東岡崎駅から徒歩3分、駅の近くに建つ龍海院は、享禄3年(1530年)6月、模外惟俊を開山として、徳川家康の祖父・松平清康が創建し、武運長久の祈願寺としました。
家康の父・松平広忠によって再興された岡崎市内の龍渓院が山の近くにあるのに対して、当寺は海側にあるので、龍海院と名付けられたと言われています。
通称「是之字寺(ぜのじでら)」といい、山門や鐘撞き堂・灯籠など、境内のいたるところに「是」の文字があります。
清康が20歳の時、元旦の初夢に左手に「是の字」を握る夢を見たので、これを模外和尚に占わせたところ
「是の字を分けると、日の下の人となる。是の字を握るは天下を取ることなり。遅くとも、清康公の三代後までには、必ず、天下人が現れるであろう。」と予言しました。
それを聞いた清康は、模外禅師を初代として龍海院を建立。
その予言どおり、三代後に当たる家康は、1603年に天下統一を果たすことになります。同年9月11日付で家康から朱印状を拝領。
本堂
創建以来、本堂は2度再建されました。
1回目は、家康の関東への国替えに伴い、酒井重忠が武蔵・川越(現在の群馬県前橋市)で龍海院を建立したため、岡崎の龍海院は岡崎城主となった田中吉政によって破却されました。その後、1601年(慶長6年)に本多康重によって再建されています。
2回目は、1945年(昭和20年)の岡崎空襲で山門以外が全焼、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風により墓地が大被害を受け、その後、檀家の支援もあり、1972年(昭和47年)に再建されました。
観音堂
三河三十三観音霊場 第7番
鐘楼
地蔵堂
地蔵堂は、岡崎三十六地蔵第29番礼所です。
岡崎三十六地蔵とは、江戸時代後期、1834年(天保5年)の記録で成立が確認される岡崎城下全長約27㎞の地蔵霊場で、地蔵菩薩を念じればどこにでも現れて、すべての人々に救いの手を差し伸べ、どんな苦難からも救済してくれると信じられており、庶民からの信仰を大いに集めました。
(岡崎ルネサンス、Wikipedia参照))