つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

私ならどうする?

2013年02月07日 | 世の中で起こったこと

昨夜、旦那がいきなり大津のいじめ事件のことを話し出した。

「教育委員会や市はいじめを認めて、和解の方向に進んでるだろう?

だけど加害者の親が、あれは遊びだったと言い続けているらしいよ」

旦那は続けて

「俺なら、どうしただろうなあ・・・」 と言った。

わが子が、いじめの被害者になるのも、加害者になるのも、

それは本当に悲しい出来事で、それにきっとたまたまそういう流れが始まって

そこに誰も何も止める何もなくて、悲劇は結果に向かって進んでしまうのだろう。

親ならばきっと、わが子を守ってやりたい。 この後の人生を笑って過ごせるようにしてやりたいと、

必死になるだろうことも容易に想像できる。

 

でも、・・・

蜂を食べさせようとしたり、ガムテープで縛ったり、成績表を破いたり、・・・

百歩譲って、それを遊びだったといってもいいが、やられている相手は遊びだと思っていなかった。

そこが問題なのではないだろうか。

お互いがこうやって遊んで楽しいという共感が遊びと言えるので、相手は思っていなかっただろう。

いや二百歩譲って、それぞれが遊んでいるんだと思っていたとしても、

周りから見れば、それは違うと感じることがあったのだろう。

そこが重要なことなのではないか。

みんなで暮らしていくうえで意識の違いがあった。

子育てをしているものとして、それはもう取り返しのつかない「結果」でしかない。

さて、ここからが親の正念場、どうするべきなのか。

個々の出来事で親のとるべきありようは違って来るのは当然、

子どもの言い分を代弁していやるべき時もあるだろう。

だが、今回のこの場合はそうではないだろう。

私だったら、子どもと並んで謝り続けるしか術を見つけることができないだろう。

裁判という理論の積み重ねの場で、万が一「遊びだった」という論法が成り立ったとして、

その後、歩く道はどうなんだろう。 この子どもは救われることはない・・・だろう。

引き合いに出すのは不謹慎かもしれないが、ふと、東野圭吾の「麒麟の翼」を思い出した。

子どもと向き合うことができなかった父親が、最後に懸命に子どもと向き合った。

そうありたいと願うばかりだ。

世の中にはやっていいことと悪いことがある。

それを感覚的に覚えるのが、15歳くらいまでの子どもの頃だろう。

大津のこの親はわが子を守ろうとするばかりで、そういうことがあるということを教えることができなかった。

それがこの事件の本当の原因だろう。

 

どんなにハチャメチャな生き方でも仕方がない。でも、命を貶めるようなことだけは、

どんな大義名分があろうとやってはいけないことだ。

とりあえず旦那とは、そこらへんの共通の思いを確認した。

何かあったらわが子の起こしたことだもの、いつでもどこでも二人並んで謝りにすっ飛んで行く。

そういう覚悟だけはつけるようにしている。

コメント (2)
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