近江商人屋敷の近くに「海老塚の跡」という史跡を見つけました。
海老塚(天神塚・手鬢塚)の跡
ここは、金堂と竜田との村境にあたり、海老塚という塚があった。海老塚は別名、天神塚・手鬢塚ともいった。
「昔、金堂の産土神を勧請した時、ここで休んだから、塚の名になった」という伝承がある。貞享二年(一六八五)の「祭礼古例之式」(『神祭用記録』)に、祭礼が終わったあと、金堂の安福寺前で七里の神輿がまず別れ、そのあと「天神塚と申所にて位田村神輿、三ヶ村神輿暇乞致し下向仕候」と記されているので、村の境にあるこの塚は、古くは天神塚と呼んでいたようである。
手鬢塚の言われは、弘化五年(一八四八)の「初午祭り」に起きた金堂と川並の騒動にちなむようである。近世には、金堂・川並・位田(竜田)・七里・東之庄(北町屋・市田(竜田)・石川)の村々は、「山之前五ヶ村」として合同で祭礼を行なっていた。『永代記録帳』(金堂文書)には、初午祭りは、金堂の大城神社で行われる祭りであるが、川並からの高張挑灯(提灯)に「川並村八幡宮」と書かれていたことに騒動の端を発し、その挑灯が、どこからか現れた「十歳斗りの童子」に奪い去られたために騒ぎが大きくなった。この騒ぎのいざこざで、鬢の毛を抜かれたり、手を抜かれたりしたため、それらを集めて、宮地より一丁脇に塚を搗き、この塚を手鬢塚と呼んだと書かれている。記述は、いささか大げさで、浄瑠璃の一節を引用するなど脚色もあるようであるが、京大坂から、江戸、長崎までも聞こえたとも書かれ、相当の騒ぎであったことは間違いなく、この騒動を機に天神塚の「てんじん」を「てびん(手鬢)」ともじったものかと考えられる。
海老塚と呼ばれる経緯は、「てびん」が「えび」に訛ったものか、この辺りの古名が、「海老田」であったことにちなむものか、わからない。また、塚の中央に大きな古松があり、一本松の愛称でも呼ばれてきた。現在の松は三代目である。
今は、周りの景観も変わり、昔の言伝えも忘れられがちであるが、この松は、天神塚、手鬢塚、海老塚などの故事をしのぶよすがとなっている。
平成二十三年三月 東近江市教育委員会
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自転車だと偶然通り掛かって発見するものが多いです!