ジェットコースターの楽しさがよくわからない。
世の中にはジェットコースターや絶叫マシンが好きな人というのがいる。
よく休みになると遊園地に出かけて、高いところから落ちたり、空中で飛んだり回ったり華麗なツイストを決めたりして遊んでいる。
特に男子よりも女子の方が肝が据わっているのか、男が涙目で鼻をたらしながら「ヒイイイイ!」とか言うてる横で、女子たちはキャーキャーいいながら、なんとも楽しそうに乗っている。
なんなら、乗り終えたあともう一度乗ったりしている。女というのはタフである。
そんなジェットコースターであるが、どうもその魅力というのがよくわからない。
あれの、なにが楽しいのか。
まず、ジェットコースターというのは恐怖を味わうものである。
それがよくわからない。私はそれほど怖がりというタイプではないが、恐怖が快感であるという感覚がない。だから、お化け屋敷の類も興味がない。
人生には普通に生きていても、まだ給料日まで5日もあるのに財布に652円しかないとか、パソコンが壊れて5時間かけて集めた桃色遊技的動画がすべて消えてしまったとか、恐怖に凍りつくような事象が数え切れないほどある。
なのになぜ、わざわざ自分の意志で、しかも金を払ってさらに恐怖の数を増やすのか。頭がおかしいのではないか。そこが疑問である。
さらにいえば、ジェットコースターは基本的人権を無視している。
日本国憲法によれば、日本人は最低限文化的な生活を送る権利があるはずである。
にもかかわらず、ジェットコースターにしろフリーフォールにしろ、あとはバンジージャンプとかも、人を拘束し、逃げることをかなわぬようにしたうえ、上に行ったり下に行ったり、左右に揺さぶったり、果てははるか高みからつき落としたりする。
これは人権無視を通り越して、ほとんど拷問である。もし、地球の文化をまったく知らない異星人が予備知識なくこれを見たら、
「この地球と呼ばれるM240惑星の人々は、なんと野蛮な人種なのか」
とおそれおののき、我々の宇宙とのコンタクト、銀河連邦への加入の夢はきっと1000年は遅れることであろう。無念である。
それほどのリスクを犯してまで、人類は絶叫マシンに乗る必要があるのか。いま一度、我々は考えてみるべきではなかろうか。
などと語っていると、無責任な外野からは、
「で、結局のところビビってるってことだよね」
などという声が聞こえてきそうであるが、それはもちろんのこと大いなる邪推であり、おそらくは私のことをおとしめようとするフリーメーソンの陰謀であると考えられる。
(続く→こちら)