人」といったあつかいであった。
そんな屋敷が名をあげるのに、時間はかからなかった。
1989年後期、第55期棋聖戦で準決勝で塚田泰明八段、挑戦者決定戦では高橋道雄八段。
タイトル経験もある「花の55年組」の実力者を破って、いきなり檜舞台へ。
初の大舞台でも、中原誠棋聖を相手にフルセットまでもつれこむ健闘を見せ、敗れたものの、その存在を存分にアピールしたのだった。
これだけでも十分にすごいのに、さらに屋敷がその破格さを見せつけたのが、翌56期棋聖戦。
ここでも、ふたたび本戦トーナメントをかけ上がり挑決へ。
相手は前期も戦った塚田泰明だが、ここでも負けては先輩の名が泣くと、屋敷を追いこんでいく。
塚田の玉頭攻めが決まって、屋敷玉は陥落寸前。
△55と△65への銀の進出が受けにくく、▲79に金の質駒もあり、受けるのは難しそうだ。
絶体絶命の屋敷は▲72桂成と、とりあえず王手する。
先手がここを「ねらっていた」のか、それとも形作りのつもりだったのか。
はたまた金を手にして、もうひと粘りしたかったのかは不明だが、後手からすると、さほど脅威のない手である。
われわれでも指すであろう、△同角と取れば、後手玉はまだ安泰。
一方、先手はやはり危機的状況で、塚田が勝ちだったはず。
ところが、塚田はこれを△同玉と取ってしまう。
これが、ありえないオウンゴールで、みなさまもなにが悪いのか考えてみてください。
そう、むずかしく考えると、かえって思いつかないかも。
平凡に▲62金と打って、升田幸三流にいえば「オワ」である。
以下、△82玉、▲71銀、△92玉、▲84桂までで、あまりにもそのままな「並べ詰み」なのだ。
控室では、△72同玉の瞬間に、
「えーーーーー!!!!!!!」
将棋会館の建物をゆるがすほどの、叫び声が響きわたったという。
おそらくは、対局室にいた2人にも聞こえるほどの。
それくらいに、衝撃的な大トン死だった。
急転直下の終局後、塚田はとんでもない量の汗をかいていたというが、理解はできる。
かかっていたのは、タイトル戦の挑戦権なのだ。
プロの終盤戦というのは難解であり、だからこそ、まさかの▲62金という、俗のうえにも俗な王手をウッカリしたのだろうか。
ちなみに、▲72桂成、△同角に▲54歩と銀をとっても、△79飛成と詰めろで金を取る筋があって、後手の攻めは続いていた。
そこを、この驚愕の大トン死。
そして、この将棋のなにが歴史的なのかといえば、このポカがなければ屋敷の、
「史上最年少のタイトル獲得」
はなかったかもしれないからだ。
もちろん、結果は勝ったのだから「それも実力」という声もあろうが、藤井聡太四段誕生が三段リーグのラス前で敗れ、「他力」になったことといい、
「一瞬、運命が自分の手をはなれた」
そんな瞬間だったことは間違いない。
「史上最年少の屋敷棋聖」も、「藤井フィーバー」も、本来ならば
「彼ら自身の力ではどうしようもない」
という状況になっていたことはたしかなのだ。
いかに彼らが強かろうが才能に恵まれようが、このとき歴史は「主人公」になった彼らではなく、塚田泰明や「自力」を手にしていた他の三段たちの手の中にあったのだから。
運命は自分自身の力で、コントロールできるとはかぎらない。
だとしたら、人生における「成功」「結果」とはなんなのか。
もちろんそれは称賛されるべきだが、そのことを世界の「判断基準」にすることは、果たして正しいのか。
そんなことを考えさせられた、あまりにもすごいトン死だったので、今でも憶えているのだ。
(羽生と谷川の名人戦編に続く→こちら)