「ここで1手、落ち着いた手を指せれば勝てましたね」
というのは、駒落ちの指導対局で負けたときなどに、よく聞く言葉である。
将棋というのは
「優勢なところから勝ち切る」
というのが大変なゲームで、手こずっているうちに、いつのまにかおかしくなり、あせってあわてて、ついには逆転。
ガックリ肩を落としながら、
「ここで1手、落ち着いた手を指していたら……」
今回は、そういうときに参考になる将棋をご紹介。
2013年の、第71期A級順位戦最終局。
谷川浩司九段と屋敷伸之九段の一戦は、世にいう
「将棋界の一番長い日」
で行われた戦いだ。
順位戦の最終局というと、それだけでも大きな戦いだが、この一番はそれにも増してドラマの要素をはらんでいた。
それは、
「谷川浩司、ついにA級から降級か」
谷川といえば、十七世名人の資格を持つ大棋士だが、年を重ねるごとに常連だった挑戦権争いから、少しずつ下を見る戦いも経験するようになってくる。
この期の谷川は、ここまでわずか2勝。
それでも、勝てば残留だが、負けると順位下位の2勝者が2人とも負けてくれないと落ちてしまう。
つまりは、ほとんど勝つ以外ないような状況だったが、ここで対戦相手の屋敷が見せた指しまわしが、すばらしいものだった。
戦型は後手の谷川がゴキゲン中飛車を選ぶと、屋敷は居飛車穴熊にもぐる。
中央でもみ合いがはじまり、むかえたこの局面。
屋敷が馬を作っているが、谷川も金のハンマーをぶん回して対抗。
勝負はこれからに見えたが、ここから見せた屋敷の構想がうまかった。
▲66歩と打つのが、気づきにくい好手。
飛車と馬の利きを止めてしまうため、一目は筋悪だが、これが形にとらわれない着想。
△76金とかわしたところで、▲35歩と角を遮断。
後手は△65歩と合わせるが、いかにも重い攻めで、そこを軽やかに▲28飛。
これで角の行くところがない。
これが▲66歩、△76金の交換を入れた効果で、後手は角を取られると▲85角が痛打になって、とてももたないのだ。
谷川は△66歩と攻め合いに活路を見出すが、さわやかに▲26飛のタダ取り。
それでも△67歩成と、と金を作って相当に見えるが、そこで待望の▲85角。
後手は両取り逃げるべからずで、△68とと食いつく。
この局面、金が取れそうな先手が優勢だが、後手も穴熊のカナメである▲79の金をけずり、自陣も無傷で、まだ戦えそうに見える。
だが、ここで屋敷はさすがという決め手を放つ。
▲29飛と引くのが、すばらしい落ち着き。
遊び駒を活用する、まさに指がしなる手で、私もテレビで見ていて「ピッタリやなあ」と思わず声が出たものだった。
「この手を発見して手応えを感じた」
屋敷本人も自賛するが、それに値する局面だ。
ここを単に▲76角は△79と、▲同銀、△69飛成で、まだむずかしい。
▲29飛以下、△67飛成、▲76角、△同竜、▲68金と局面をサッパリさせて先手勝勢。
こうなると、先手陣にイヤミがなくなって、後手の銀損だけが残る展開。
まさかの結果に、
「谷川時代も終わりか?」
騒然としたものだが、同じ2勝で順位下位の高橋道雄九段と、橋本崇載八段が敗れたことによって、辛くも降級をまぬがれたのであった。
(落ち着いた勝ち方に置いて、この巨人に勝る人はいない)
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