つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

こんな理屈

2014年03月15日 | 徒然に、

末っ子が久しぶりに「ドラえもん」にチャンネルを合わせた。

本当に久しぶりに観た。 うーむむむむ、どうもいただけない。

 

一緒に観ていた旦那が 「この頃、教育界でも「ドラえもん」がいけないんじゃないかと言いだす人がいる」

という。

 

“いじめ”や“いじわる”に対して、飛び道具を出してもらって相手をやっつける。

それでいいのか?

 

本当にそういわれるとその通りで、

でも、以前の「ドラえもん」だって同じような仕立てだったのに、どうして同じとらえ方ができないのだろう?

リメイクされている話だってあるのに、伝わってくるメッセージが違うのはどうしてなんだろう?

不思議で仕方がない。原作者が亡くなってしまったアニメはほかにもあるが、

こういう変わり方をしたものは見受けない。どうしてなんだろう?

私は今のは嫌だが、子どもたちは選びようもなく今のアニメを受け入れている。

旦那や末っ子とあれこれ話していてたどり着いたのは、

ドラえもんではなく、のび太君の声の演技だった。

のび太君がジャイアンをやっつけるのにあれこれドラえもんに言うのは、

無邪気な心からでないといけない。彼に悪気はないのだ。目先の楽ちんさを目指して無邪気に提案して、

ドラえもんがその無邪気な要求に、幼い子をなだめるように秘密道具を出してくる。

それは子どもが育つ過程の上で認められる“猶予”みたいなものだったはずで、

大きくなったら、大人になったら、こんな道具は使わないんだよ。

いつかジャイアンに負けないように育つ時がくる  というのがあったのではないだろうか?

今だけだよ ・・・

それが感じられない。

なんだかのび太君は良くなることがないまま、目つきの悪い未来型ロボットと一生をすねて暮らしていきそうだ。

 

のび太君は無邪気でなければいけない。

そこがまず出発点で、多分、大山のぶよさんの時代もそこから始まっていたのではないか。

決して、今の子どもたちの実態を写し取ってああなっているのだとは、思いたくないものだ。

 

声優 声を当てているだけではないのだなあ…深い深い仕事だ。

 

 

 

 

 

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義務

2014年03月15日 | 子育て

末の子どもが昨日、中学校を卒業した。

 

保護者としての義務を完了、なんだかとってもホッとしている。

後は野となれ山となれ!

何より、それぞれが曲がらず育ってくれたことに感謝です。

 

末っこが過ごしたこの学年は、真面目で、おとなしく、派手なことがあまりない学年でした。

小学校でも中学校でも、ほかの学年から、たまにその保護者から突き上げを食らう事の多い子どもたちでした。

でも、こうも変わらず優しいあの子どもたちを見ていると、

それをいけないことのように見る方が、間違っているのではないかと思うようになりました。

先へ先へ、前へ前へと、がつがつするばかりが生き方ではないと教えてくれているように感じます。

人にはいろいろなタイプがある。それを生かすように互いに生きていくのが最良だと教えてくれているようです。

 

 

 

卒業式後、学級に戻り、最後の学活が行われました。

一人ひとり成績表を渡しながら、先生が言葉をかけていきます。

そして子どもたちはみんなに最後の挨拶をしました。

末っ子は1組。 学年主任が受け持つクラスです。

3年生の2学期になってから転校してきたお子さんが何人かいます。

事情は伝えられませんでしたが、そんな時期に学校を変わってくるという事情はおおよそ想像がつきます。

その子の手を握りながら先生が小さな声でいいました。

「よく今日出てきてくれたね。短い時間だったね。

先生、あんまり力になれなかった。本当にごめんな」

にっこり笑って、彼は振り返って仲間にいいました。

「あんまり学校に来られなかったけれど、出てきたときのみんなの優しさとがんばりに勇気をもらいました。

ありがとう!」

そしてお母さんのほうを振り向いて

「○○子!大好きだよ!」

 

ああ、頑張ったんだ!

そして、きっと、先生はこの子としっかりと向き合おうとして見せたんだ。

教育はそういう事ではないのか?

この場にわが子を居させてくれて、神様ありがとうございます。

いろいろあって、いろいろ学校にも先生にも文句たらたら

私はモンスターペアレントだと思っているし、学校は信用しきれないものとこの20年間でしみついている。

だがそれでも、学校はわが子に最後までいろいろなことを教えてくれたように感じた。

通えないより、通えた方がいいに決まっている。それは間違いないようだ。

残念なことに卒業式に来ることができなかったお子さんが、一人いた。

あいている席を触りながら先生はみんなに向かって「先生の力不足でした」と謝った。

 

いろいろなことがあっていい。

いろいろなことを経験して先に進めばそれでいい。

勉強の点数がいいとか、足が速いとか、絵がうまくかけるとか、クラスをまとめるのが上手だとか、

そんなものが15歳の子どもの評価であっていいはずがない。

彼らはまだ自分で生きるスタート台に片足をかけているだけだ。

彼らのまばゆい未来の輝きに比べたら、内申だの、偏差値などに一喜一憂する己が実にみすぼらしい。

 

さあ、周りに惑わされるんじゃないよ!

自由にのびのびとまっずぐに手を伸ばす努力さえいとわなければ、未来は常に光に満ちているんだよ!

それは、もう大分に先まで来た人生の先達として保障する。

 

頑張れ!

そして、おめでとう!

おまけにいつでも泣かせてくれて、ありがとう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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