末っ子が久しぶりに「ドラえもん」にチャンネルを合わせた。
本当に久しぶりに観た。 うーむむむむ、どうもいただけない。
一緒に観ていた旦那が 「この頃、教育界でも「ドラえもん」がいけないんじゃないかと言いだす人がいる」
という。
“いじめ”や“いじわる”に対して、飛び道具を出してもらって相手をやっつける。
それでいいのか?
本当にそういわれるとその通りで、
でも、以前の「ドラえもん」だって同じような仕立てだったのに、どうして同じとらえ方ができないのだろう?
リメイクされている話だってあるのに、伝わってくるメッセージが違うのはどうしてなんだろう?
不思議で仕方がない。原作者が亡くなってしまったアニメはほかにもあるが、
こういう変わり方をしたものは見受けない。どうしてなんだろう?
私は今のは嫌だが、子どもたちは選びようもなく今のアニメを受け入れている。
旦那や末っ子とあれこれ話していてたどり着いたのは、
ドラえもんではなく、のび太君の声の演技だった。
のび太君がジャイアンをやっつけるのにあれこれドラえもんに言うのは、
無邪気な心からでないといけない。彼に悪気はないのだ。目先の楽ちんさを目指して無邪気に提案して、
ドラえもんがその無邪気な要求に、幼い子をなだめるように秘密道具を出してくる。
それは子どもが育つ過程の上で認められる“猶予”みたいなものだったはずで、
大きくなったら、大人になったら、こんな道具は使わないんだよ。
いつかジャイアンに負けないように育つ時がくる というのがあったのではないだろうか?
今だけだよ ・・・
それが感じられない。
なんだかのび太君は良くなることがないまま、目つきの悪い未来型ロボットと一生をすねて暮らしていきそうだ。
のび太君は無邪気でなければいけない。
そこがまず出発点で、多分、大山のぶよさんの時代もそこから始まっていたのではないか。
決して、今の子どもたちの実態を写し取ってああなっているのだとは、思いたくないものだ。
声優 声を当てているだけではないのだなあ…深い深い仕事だ。