私がソムリエを始めた1980年台は、おそらく樽熟成したシャルドネや「果実味」と言う言葉で括られるカベルネの全盛期だったかもしれません。
それはそれで人気が高く、その頃のお客様は「忘れられない味わい」と好んでいらっしゃたと記憶しています。
赤に関しても若いうちから「丸いタンニン」を持ち素直に美味しいと言えるものでした。
しかし、ある時期=1990年台半ばころからでしょうか?
「シャルドネが消えた夏」なんて言う特集がワインの専門誌で出たり、「Too Oaky」=樽が効き過ぎ、的な表現が増えてきます。
確かに無理やり樽を効かせた、或いはオーク材のスティック的なものを樽中に差し込んだり、チップを入れたり、或いはステンレス醗酵のワインに後から樽を使ったりして、樽が強調され過ぎた感は否めないのだろうとも思います。
その後、そのスタイルはニューワールドから聖地フランスに戻ってきた様なイメージも持っています。
赤でも「新樽200%男」などと揶揄されたドミニクローランのワインは果たして「樽風味が倍」だったか?と言えばそうではなく結構柔らかな味わいでした。
オーキーと呼ばれたワインは果実=原料葡萄とのバランスの悪い作りだったのです。
事実、偉大な生産者のそれは「Too Oaky」に感じる事はありませんでした。
さて最近では「冷涼な」とか「酸が綺麗」「優しい」とか「繊細な」、或いは「ミネラルにあふれ」などの形容詞にひっぱっれている様に見受けられます。
それでいいんでしょうか?
「下手な樽風味」はいらないし「過熟した甘すぎる果実味」もちょっと残念なことがあります。
しかし「しっかりしたボディ」も「香ばしい豊かな樽熟成由来の香り」「つまったタンニン」も私にとっては必要な要素です。
「ロバートパーカー(著名なワインジャーナリスト)が悪い」と犯人捜しをするように樽を否定していると、むしろそれがワインの「優等生化」を招きます。
ガツンと樽が聞いたワイン、しっかりした果実味のワイン、酸の綺麗なワイン、冷涼なワイン・・・・
そういった幅があるからワインは面白いし、ソムリエの出番もあります。
「ステレオタイプにならない」が私の目指すところです。
樋口誠
それはそれで人気が高く、その頃のお客様は「忘れられない味わい」と好んでいらっしゃたと記憶しています。
赤に関しても若いうちから「丸いタンニン」を持ち素直に美味しいと言えるものでした。
しかし、ある時期=1990年台半ばころからでしょうか?
「シャルドネが消えた夏」なんて言う特集がワインの専門誌で出たり、「Too Oaky」=樽が効き過ぎ、的な表現が増えてきます。
確かに無理やり樽を効かせた、或いはオーク材のスティック的なものを樽中に差し込んだり、チップを入れたり、或いはステンレス醗酵のワインに後から樽を使ったりして、樽が強調され過ぎた感は否めないのだろうとも思います。
その後、そのスタイルはニューワールドから聖地フランスに戻ってきた様なイメージも持っています。
赤でも「新樽200%男」などと揶揄されたドミニクローランのワインは果たして「樽風味が倍」だったか?と言えばそうではなく結構柔らかな味わいでした。
オーキーと呼ばれたワインは果実=原料葡萄とのバランスの悪い作りだったのです。
事実、偉大な生産者のそれは「Too Oaky」に感じる事はありませんでした。
さて最近では「冷涼な」とか「酸が綺麗」「優しい」とか「繊細な」、或いは「ミネラルにあふれ」などの形容詞にひっぱっれている様に見受けられます。
それでいいんでしょうか?
「下手な樽風味」はいらないし「過熟した甘すぎる果実味」もちょっと残念なことがあります。
しかし「しっかりしたボディ」も「香ばしい豊かな樽熟成由来の香り」「つまったタンニン」も私にとっては必要な要素です。
「ロバートパーカー(著名なワインジャーナリスト)が悪い」と犯人捜しをするように樽を否定していると、むしろそれがワインの「優等生化」を招きます。
ガツンと樽が聞いたワイン、しっかりした果実味のワイン、酸の綺麗なワイン、冷涼なワイン・・・・
そういった幅があるからワインは面白いし、ソムリエの出番もあります。
「ステレオタイプにならない」が私の目指すところです。
樋口誠