青い鳥の世界へ

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尊厳

2012年10月27日 | 宗教観

「尊厳」とは一般に、「命の尊厳」という風に使われる。
そしてこの「命の尊厳」ということは、別な言い方をすると「人権」となる。「基本的人権」のことだ。
だが我々は、この「尊厳、人権」を、可笑しな事にしている。

象は、自分の寿命を悟といわれる。象は自分の死期が近いのを知ると、ひとり群から離れて象の墓場といわれる、そこへ行く。そして倒れて、生涯を終える。
これは確かなこととは言えないというが、この墓場といわれる所に、何体もの骨格や象牙が重なり合っているということだから、無視する訳には行かないことになる。

他方、我々人間は、病気になったりすると、薬石を投じてもらって治療してもらおうとする。これが難病になると手術となり、更には臓器移植となり、そしてそうしていて寝たきりになっても、何本もの管を付けられるやら電極を付けられるやら、食事の代わりにと腹部に穴を開けてする胃瘻で命を長らえていく。
しかしこの状態になっているものの多くは、認知症か意識がない状態にある。
このままの状態に、果たして「命の尊厳」があるかどうか、問いかけなければならなくなる。

我々は、象のように自らの寿命、それは限界とも、ここまでの結末の人生とも受け止めるという、諦めも必要になるのではないだろうか。
ただ単に何としても命を永らえている事だけに、「命の尊厳」があるとは言えないと思う。
そしてこのような命題を出すのは、「命の尊厳」には、「心の尊厳、精神の尊厳」とが関わり合っていると見なしたいのである。
たとえば厳罰を受けるような犯罪を犯し死刑を宣告された者に対して、「命の尊厳」とか「基本的人権」から死刑停止を受けさせようとしても、その者に「心の尊厳と精神の尊厳」が無いなら、「生命の尊厳」そのものが腰砕けになる。

又「命の尊厳」は、「心の尊厳と精神の尊厳」だけでなく、「自然の尊厳」も無視すべきではない。
これは「三権分立、国家と政府と国民」というように、単に一つのものを尊厳化し尊重するのは、自然の摂理から離れたものになる。

「命の尊厳、心の尊厳と精神の尊厳、自然の尊厳」に心寄せるなら、それは信仰の道、即ち宗教に入り込むことになる。



コメント (1)
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