つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

再来

2010年09月18日 | 日記
昨日の今日で、旦那さまと大通りのオータムフェストに出かけた。
厚岸町の焼き牡蠣が、20日までしか店を出さない。
19・20日は末っ子のお供で出かけなければならない。
今日しかないとわかって、午後から出かけることにした。
高校生の娘も末っ子も留守番でいいという…。

うまかった!
今日は焼き牡蠣とあさり汁、行者ニンニク入りフランクフルトなどなど
ビールもおいしく頂きました。

幸せ!
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2010年09月18日 | 徒然に、
excite ブログに「札幌日和下駄」というカメラマンさんだろうと思われる方のブログがあります。
載せられる写真の素敵なことと、それに合わせて綴られる文章の面白さに魅かれています。
札幌に戻り自分のPCに向かい、たまったメールを整理し、久しぶりに開けてみました。

ああ、私とおんなじだ。
専業主婦の私は緊張感が足りないせいかなとか、物覚えが悪いからかななど、
いろいろ言い訳を立てていましたが、仕事をされている方でもこうなんだとホッとしました。

私には子どもが4人います。
長くなった小学校PTAとの付き合いの中で、いいたい放題やりたい放題の生き方で結構目立っていた時期があります。こちらはわからなくても先方はよくご存じで、買い物に行った先などで声を掛けられます。
それに4人の子どものうち、どの子どもかの友達のお母さんと言うところまでは見当がついても、そこから先が皆目分からず、適当に話を合わせてしまうことがしばしばです。
反省することしきりなのですが、そんな状況なのでしっかり共感しました。

なので
札幌日和下駄 9月18日付 「思い上がりの夏」と題された文章を全文引用させていただきます。


ここ数日間、知らない人たちに声をかけられている。
全然知らない人たち、というわけではない。
正確に言えば、どうにも思い出すことのできない人たち、という意味だ。

「kelsさん」
声をかけられて振り向くと、知らない青年がそこにいる。
「お久しぶりです!」
笑顔を振りまいて、青年はいかにも感激しているのだということを全身で表現している。
うろたえていると、青年はさりげなく自己紹介をした。
「××です。あのときは本当にお世話になりました」
「ああ、××さん」
いかにも思い出したようなフリをするが、記憶のどこにも彼の存在がない。
「それじゃ、また」
青年は満足した様子で、その場を去っていった。

ここまでひどいものではなくても、思い出すことのできない人たちが続く。

「あれ、kelsさんじゃないですか」
振り向くと、どこかで見たことのある顔が、驚いたように僕を見つめている。
「ずいぶん久し振りですね。それにしても、こんなところでお会いできるなんて」
どこかで聴いたことのある声が、懐かしそうに浴びせかけられる。
簡単な昔話と簡単な近況報告をして、彼は立ち去った。
歩き始めてから、ようやく僕も彼を思い出す。
それは、決して遠すぎる昔ではない時期に、一緒に仕事をした仲間だった。

「どうでもいい存在だと思っているんじゃない?」と、彼女が言った。
エレベーターに乗りながら、そんなはずはない、と僕は思う。
「どうでもいいと思うことを記憶していないのよ。シャーロック・ホームズみたいに」

彼女の話を聞きながら、僕は眉村卓の「思いあがりの夏」という小説を思い出した。
とても暑い夏、頭がクラクラするような猛暑。
突然、周りの人たちが見えなくなる現象が世の中に広がった。
自分にとって存在の薄い者たちの姿が見えなくなるのだということが、学者の研究で解明され、それは世の中にパニックを引き起こした。
自分の存在を軽視されたことを知る人々は、怒りを爆発させ、社会に不信感の嵐を巻き起こす。
確か、そんな小説だった。

自分自身が思い上がっているとは、到底思えない。
どちらかというと、記憶容量の少ないことが問題だと、自分では考えている。
少ない容量の中に、どんな情報を保存しておくのか、それはとても重要なことであり、自分自身が決めなければならない問題である。

「kelsさん」
明日も通りすがりの誰かに声をかけられそうで、それが何となく憂鬱である。

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