「天国のおばあちゃんに、この本を読んでほしかったなあ」
というのが、蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』を読み返すたびに思うことだ。
蔵前仁一さんは20代のころ、はじめて旅したインドに当てられて、アジアやアフリカなどを経めぐるバックパッカーになった。
帰国後は『ゴーゴーインド』『旅で眠りたい』など、旅関係の著作やイラストレーターとしても活躍され、売れっ子作家に。
また、『遊星通信』というミニコミから発展していったバックパッカー専門誌『旅行人』(現在は休刊中)の編集長もつとめる。
そこでも、グレゴリ青山、宮田珠己、岡崎大五など多くの実力派クリエイターを発掘し世に送り出してきた、旅行好きの中では知る人ぞ知る有名人なのである
この『あの日、僕は旅に出た』は蔵前さんがデザインなどの仕事を辞めてインドに出かけた経緯や、その後、吹けば飛ぶようなコピー誌だった『旅行人』が、いかにして立派な(?)出版社になっていったかを中心に語った自叙伝だ。
私も旅行好きで、『旅行人』を定期購読し、蔵前さんの著作は全部持っているという大ファンなので、この本に書かれたエピソードは、どれも興味深く読んでいて、でもって思うことが、冒頭のこと。
「うちのおばあちゃんに、ぜひこれを手に取ってもらいたかったものだ」。
というと、わが愛する母方のばあちゃんが、旅行好きだったのか、はたまた旅にあこがれていたのに果たせなかった想いがあったのか。
といえば、これがそういうわけでもなく、それどころかむしろ、ワーカホリック的なところがある働き者。
根っからの商売人で、西日本のとある街にかまえた自分の店をせっせと切り盛りし、空いた時間は地域の活動や、ボランティアにはげんだり。
とにかくよく動き、世話焼きで、いつ寝ているのかというくらいにアクティブな、バックパッカーの真逆ともいえる仕事人間なのだ。
そんな「止まったら死ぬ」系のばあちゃんの口癖が、
「お兄ちゃん、大人になったらエライ社長になるんやで」。
大東亜戦争や敗戦後の混乱期、その後の高度経済成長。
そんな激動の日本を生きてきた我がおばあさまは、今は死語となった「立身出世」という言葉を、まだリアルに感じていた世代の人だった。
とはいえ、単純に勉強だけしてサラリーマンや役人になっても、人に使われるのはバカバカしい。
まだ女性の地位が低かった昭和期に、女手ひとつ小さいながらも一国一城の主でやってきた我がおばあちゃんは、
「男の子はかしこいだけではアカン。独立して自分の店をもって、社長にならな甲斐がない」。
しょっちゅう孫たちに口にしていたのだ。
これに対して、いつも私は
「いや、ボクはそういうガラちゃうから。社長とかムリやし、そもそもビジネスとか、そんなん全然興味もわかへんよ」
なんて笑っていたのだが、どうもばあちゃんは私の学校の成績が、そこそこよかったのを見て、
「勉強ができる=頭がいい=仕事も有能にちがいない」
といった、昔の人にありがちな方程式を抱いていたっぽいのだ。
いや、偏差値とその人の有用性は、リンクしてるようなしてないような……。それに勉強できるいうても、別に学年トップとかでもないわけで……。
偏差値と能力の関連に対する意見は様々ですが、まあ、こればっかりはケース・バイ・ケースで人によりますよねえ。
そんな筋違いな期待を受けていた私が、ぜひともこの蔵前編集長の本から、おばあちゃんに伝わってほしいのは、
「蔵前仁一の軽妙洒脱な文章」
でも、
「旅のすばらしさ」
でもなく、
「金やビジネスや地位や名誉に、興味もなんもないバックパッカーが社長になると、こういうことになりまっせ」。
という、「実録・スチャラカ社長シリーズ」としてのレポートとしてなのである。
(続く→こちら)