人の指す将棋のおもしろさは「悪手」や「フルえ」にこそある。
前回(→こちら)は「最年少タイトルホルダー屋敷伸之棋聖」を生んだ塚田泰明九段の大トン死を紹介したが、今回は豪華に、羽生善治と谷川浩司のW主演。
それも、名人戦という大舞台で起こった、とんでもない事件を取り上げたい。
1997年に行われた、第55期名人戦。
ときの名人である羽生善治に、谷川浩司が挑戦したシリーズでのこと。
プロなどのハイレベルな将棋というのは、もうあきれるほどに難解で、特に終盤は「悪手の海」と呼ばれるほど変化が多い。
けど、対局者が強くて信用されている場合、おかしな手でも
「それが、本当に悪い手かどうか」
が、わかりにくいことがある。
いわゆる「羽生ブランド」と呼ばれるもので、
「こんな強い人が、こんな簡単なミスなどするはずがない」
そう思いこんでしまうからだが、ここに「超」がつくブランドが2人いるから、よけいに話がややこしい。
そこで「え?」という手がどちらからも出ると、なにが起こったのか、わけがわからない、ということになる。
問題となったのは、開幕局のこの局面。
後手の羽生が、△85にいた飛車で、▲65の銀を取ったところ。
局面は、ぱっと見、先手が行けそうに見える。
先手の玉は危なそうだが、まだ、いきなりの詰みはない。
△67飛成と取られると受けが難しいが、まだ1手の余裕がある。
なら、ここから後手玉に「詰めろ」の連続で迫れれば勝ちだ。
で、この後手玉がどうなのかといえば、これがいかにも寄りそうである。
▲15の桂が急所に刺さっているし、馬も左辺の制海権を押さえている。
銀桂の持駒もあるし、どこかで▲28の飛車や、▲46の銀も働いてきそうだ。
ましてや、指しているのが「光速の寄せ」の谷川浩司竜王。
鋭い一手で決着をつけるにちがいない。と思われていたところに、▲41銀という手が放たれた。
この銀打ちは、いかにも筋という形。
放っておくと▲32銀成、△同玉、▲41角など、きびしい攻めをねらっている。
というか、後手玉は詰みそうだ。
かといって、△63飛と馬をはずして受けに回っても、▲32銀成、△同玉、▲23桂成を△同玉と取れない(▲41角と打って王手飛車)ようでは、とても後手陣はもたない。
となると、後手に指す手がないことになる。
手段に窮した羽生は長考に沈むが、果たしていい手はあるのか。
なさそうだなあ。谷川先勝か。
これでシリーズはおもしろくなるぞ、なんて、すっかり打ち上げ気分でいると、だれかが、こんなことをつぶやいた。
「で、これって、どうやって詰むの?」
いやいや、どうやって詰むのって、どうやっても詰みに決まってるじゃん。
大盤解説も、控室の声も、われわれ視聴者の、そのすべてがそう思っていた。
いや、確信していた。
詰むに決まってる。
だが、みな心の中で、ひそかには感じてもいたのだ。
じゃあ、具体的にはどういう手順で?
実を言うと、これがなかなか見えない。
どうやっても詰みそうだが、意外と後手玉にねばりがある。ああやって、こうやって、あれ? なかなかつかまらないぞ。
なんとなく落語「うなぎ屋」の気分になったところで、場が異様な雰囲気につつまれていることに気がついた。
あれ? これって詰まないのでは? 少なくとも、自然に追って詰みということはない。
てことはウッカリ? いや天下の谷川がまさか。
きっと、みなが気づかない絶妙手を、用意しているにちがいない。
でも、それってどんな手なの? てゆうか、本当にそんないい手があるの? でも……え? え?
パニックにおちいるのは当然だ。
もしここで谷川に錯覚があって、後手玉が詰まないなら、△67飛成と取って後手勝ちになる。
だとしたら大事件だ。
てゆうか、これを詰まないと看破して、この順を選んで勝ったら羽生すごすぎない?
もしかしたら、必殺に見えた▲41銀は、すべてを悟って首を差し出した「形作り」ということなのか。あれが後手勝ちなの?
でも、こんなすごい形作りってあるんかいな。これもまた「羽生マジック」か。え? マジで?
ところが、ここで指された羽生の手が、また驚愕の一手だった。
なんと△63飛と、馬を取って受けに回ったのだから。
(続く→こちら)